雅楽ががく

雅楽とは

  「雅楽(ががく)」は古代中国において孔子の礼楽思想を基礎として発達した神楽のことで、当時の俗楽に対して「雅正の楽」とされたところから雅楽の名が生じた。日本に伝えられた雅楽は、実は上記の俗楽であったとされるが、とにかく六世紀頃から「中国の雅楽」とその分派である「朝鮮の雅楽」とが相次いで日本に伝来した。中国大陸や朝鮮半島の雅楽が時代の流れの中で途絶えたり形を変えたりした一方、日本の雅楽は平安時代の初期から中期にかけて曲目・楽器構成・音楽理論などが整理され、その時点でほぼ現在の形に落ち着いた。
  中国伝来の雅楽を「唐楽(とうがく)」といい、これには「林邑(りんゆう)楽」もあった。また朝鮮伝来の雅楽は総称して「高麗楽(こまがく)」または「三韓楽」ともいって、「高句麗(こうくり)楽」・「新羅(しらぎ)楽」・「百済(くだら)楽」があった。厳密にいうと雅楽は上記の2系統に限るが、一般には広義に解釈して、これにわが国古来の「国内楽」を雅楽に含むのである。国内楽には神楽のほかに「田舞(たまい)」・「東遊(あずまあそび)」・「倭(やまと)舞」・「五節(ごせち舞」などがあり、いいかえると、古来の神楽は律令政府によって雅楽のうちに組み込まれたのである。
  大宝元年(701年)に雅楽のことを掌る官署として「雅楽寮(うたまいのつかさ)」が設置され、頭(かみ)以下の官人とともに楽人(がくじん)の定員も定められた。楽人というのは実際に歌舞を演じるものの総称で、「楽師(がくし)」・「楽生(がくしょう)」などがあった。十世紀の始めに大内裏の桂芳坊に新たに「楽所(がくそ/がくしょ)」が設けられ、別当・預などの職が置かれて楽人はそこに所属することになった。楽人はもと近衛の官人が任じたが、のちに世襲制が起こり「楽家(がくけ)」が成立した。楽家には楽所に属するもののほか、春日神社・四天王寺に奉仕する楽家も生まれ、それぞれ家風を伝えた。
  中世になって雅楽が衰微し、殊に応仁の乱(1467年)後は楽人も四散したが、16世紀末にこれら3箇所の楽人が旧に復しこれを「三方楽人」という。近世に入って三方楽人のうちから江戸幕府に召抱えられたものがあり、これを「紅葉山楽人」と称した。明治維新に際して従来の楽所は「雅楽局」、楽人は「伶人(れいじん)」と改称されたが、明治10年(1877年)に雅楽局はさらに「楽部(がくぶ)」と改め、伶人の称を廃してすべて「楽師」と称するようになった。そして現在では「宮内庁楽部」と名称が変わっている。



雅楽の歴史

●飛鳥・奈良時代
  雅楽は最初、朝鮮半島から仏教とともに日本にやってきたといわれ、朝鮮民族は古来より音楽を好み、そのさまは『後漢書』・『三国志』にも記されている。高句麗(こうくり)の音楽は随・唐時代の中国でも流行しており、その朝鮮で育まれた音楽が日本に伝わってきた。現在、雅楽で「高麗楽」と呼ばれる音楽がそれだとされている。
  589年、長く南北に分裂していた中国が隋王朝のもとに統一されると、日本は遣隋使(けんずいし)・遣唐使(けんとうし)を送って中国の文化を摂取するようになり、同時に音楽も輸入された。これは「唐楽」とよばれ、後に雅楽の主流をなすようになった。
  701年に大宝律令が完成し、日本は律令国家の第一歩を踏み出した。大宝律令は二官八省制を採っているが、その太政官治部省(じぶしょう)に日本で初めての本格的な音楽機関である「雅楽寮(うたまいのつかさ)」が設置された。当初、この雅楽寮の楽人は渡来人が中心であったが、こうした公的な音楽機関とは別に経済力のある寺院では、独自の楽人を抱え種々の法要で演奏させていた。
  752年に行われた東大寺の大仏開眼会(かいがんえ)では雅楽寮や南都諸大寺の楽人により雅楽が演奏さ、この開眼会では雅楽・伎楽(面をかぶって音楽に合わせて舞う舞踊劇)が一日中演奏されたという史上最大規模の大法要だったようである。このときに使用された楽器や装束などは正倉院に保管されて現代に伝わっているが、雅楽寮は律令国家の解体とともに衰退していくことになる。

