浜降祭はまおりさい

  古来より水には身体についた穢れを洗い流して清浄にする神聖な力があると信じられていた。この考え方は古くから存在しており、文献の上では既に3世紀に成立した『魏志倭人伝』の中に、死体を葬ったあと水中で澡浴することがみえている。この水の清浄力によって穢れを洗滌する宗教的儀礼を「禊(みそぎ)」といい、禊は「身滌(みそぎ/みすすぎ)」の意とされる。海や河川などの水による禊に対して、とくに水を必要としないで穢れを清浄にする宗教的儀礼を「祓(はらい)」という。禊と祓は本来は異なるものであるが、しばしば混同されることがある。
  禊はイザナギの命が黄泉国(よみのくに)から逃げ帰って来た時、筑紫の橘の小門(おど)で海水に入って身を清めたのをその起源とし、現在でも水垢離(みずごり)と称する水浴の法が民間で行われている。神聖な水の力によって穢れを清め、神に近づこうとする禊神事は古代以来、伊勢神宮や加茂社など種々の神社で行われてきた。



浜降祭

  毎年7月15日の早朝に茅ヶ崎市の南湖(なんご)海岸で執行される禊神事を「浜降祭(はまおりさい)」といい、神輿が浜に降って海水に沐浴する神事である。海辺や川辺で禊をする浜降は、水の持つ穢れを祓う呪力によって御神威新たな神々を奉迎しようとする神事である。神事を行うにあたって神官などが禊をしたり、あるいは潮水を汲んで祭場を清めたりして祭事の一部となり、さらに神輿が海浜に御幸して海に入ることが浜降行事や浜出行事として祭りそのものとなったりする。
  浜降は広く日本全国にみられる祭礼行事で、一名「ハマクダリ」とも「ミソギ」ともいわれ、全国的に共通する呼称である。浜降は九州方面では「ハマトクダリ」といい、福島方面では「ハマクダイ」、また伊勢には「浜出神事」、京都には「御輿洗い」などがある。神奈川県内にもいくつかの浜降神事があり、記録の上では古く『吾妻鏡』に鎌倉の鶴岡八幡宮の浜出神事がみられる。一方、奄美地方では海上他界の観念に基づいて海上から浜の仮小屋に祖霊を迎えて共食するという、禊とは別の機能も浜降の行事が果たしている。浜降の「ハマ」とは古代より神の降臨を意味するともいわれており、南湖における祭場の一角には寒川大神降臨の故地と伝承されているところがある。
  関東地方では祇園信仰・天王信仰と結びついて、神輿の海中渡御が特に盛んで、茨城県の鹿島宮および北茨城市佐波神社のお船祭り、千葉県勝浦市遠見崎神社の浜下り、同一宮町玉前神社の十二社祭り、同館山市洲崎神社の浜降り、大磯町高麗神社の浜降祭、真鶴町貴船神社の船祭、平塚市春日神社の腕骨祭り、横浜市本牧神社のお馬流し、など枚挙にいとまがない。これらの祭りに共通していえることは祭神の神幸による禊行事によるものが多く、なかには祭神が海辺への漂着神であったことから、その由緒を毎年再現するために浜に降りることもある。
  茅ヶ崎市の南湖浜で行われる神事は当初、寒川神社および鶴嶺八幡宮がそれぞれ独立して行っていたものであったが、明治に入り合同祭典となり、近隣神輿供奉を認められて年々その倍加を見て今日に至っている。多数の神社が参加する例はきわめて稀で、現在、寒川町や茅ヶ崎市から30数基の神輿が7月15日の早朝に南湖海岸へ集結して執行される。近年になって参加するようになった子供神輿も加えると、40基以上にもなる大掛かりな禊神事である。以降はこの南湖海岸で執行される浜降祭に対する記述である。



