山北道祖神祭やまきたどうそじんさい
(萩原庭編)

萩原庭について

  萩原は上(かみ)と下(しも)に分かれていて、上だけで道祖神の祭りを行ってきた。昭和16年(1941年)頃に隣組制度を導入した際に、上の中から中(なか)組が分離し、昭和17年(1942年)以降は上と中とで行ってきている。平成12年(2000年)頃は上が90戸、中が40戸ほどで、上・中とも一軒ずつ順に道祖神の係りになる。任期は1年で、不幸などでヒにかかると係りから外れる。
  萩原上には地蔵堂(尊)があり、台(だい)、萩原上・中・下、馬場と田屋敷の一部で祀っている。道祖神は地蔵堂の傍らに位置し、場所の変更はない。



  祭りは尋常高等小学校1年生から高等科2年生までの男子が主になり、最上級の子がガキ大将になり、最上級の子が複数名いる場合は全員が親方となる。ヤドはなく、地蔵堂がたまり場だった。地蔵堂の近くの家がたまり場になることもあった。
  萩原庭では祭りの為に松を山から取ってくることはなかった。これは萩原庭は戸数が多く、煤掃きの竹や松などが大量に道祖神に納められ、材料に事欠くことがなかった為である。
  七草の日以降に「道祖神の小屋」を作る。萩原では七日に正月のお飾りを下げるが、それを集めて材料とする。箱型で広さは一坪半、高さは約1.8m、竹を柱にして、周りを松・竹・藁で作る。正面中央に入口を設け、茣蓙を垂らす。中に道祖神を納めて太鼓を叩く。中では火を燃やすことはなかった。他の庭の子供達が小屋を壊しに来るので、夜遅くまで番をする。こちらが壊しに行くこともあった。幟は立てない。
  数日アクマッパライを行う。お祓いの竹の棒を持つ。面はつけない。「アクマッパライ、アクマッパライ」と唱えながら歩き、家々の玄関で家の人からお金・餅・菓子などを貰う。くれないと道祖神を持って行ってその家の前に置き、「ヤマセ、ヤマセ」といいながら道祖神を竹で叩く。それを嫌ってどの家でも寄付してくれた。一晩で全ての家を回りきることはできないので、何日かかける。お札は配らない。なお、道祖神の上部が欠けているのは叩いたためである。

花車

  萩原庭の屋台は大正初期に製作されたといわれ、「大正十五年一月吉日 萩原上庭台帳」には「提灯の部」があり、当時も晩に屋台が曳かれていたことがわかる。昭和18年から昭和20年までを除いて正月14日の晩に庭廻りを続けてきたが、明治100年祭にあたる昭和43年(1968年)に、連合自治会の主催により他の庭と合同で屋台を曳く様になった。それ以降は14日に庭廻りをして、15日に合同で屋台曳きを行うようになった。



セエトバライ

  14日の夕方に河原でセエトバライをする。これに間に合うようにオンベを立て、その周りに燃やすものを積み上げる。オンベの先端に弓矢を付けることもあった。萩原上の人たちが集まって来て団子焼きをし、この団子を食べると風邪をひかないという。小屋は壊して焼く、道祖神は火の中に入れない。



ザンバライ

  15日の晩に子供達は地蔵堂でザンバライをする。貰った菓子・ミカンやおにぎりを食べる。ザンバライとは残ったものを処分するという意味である。



  直前の日曜日にセエイノカミを地蔵堂の前に置き、小屋がけする。「セエノカミの祠」と呼び、セエノカミが収まる程度の大きさのものを桧の葉と竹で作る。これに「喜捨筒 萩原上中道祖神」と記した竹製の賽銭箱を作って置く。14日には紅白の団子・ロウソク・ミカン・線香を供える。この祠は15日の屋台曳き終了後に、屋台の花飾りと共に地蔵堂前で焼かれる。この日に子供が生まれた家では、子供の祝いなので子供の名前で寄付をする。また、セイトバライは竹のオンベを立てて上部にダルマをつけ、周りに松や、古くなった人形・神棚・稲荷の鳥居・ダルマなどを積み上げる。15時頃に点火し、子供達が太鼓を叩く中、団子を焼く。アクマッパライはしない。なお、太鼓の練習は4日から毎晩、地蔵堂で行っている。



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