●平安時代・・・全盛期
  雅楽寮は衰退したが、日本人の雅楽への関心は薄れることなく、平安時代に入るとますます盛んになっていった。それに伴い、これまで外来の音楽であった雅楽が、急速に日本化していくことになる。
  9世紀に入ると楽器編成・理論・演目などに変化が現れはじめ、現在の雅楽とほぼ同様の形態になった。そして10世紀になると「楽所(がくそ)」が成立し、この楽所はもともと「楽人の詰め所」といった意味であったが、次第に臨時の音楽機関となり最終的には常設の機関へと発展していった。京都の内裏(だいり)に楽所が置かれたのは948年で、興福寺・春日大社(奈良)などの寺社楽所が成立したのが1000年前後とされている。また、これとは別系統の楽所が四天王寺(大阪)にあり、聖徳太子の近侍者の豪族であった秦河勝(はたのかわかつ)を祖とする天王寺楽所であった。
  雅楽の最盛期は平安中期、10世紀から12世紀とされ、このころの雅楽は王朝文化の中心に位置しており、中国や朝鮮から伝来した曲だけではなく、日本人による作曲も多数作られた。管・絃・舞など家ごとにつかさどる楽器が定まり、その家だけに伝わる秘伝・秘曲も生まれた。しかしながら、雅楽はあくまでも貴族文化の一部であり、庶民とはかけ離れた世界を形成していたため、貴族の没落とともに雅楽は衰退していくとになる。

●中世・・・衰退期
  中世において雅楽は全くふるわず、庶民とのつながりのあった天王寺楽所のみが何とか命脈を保っていた。さらに1467年に「応仁の乱」が起こると京都は主戦場となり、そのため京都の楽人が四散して雅楽は伝来以来最大の危機を迎えることになる。この危機を救ったのが豊臣秀吉で、秀吉は京都方の楽人を補うために天王寺楽所より楽人を召し出し、雅楽の復興とその保護を行った。この結果、京都・南都(奈良)・天王寺の楽所は全く対等な立場となり、以後この3楽所は「三方楽所(さんぽうがくそ)」と呼ばれるようになる。
  このころ、雅楽の教習を受けることを許されていたのは雅楽を代々受け継いでいる家である「楽家」のみで、一般人が雅楽を習うことは禁止されていた。こうした制限がなくなったのは明治時代に入ってからで、明治3年(1870年)の宮内省雅楽局編成で三方楽所の楽人がほとんど東京に参向したため、近畿の雅楽界が人手不足に陥ったのが原因であった。一般人への雅楽教習が認められたのは1873年のことである。

●現在
  現在、三方楽所は京都の「平安雅楽会」、奈良の「南都楽所」、大阪の「天王寺楽所雅亮会(がりょうかい)」となり、伝統を引き継ぎつつ一般人も受け入れて教習を続けている。他にも民間の雅楽団体は数多く活動しており、大学のサークル活動で雅楽を演奏するところもある。この他には寺社仏閣の祭事や結婚式など、雅楽を耳にする機会は以外に多く存在する。

雅楽の種類

  雅楽は楽器の編成や目的、何が主になるかなどにより、次のように大きく3つに分けられる。

@国振歌舞・・・神楽、東遊、久米舞など
  「国振歌舞(くにぶりのうたまい)」もともとは神への捧げものとして始まったもので、長い年月の間に特定の場所・目的を持って演奏されるようになった。全国の神社に固有のものが見られるが、主として宮廷の行事や儀式に結びついて今日に至っている。一般に公開されることはほとんどないため、雅楽といってもこれを思い浮かべることはほとんどいない。