祭日の変遷

  浜降祭が7月15日に執行されるようになったのは明治になってからであり、寒川神社では江戸時代に旧暦の6月15日に行われていたようで、明治4年(1871年)の記録にも6月15日と記されている。明治6年(1873年)から大祓の神事に合わせて新暦の6月30日に行われるようになった。一方、鶴嶺八幡社は古くから6月29日を水無月祓(みなづきはらい)と定めて、南湖海岸で禊神事を行っていたという言い伝えがある。
  現在の浜降祭は寒川神社の禊神事であるとともに、鶴嶺八幡社の神事という一面も有しており、それには両社の複雑な関係が係わっている。明治6年12月に鶴嶺八幡社が寒川神社の摂社となるにともなって、翌明治7年(1874年)には禊神事である浜降祭を両社共同で執行している。しかし、この時期は田植えにあたり農作業が繁多なので、両社が6月30日に行っていた浜降祭を明治9年(1876年)に7月15日に変更した。しかし、明治10年(1877年)には鶴嶺八幡社の摂社が解除され、それにともなって翌明治11年(1878年)からは再び禊神事を両社で単独に執行することになった。そして、大正12年(1923年)に両社が浜降祭を共同執行して以来、そのまま現在に至っているという複雑な経緯がある。
  浜降祭の長い歴史のなかでは中止のやむなきに至ったこともあり、明治34年(1901年)には不景気のため、大正2年(1913年)は明治天皇が亡くなったために中止となっている。明治37年(1904年)のように水害のために、玉串を奉奠するだけにとどまった年もあった。赤痢が流行した明治32年(1899年)には中止の指令が出たのに対して、祓は悪を払うとの理由であえて執行したこともあった。
  このように長きに渡って7月15日に行われてきた浜降祭であったが、平成8年(1996年)の7月20日に「海の日」が施行されると、翌平成9年(1997年)からは祭日が7月20日に変更された。さらに祝日法の改正である「ハッピーマンデー制度」により平成15年(2003年)から海の日が7月第3月曜日になると、この変更に合わせるように翌年の平成16年(2004年)から浜降祭も7月第3月曜日になった。



江戸時代の浜降祭

  浜降祭がいつ始められたかを示す正確な史料は現在のところ発見されておらず、その起源を記したものはいずれも後年のもので、いくつかの伝承のみが存在している。以下に史料に基づいた浜降祭の歴史を、時代ごとに紹介していく。

●安永9年(1780年)の浜での祭り
  江戸時代の史料としては寒川神社所蔵の安永9年(1780年)1月の『当社年中祭附并神領石高帳』があり、寒川神社の祭礼日とその担当者が記されている。その6月の条を見ると以下の記述がみえる。

「  同十四日
    御神酒  弥三郎
    御神酒  作右衛門
  同十五日浜二而
    御供ト
    御神酒  弥三郎 」

  ここでは「浜降祭」と明記されていないが、江戸時代から陰暦の6月15日に浜で御供物や御神酒をあげる慣わしがあったことがわかる。「浜降祭」という語句の初見は、明治4年(1871年)に寒川神社の経費を日ごとに書き上げた史料で、同じ旧暦の6月15日の条に「浜降祭 御供 神酒」とある。これらを考え合わせると安永年間(1772〜80年)には既に浜降祭が行われていたと推測され、前日の6月14日は寒川神社で行われる浜降祭の前祭のことであると思われる。しかしながら、安永9年に浜でどのような儀式が行われていたのか、寒川神社の神輿が浜まで出掛けていたのか、また近隣の村から神輿が出されていたのかはいずれもわからない。
  安永9年の史料からみると6月14日は弥三郎と作右衛門が浜降祭の担当者であったため、神前に酒を供えたと考えられる。翌15日には浜(南湖浜かどうは分からない)での祭場に、弥三郎がお供え物と酒を出していることがわかる。ここで弥三郎とは原弥三郎のことで、寒川神社の社人の一人である。寒川神社の社領一〇〇石のうち、一石七斗二升の配分を受けている。また、作右衛門は金子作右衛門のことで同様に社人であり、同じく六斗四升の社領を配分されている。江戸時代の寒川神社には多くの社人がおり、それぞれ若干の石高の配分にあずかり、年間数多く行われる祭礼を分担して奉仕していた。

●天保11年(1840年)の浜下り
  もう一つ江戸時代の浜降祭に関連すると思われる史料は、天保11年(1840年)4月に南湖の鈴木孫七が京都の白川家の神祇官触頭軍多利日向介に提出した願書で、その一節には次のように記されている。