A大陸系の楽舞・・・唐楽、高麗楽
  「大陸系の楽舞(がくぶ)」は大合奏や大合奏の伴奏による舞を楽しむもので、一般的に雅楽というとほとんどこれを指す。中国大陸からきたものを「唐楽(とうがく)」、朝鮮半島からきたものを「高麗楽(こまがく)」と呼ぶ。現行の高麗楽は舞をともなう音楽だけが伝承されているが、唐楽は舞をともなうものと合奏だけのものとの2つがあり、前者を「舞楽(ぶがく)」、後者を「管絃(かんげん)」と呼んでいる。唐楽の場合、同じ曲を舞楽で行ったり管絃で行ったりするが、単に舞があるかないかだけでなく音楽自体にもバリエーションがあり、楽器編成や曲の表現方法などに違いが見られる。

B平安の歌曲・・・催馬楽、朗詠
  唐楽や高麗楽が基本的に輸入音楽であったのに対し、この「平安の歌曲(かきょく)」は国内で生まれた。外来音楽をたしなんだ貴族たちが漢詩や和歌に唐楽や高麗楽の旋律をつけて歌うもので、現在では管弦の演奏の合間に歌われる。「催馬楽(さいばら)」は和歌によるもので、「朗詠(ろうえい)」は漢詩によるものである。



雅楽で使われる楽器

  雅楽では打楽器を「打物(うちもの)」、絃楽器を「弾物」、管楽器を「吹物(ふきもの)」という。

雅楽で使われる楽器
打物鞨鼓、太鼓、鉦鼓
弾物琵琶、箏
吹物笙、篳篥、龍笛

打物(打楽器)
●鞨鼓
  「鞨鼓(かっこ)」は雅楽合奏のなかではリーダーにあたる役割を担っている。筒状の胴の両面に紐で締め合わせた鞁(かわ)を張り、横にして台の上に置く。細長い2本の桴(ばち)を左右に持って横から打つが、拍子の種類によって左右の桴で打つものと、右の桴のみで打つものがある。「来(らい)」という次第に早くなるトレモロ奏法が主体で、片手で行う「片来(かたらい)」と両手で行う「諸来(もろらい)」があり、この他には「正(せい)」という単発の打ち方がある。
●太鼓
  「太鼓(たいこ)」は「釣太鼓(つりだいこ)」・「楽太鼓(がくだいこ)」ともいう。雅楽では時間は周期的に繰り返すという考えがあり、太鼓が時間の周期を表している。鋲(びょう)打ちの太鼓を丸い木枠の中に三方から紐で固定し、これを先が太くて丸い鹿皮で包んだ2本の桴を両手に持って打つ。左手のやや弱い打ち方を「図(ず)」、右手の強い打ち方を「百(どう)」といい、図と百の組み合わせによってさまざまなバリエーションがある。
●鉦鼓
  「鉦鼓(しょうこ)」は雅楽では唯一の金属楽器で、太鼓の音色にアクセントをつけること、小拍子(こびょうし)を告げることなどの役割がある。深皿型をした金属を丸い木枠の中に三方から紐で固定し、凹面を先の丸い桴で打つ。片手で打つ「金(きん/ちん)」と両手で打つ「金金(ききん/ちちん)」があり金金は必ず左手が前打音的に入る。