「  相模国高座郡茅ヶ崎村小名南湖浜字石尊山にこれある当国一之宮寒川神社浜下り御旅所進退まかりあり候に付、神拝浄目式御伝達下し置かれ有り難き仕合せに存じ奉り候、しかる上は子孫永久継目仕り神勤相続仕るべく候 (後略) 」

  これによると寒川神社の「浜下り」の神事がこの頃も「南湖浜」で続けられていたことがわかる。この後も浜降祭の世話役となる鈴木孫七が、この時に寒川神社御旅所の神主になっていることもわかる。そして彼は同年11月に白川神祇伯家へ入門し、その折に差出した願書には次のような文面がみられる。

「  一之宮寒川神社御旅所神主家来年衰廃にて継目仕らずまかり過ごし候所、右村初五郎義由緒これあり候に付、右神主家相続仕り候、これにより今般御殿御官門に召し加えられ (後略) 」

  これによるとこの頃には御旅所の神主家が廃絶していたものを初五郎(鈴木孫七)が神主になり、復興しようとしている様子がうかがえる。いずれにせよ、江戸時代において寒川神社で浜降祭が行われていたこと、旅所が南湖の浜辺にあったことはこの史料で伺い知ることができる。

●もう一つの浜下り
  もう一つの史料は江戸時代に寒川神社と同様の浜降り神事を南湖の浜で行っていた神社があったことを示すもので、その神社の所在地は高座郡浜之郷村(茅ヶ崎市)である。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には文政6〜7年(1823〜24年)頃の様子を示しており、高座郡浜之郷村の項にによるとこの村には鶴嶺八幡社と佐塚明神社が並立して、両社は同じ境内であったことがわかる。この2社が近村を含めた鎮守社であり、近村とは浜之郷をはじめ下屋町・円蔵・西久保・矢畑・松尾・茅ヶ崎の七ヶ村であった。
  この佐塚明神社の例祭日が6月29日で、「午時浜下りとして茅崎村海岸まで出輿す。入輿の時南湖(茅ヶ崎村の属)及び大門中程に暫時?むを旧例とす」とあり、佐塚明神社の神輿が毎年6月29日正午に茅ヶ崎の浜へ出ていることがわかる。入輿という表現が神輿が海に入ることを指すかどうかは定かではないが、これが浜降りの祭りであった可能性も考えられる。入輿の際には南湖と、帰社の折り境内入口の大門の2ヶ所でしばらく足をとどめたとあり、この2ヶ所に御旅所があったものと思われる。佐塚明神社の浜降り神事も寒川神社のそれと同様に、いつから始められたかについてはわかっていない。



明治初期の浜降祭

  前述のように江戸時代の浜降(浜下り)的行事は南湖の浜では2つ行われており、6月15日は宮山村の寒川神社の神輿が、6月29日には浜之郷村の佐塚明神社の神輿がそれぞれ別々に出輿していたことがわかる。ところが明治初年には合同で6月15日に行われ、その頂点に寒川神社の神輿がすわり、第二位に浜之郷の神輿が続く形式になっている。そして鶴嶺八幡社と佐塚明神社が支配していた村々も、寒川神社の浜降祭に編入されるようになった。いつからこの様な寒川神社の神輿に浜之郷以下の神輿が供奉する形式になったのかは定かではないが、推定では寒川神社が国幣中社に昇格した明治4年(1871年)以降のことかと思われる。
  また、江戸時代にはいくつかの神社は寺院の僧侶が祭祀権をもっていたことが伺え、神社の神事が別当僧の手により古義真言宗や当山修験などの修法で行われていた。それが明治元年(1868年)の神仏分離令によりいずれの神社も別当寺の支配を離れ、明治10年代以降には祭りが村の神社の神主と住民の手で行われるようになり、その代表がこの浜降祭であった。

●旧暦までの浜降祭
  明治5年(1872年)までの旧暦に行われていた浜降祭がどれほどの規模であったのかを知る手ががりになる史料として、明治4年から7年(1871〜74年)までの4年間の寒川神社の経費を書き上げた「辛末、壬申、癸酉、甲戊、寒川社経費」が寒川神社に現存している。このうち明治4年のものが「浜降祭」という語句の初出史料であり、経費の内容が最も充実していることから、6月15日の条の浜降祭についての記事を下記に抜粋する。

「      浜降祭
  一 御供 一斗   金四十五銭四厘五毛
  一 神酒       金二十二銭七厘二毛
  一 荷持一人    金二十五銭
  一 乗馬従者口附等人員如国府祭
     右人員十四日夜ヨリ十五日午時迄飲食蝋燭其外雑事
                    此経費金二円三十七銭五厘 」

  上記の経費を合計すると浜降祭の総経費は三円三十銭六厘七毛となり、この経費を浜降祭と同様に神輿が渡幸する国府祭のそれと比較してみると、国府祭の総経費は八円三九銭七厘九毛となるので、浜降祭は国府祭の半分以下であった。項目別で見ると御供(国府祭では玄米と記載)では四分の一、神酒代で半分、飲食および蝋燭その他雑費でも半分となっており、国府祭の行宮造営料五十銭を除いたとしても総経費はまだ半分以下である。一方、神輿渡幸に伴う人員については国府祭のごとしとあることから同史料で国府祭をみると、神主1人に対して乗馬1匹と馬の口取りである口付1人を含む従者6人が伴い、さらに社人10人に対して乗馬10匹と口付が10人、荷持が1人という構成であったことがわかる。以上のことから旧暦時代の浜降祭は神輿渡幸に伴う人員では国府祭と同様の規模を有していたにもかかわらず、その経費では神輿移動の距離が短いこともあり半分の支出であったことが分かる。
  この史料の中では現在のように神輿が南湖の浜へ降りたという記述はないが、浜降祭という記述があることから神輿が浜降り渡幸していた可能性は十分考えられる。

●旧暦から新暦へ
  旧暦から新暦に移ったのは明治6年(1873年)のこので、旧暦(陰暦)の明治5年12月3日を新暦(陽暦)の明治6年1月1日と改めた。これに伴って浜降祭も旧暦の6月15日から新暦の6月30日へと移り、大祓えの神事の日に合わせて行われるようになった。
  この浜降祭の日付変更に関しては、明治6年4月に寒川神社禰宜安藤直と各地区の氏子代表を合わせて20人の連名で、端午祭(国府祭)の神輿渡幸廃止とともに浜降祭の日付変更を神奈川県に対して願い出ている。さらに4月21日にはこの祭祀願書を添えて神奈川県から教部省へ伺書付が提出され、4月25日にこの伺書付に対して教部省から出された指令案によって浜降祭の日付け変更が許可された。なお、祭祀願書の中で国府祭については一ヶ村当りの出費が激しいことと、祭事の素意を失っていることを理由に神輿渡幸の廃止を求めている。
  寒川神社社務日記には浜降祭の様子が記載されており、明治8年(1875年)を除く明治7年(1874年)から明治11年(1878年)の記事を拾うことができる。これによると明治7年の祭日は6月30日となっており、明治8年は記載がなく不明であるが、明治9年以降はすべて7月15日となっている。また、浜降祭にいつから複数の神社が参加したかは明確ではないが、寒川神社以外で浜降祭に参加して南湖浜に着輿した神社名が記された最初の史料は明治10年(1877年)の日記である。これによると当時すでに寒川神社の他に八幡神社(茅ヶ崎市浜之郷)と腰掛神社(茅ヶ崎市芹沢)、八坂神社(茅ヶ崎市南湖浦)および名称不詳の茅ヶ崎の神社、あわせて4社の神輿が南湖浜での浜降祭に参加していることがわかる。
  明治10年は浜降祭に先立って正遷宮式が行われており、これは明治9年11月の火災により仮殿に祭祀してあった神儀を本殿に移す儀式である。また、浜降祭を行うに際して第十八大区の区務所に届出を出していることがわかる。さらに、浜降祭のために藤沢・四ツ谷(座間市)・一之宮・用田(藤沢市)・厚木・田村の広範囲にわたる6ヶ所に標札を建てており、その標札の雛形が図示してあるのが興味深い。明治11年の7月13日にも例年のごとく浜降祭執行について第十八大区区務所へ届出を出している。また、同日には岡田村の八阪裡祠(八坂神社)の神輿ができたなら(おそらく修復のこと)、浜降祭に際して寒川神社の神輿を迎えるために一之宮まで渡御することが記されている。
  以下に浜降祭に参加した神輿を列席順で表にまとめた。なお、明治7・9・10年の席順は記載されておらず不明である。