弾物(絃楽器)
●琵琶
  雅楽の「琵琶(びわ)」はほかの様々な琵琶と区別するために「楽琵琶(がくびわ)」ということもあり、現行の琵琶である「薩摩(さつま)琵琶」や「筑前(ちくぜん)琵琶」などのなかでもっとも大きい。沢栗(さわぐり)や花梨(かりん)などの硬い木を用いた胴と絹糸から出る音色は、大音量の楽器が集う雅楽の合奏のかなでも十分な力強さを感じさせる。曲においては拍の頭を決める役割を担っており、低音から高音に向かっての力強いアルペジオ奏法の掻撥(かきばち)、2音ずつ弾く割撥(わりばち)、掻撥とは反対に高音から低音へ弾く返撥(かえしばち)などがある。
●箏
  「箏(そう)」は他の様々な箏と区別するために「楽箏(がくそう)」ともいい、一般的には「こと」と呼ばれている。もともと「こと」は絃楽器全体を表す言葉で、柱(じ)を立ててあらかじめ音律を作っておく楽器を「箏のこと」、柱を立てずにそのつど響かせる絃の長さを変えて音程を作る楽器を「琴(きん)のこと」という。箏は桐製の胴に13本の絹糸が張られており、これを右手親指・人差し指・中指にはめた竹製の爪で演奏する。ゆったりした趣の「閑掻(しずかき)」と軽快な趣の「早掻(はやがき)」があり、2つの音型が演奏の主体となっている。琵琶が拍の頭を決める役割なのに対し、箏は全体のテンポをつかさどる。

吹物(管楽器)
●笙
  「笙(しょう)」は17本の細長い竹管を頭(かしら)と呼ばれる椀(わん)型の円周上に、縦に並べた独特の形をしている。これは伝説上の鳥である鳳凰(ほうおう)が翼を休めている姿を模したといわれ、そこから「鳳笙(ほうしょう)」とも呼ばれている。竹管の一番下の部分にはリードである「簧(した)」が付き、これが振動して音が鳴るしくみで、この発音構造はのちにハーモニカに応用されたといわれている。17本のうち2本は音が出ず、残りの15本を使って演奏をする。各管には小さな指孔(ゆびあな)が1つ開いており、息を吹きながら(あるいは吸いながら)孔をふさぐことによって音が出る。
  「合竹(あいたけ)」と呼ばれる5〜6音からなる和音による演奏が主で、雅楽の中では全体を包み込むような趣がある。1つの合竹から別の合竹に移る際の指の動かし方を「手移り」といい、雅楽の曲を進めていく上で次の旋律を導き出す重要な役割を担っている。直径が約7cm、長さが約50cmで音量は大きくないが、遠鳴りのする音色のため篳篥や龍笛の音量にかき消されることはない。演奏する前後に炭火を炊いた火鉢や電熱器で楽器を温めるが、これは吸気によってリードの振動部分に水滴がつくと鳴りにくくなるためである。
●篳篥
  「篳篥(ひちりき)」は竹製で9つの指孔(表7・裏2)があり、上部はやや楕円形に作られ、下部は細くなっている。指孔と指孔の間の盛り上がっている黒い部分は樺(かば)や籐(とう)を巻いて漆で固め、本体に「盧舌(ろぜつ)」というリードを差し込んで演奏する。本体が約18cm、盧舌が6cmという独特なバランスにより倍音が出ず、その音域は1オクターブである。雅楽の中では主旋律を演奏するが、音域が狭いため曲線を活かした装飾的な動きを多用する。これを「塩梅(えんばい)」といい、押さえている指を動かさずに舌のくわえ方や息の入れ方で音程を変えるという、篳篥ならではの演奏法である。
●横笛(龍笛・神楽笛・高麗笛)
  雅楽の横笛(よこぶえ)は唐楽で使われる「龍笛(りゅうてき)」のほかに、神楽に使われる「神楽笛(かぐらぶえ)」と高麗楽で使われる「高麗笛(こまぶえ)」があり、3種類の横笛をまとめていう場合には「横笛(おうてき)」という呼称を使う。そのなかでもっとも使用頻度が高いのが龍笛(長さ約40cm)である、龍笛は竹製で7つの指孔(神楽笛と高麗笛は6孔)があり、歌口(吹口)の両側や指孔と指孔の間の盛り上がっている部分は、樺(桜の樹皮を細長く切ったもの)や籐を巻いて漆で固め、管の頭(かしら)の部分には鉛が入っている。
  雅楽は本来、屋外で演奏されるもので、そのため楽器に大きな音量が求められた。そこで鉛を入れたり樺や籐を巻いて漆で固めることにより、芯のある大きな音量が出るように工夫されている。音域は約2オクターブで、音域の狭い篳篥をカバーするように華麗で細かい動きをする。篳篥が主旋律を担うのに対し、龍笛は主旋律を彩る動きをする。唐楽の管絃の曲では音取(ねとり)や調子(ちょうし)といった特別な種類の曲以外は、龍笛のソロ演奏である「音頭(おんど)」から始まるため合奏では重要な役割を果たす。