浜降祭参加神輿 (明治7〜13年)
施行年
(西暦)
明治7
(1874)
明治9
(1876)
明治10
(1877)
明治11
(1878)
明治13
(1880)
祭日6/307/15
第1位宮山
寒川神社
第2位浜之郷
八幡神社
(岡田)
(八阪裡祠)
浜之郷
第3位門沢橋芹沢
腰掛神社
芹沢
第4位獺郷宮原茅ヶ崎
(名称不詳)
岡田
第5位一之宮南湖
八坂神社
遠藤
第6位下寺尾
合計5451?6
備考席順
不明
席順
不明
席順
不明
岡田は
一之宮迄

●浜降祭の進行
  次に浜降祭が挙行されるにあたって進行時間はどうであったかを、日記からまとめたものが下の表である。

浜降祭進行表
施行年
(西暦)
明治7
(1874)
明治9
(1876)
明治10
(1877)
明治11
(1878)
明治13
(1880)
寒川神社出発午前
5:00
午前
3:00
午前
2:00
不記午前
3:50
南湖浜到着午前
10:00
午前
6:00
午前
7:00
午前
4:00
午前
5:00
寒川神社帰社午後
1:00
午後
1:00
午前
1:00
正午
(12:00)
午後
1:15

  この表より寒川神社の出発時間は年によって異なっており、午前2時から5時までと3時間の差が見られる。この出発時間の差によって浜降祭の祭場である南湖浜への到着もまちまちで、午前4時から10時までと6時間の開きがある。これに対して御輿が寒川神社へ帰ってくるのはそれ程の差はなく、正午(12:00)から午後1時15分と1時間程度の差である。
  以上のことから考えると明治初年の寒川神社では、浜降祭の進行時間が正式には決められていなかった段階であったと考えられる。浜降祭の儀式も含めてはっきりとした規則が決められ、形が整えられて運営されるようになったのは、史料で見る限り時代がもっとさかのぼり、儀式は明治13年から、規則は明治21年(1888年)頃からと推測される。

●浜降祭の儀式
  浜降祭の儀式の進行の様子を明治13年(1880年)の『寒川神社日記』でみていく。明治13年7月12日には寒川神社が高座郡長稲垣道生と藤沢警察署国分分署に対して、「本日十五日、例年之通り当社(寒川神社)浜降祭執行候条、この段お届けに及び候なり」というような届出を出している。7月14日には浜降祭前祭を午後6時から寒川神社で行っており、参加した神官は宮司京極高富をはじめ伊集院直・平尾政寛・相沢忠得・金子清房の5名、ほかに雇井出文治・楽人須藤藤直吉・金子伝右衛門であった。なお、神前への供え物である神饌は、和稲・神酒・海魚二尾・海藻二品・野菜二品・塩水等であった。
  7月15日は午前3時50分に寒川神社から御輿が出発し、行列は次の様なものであった。

「  国旗 (日の丸)
   御旗 (寒川神社の旗)
   主典 金子清房
   御榊 (さかきの木)
   主典 平尾政寛
   御幸櫃
   御神馬
   御鉾
   禰宜 伊集院直
   伶人 (楽人)
   御翳 (きぬがさおおい)
   御輿
   宮司 京極高富
   常雇 井出文二(治)  」

  神官は4名、常雇は1名であるが、それぞれの荷物を運ぶ人数が少なく見積もっても15名程度は必要である。さらに神官達は馬に乗っていたと思われるので、この他にも馬の口取が4名加わることになり、合計すれば20名前後であったと思われ、明治4年に比べると約2倍の人数である。
  行列は午前5時過ぎには南湖の浜へ到着し、神事が行われた後は午前7時30分に鳥井戸にて休憩を取っている。この南湖の浜での浜降祭に参加したのは寒川神社の御輿をはじめとして、浜之郷八幡社・芹沢腰掛神社・岡田日枝神社・遠藤御嶽神社・下寺尾八坂神社の6社であった。その後は南湖松屋清右衛門宅にて神官達は休息し、午前8時40分には一之宮四郎兵衛宅で休息、午前10時に寒川神社へ到着している。到着後は午後1時15分から着行祭典を行っているが、この時寒川神社まで随行した御輿は芹沢・岡田・遠藤・下寺尾の4社で、浜之郷は随行していない。そして午後2時に祭典は全て終了している。
  以上のように浜降祭はまず6月14日に前祭を寒川神社で行い、翌6月15日の早朝に御輿へ随行して神官達をはじめ20名程が行列を組み、南湖の浜の祭場で浜降祭を行った。帰途は2回休憩を取りながら寒川神社の御輿に近村の御輿が随行し、寒川神社へ帰社すると神事を執り行ってから解散した。以上がこの祭りの形式であったことがわかり、このような方式はその後も続けられた。



明治中期の浜降祭

  明治期の浜降祭に関する史料は明治13年(1880年)から明治44年(1911年)に至るまで、『浜降祭書留』・『浜降祭綴』として一括されて寒川神社に保存されており、この史料は神官の手により記された日記のようなものである。
  内容は浜降祭の準備の様子、たとえば神奈川県庁・高座郡役所・寒川村役場・藤沢警察署への届書、浜降祭開催についての打合せ会、近隣の村々や神社への参加要請など。浜降祭の祭りについては、前夜祭、寒川神社の神輿の出発、南湖浜までの神輿行列次第、南湖浜での神輿の配置順、浜降祭の式次第、帰社の順路の神輿行列の順番、帰社後の寒川神社での祭典の様子、その後の各社の帰村の様子、各行政機関への浜降祭の報告書、予算・決算の明細書など、誠に多岐にわたるものである。一般的にいえば単なる日記ではなく、御用留・公用日記的な性格を持つものである。以上のことからこの日記の重要性を考えれば、寒川神社においては最も大切な祭りの一つがこの浜降祭であったことがわかる。

●南湖浜での席順
  浜降祭に参加した神社は明治10年(1877年)には5社であったが、明治14年(1881年)になると10社に倍増している。それ以降の神輿の数は若干の例外はあるものの、明治26年(1893年)まで10前後の数字である。祭場での席順がはっきりわかるのは明治14年からで、第1位は寒川神社が全期間つとめている。なお浜之郷の八幡神社が第2位をつとめているがこの神社は他と別格で、寒川神社の神輿を出迎えに行かなければ、帰社の折りに寒川神社への送りの行列にも加わっていない。これは本来別の浜降祭を行っていたたための特権と思われる。
  明治26年まででみてみるとこの段階まではほぼ席順が決まっていたようで、第3位は芹沢、第4位は岡田と大曲が隔年ごとに出輿、第5位は円蔵と遠藤が多く、第6位は宮原と柳島が多い。第7位以下はかなり入れ代わりが激しいが、前年不参加だった村が次の年には後へ入れられたりしている様子がわかる。

浜降祭参加神輿 (明治14〜17年)
施行年
(西暦)
明治14
(1881)
明治15
(1882)
明治16
(1883)
明治17
(1884)
第1位宮山
寒川神社
第2位浜之郷
八幡神社
第3位芹沢
腰掛神社
第4位大曲
十二神社
岡田
日枝神社
大曲
十二神社
岡田
八坂神社
第5位遠藤
御嶽神社
第6位寺尾
八坂神社
宮原
寒川神社

寒川大神
第7位円蔵
大神宮

大神宮社
円造(蔵)
第8位柳島
八幡神社
用田
寒川神社

寒川大神
寺尾
八坂大神
第9位中島
日枝神社
柳島
八幡神社
寺尾
八坂大神
中島
日枝大神
第10位中島末社
八阪(坂)神社
中島
日枝神社
柳島
八幡大神
第11位中島
日枝大神
菱沼
八王子神社
合計10101111
浜降祭参加神輿 (明治18〜22年)