お蔵入りした楽器

  現在の雅楽は上記で紹介した楽器のほかにも、舞楽で使われる巨大な太鼓や歌物に使われる和琴などがあるが、奈良から平安時代にはもっと沢山の種類の楽器が使われていた。9世紀半ばごろから楽曲・楽器・音楽理論などの整理が行われ、雅楽の日本化がなされたが、そのときに整理された楽器は奈良の正倉院に収められ、現在までに残っている楽器は次の通りである。

正蔵院に収められた楽器
分類名称
打楽器腰鼓(ようこ)・細腰鼓(さいようこ)・方響(ほうきょう)
絃楽器和琴(わごん)・琴(きん)・瑟(しつ)・箏(そう)・新羅琴(しらぎごと)
七絃楽器(しちげんがっき)・箜篌(くご)・阮咸(げんかん)
琵琶(びわ)・五絃琵琶(ごげんびわ)
管楽器尺八(しゃくはち)・横笛(おうてき)・排簫(はいしょう)・笙(しょう)
?(う)

  楽器編成の整理によりそれ以降の雅楽から除外され、正倉院にお蔵入りした楽器の多くは、その後直接ほかの分野の音楽に転用されることはなかった。しかし、正倉院に大切に保管されていたため、ものによってはほぼ完全な形で現代までその姿を保っていた楽器も存在する。

●箜篌
  「箜篌(くご)」は日本版ハープともいえるが、西洋のハープが三角形の枠の中に絃を張っているのに対し、箜篌はL字に組んだ胴と腕木(うでぎ)によって絃を張っている。そのため各絃を調弦(ちょうげん)していくと腕木がしなり、すでに調弦してある絃の音が下がっていくため、調弦には熟練が必要となる。ちなみに胴は船の形を模したといわれている。
  正倉院には2つの箜篌が伝世していて、絃の締め方が異なる。一つはギターやバイオリン、琵琶などと同じく糸巻き式で、「轉軫箜篌(てんじんくご)」と呼ばれている。もう一つは組み紐で調弦するもので、「?軫箜篌(じょうしんくご)」という。いずれも絃は絹製で、23本の絃が張られている。

●方響
  「方響(ほうきょう)」は上円下方の小さな鉄板に穴をあけ、紐を通して梁木(はりぎ)に横に並べてつるし、桴で打つ金属打楽器である。いわば一種の鉄琴といえ、同属の楽器は東アジアに見られる。正倉院には9枚の鉄板が伝世しているが、16枚で1組となり、木製のスタンドに上下2段にかける。

●?
  「?(う)」は笙を大型にした楽器で、管数や発音機構などは笙と同じで、笙より1オクターブ低い音域が出る。お蔵入りした経緯は不明であるが、低い音域の楽器であったことが原因の一つだと思われる。

●排簫
  「排簫(はいしょう)」はいわゆるパンパイプ型に属する楽器で、世界中に同属の楽器が見られるが、日本では平安期以降に演奏の舞台から姿を消した。18本の横に並べた煤竹(すすだけ)を木枠で固定し、横木の独特な形は雲を表しているといわれる。各管の内部に濡らした和紙を詰め、その位置を移動させることで音律を自在に変えられるという、現在の西洋のパンフルートより進んだ機構持っていた。


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参考文献
タイトル著者/編集出版/発行出版年
はじめての雅楽 笙・篳篥・竜笛を吹いてみよう笹本武志(株)東京堂出版2003(平15)
はじめての世界音楽 諸民族の伝統音楽からポップスまで柘植元一・塚田健一(株)音楽之友社1999(平11)

  ※上記の文献は他のページでも引用していることがあります。