明治18
(1885)
明治19
(1886)
明治20
(1887)
明治21
(1888)
明治22
(1889)
1宮山
寒川神社
2浜之郷
八幡神社
浜之郷浜之郷
八幡大神
3芹沢
腰掛神社
芹沢
腰掛大神
4大曲
十二神社
岡田大曲岡田
八坂神社
大曲
十二天大神
5円(造)蔵
大神宮
円蔵
大神宮
6柳島
八幡神社
柳島柳島宮原
寒川大神
7宮原柳島
天照皇太神

八幡大神
8中島
日枝神社
下寺尾
八坂大神
9下寺尾遠藤遠藤
御嶽神社

御嶽大神
10中島
11門沢橋
渋谷神社

渋谷大神
12茅ヶ崎
八坂大神
69101112

●規則と費用
  浜降祭の祭典の持ち方がかなり整ってくる明治21年(1888年)の『浜降祭日誌』から、規則やその費用の実態についてみてみる。近隣の村々の神社が参加し、その神輿が浜降祭に出輿するようになると様々な問題が起こった。寒川神社は明治21年7月5日に近隣の村々に呼びかけ、寒川神社に出頭するように連絡している。その結果12条にわたって取り決めをし、意訳してかかげると次の様であった。

  第一条、当日(七月十五日)午前二時神輿は寒川神社を出発、午前四時三十分南湖の浜辺で浜降祭を挙行し、午前十一時寒川神社帰着、午後三時寒川神社に整列し祭典を行う。終了後午後四時に各神社とも退社すること。
  第二条、浜降祭の祭礼時の神輿の席順は、従来どおりとすること。参加することを一年休めば、その翌年は末席となること。
  第三条、寒川神社の神輿に供奉する場合は、まず本社(寒川神社)に各村の神輿が迎えに来ること。そのあと南湖の浜へおもむき浜降祭に参加すること。浜辺のみの出輿は認めないこと。但し特別の事情がある場合はやむをえない。
  第四条、神輿が寒川神社へ帰ってくる時は、途中、茅ヶ崎村、一之宮村で休憩すること。その後寒川神社の二の鳥居で若干休憩すること。
  第五条、帰社に際して二の鳥居前で休憩中に、宮山村の山車数台を寒川神社前に整列させ、ついで神輿が寒川神社へ帰社すること。
  第六条、南湖の浜での神饌は三台迄とし、品目は赤飯一台、神酒一台、魚・野菜一台を予定していること。但し調度品および運搬費は毎年一社につき金五〇銭ずつ徴収すること。もっともその労は一社(寒川神社)においてとるものとすること。
  第七条、神饌台は八足机と定めること。但し今年は一社(寒川神社)において準備し、来年は各社とも調製の見込みであること。
  第八条、浜降祭の祭場には、各社の神饌所および神官や氏子惣代の休憩所がなく、やや体裁が悪いので、五間の長さの幕を三張り、幕串(幕を張る場合に建てる細い棒)をそれぞれ新調すること。但し幕と幕串の新調費として、各神社より一円五十銭ずつ、本年に限り徴収すること。運搬費は実費を徴収すること。
  第九条、浜降祭の祭場の敷物は本年にかぎり他から借用することにし、来年は新調したいこと。
  第十条、祭事係・神官は靴あるいは草履を用いること。下駄の使用は禁止すること。
  第十一条、浜降祭に新しく加入したい村の神輿は、先述の新しい調度品の保存費として、一円五〇銭を徴収すること。これは積立てておくこと。
  第十二条、毎年七月五日には、参加する村の神社の神官と氏子惣代一名ずつが、寒川神社に集合し、浜降祭に関するさまざまな問題を協議すること。

  実は伊藤博文内閣総理大臣は明治21年4月25日に「市制・町村制」を公布し、翌明治22年3月11日には沖守固神奈川県知事が高座郡の村の内から、一之宮・中瀬・下大曲・岡田・大曲・小谷・大蔵・小動・宮山・倉見・田端の11ヶ村を寒川村とすることを命じた。寒川神社にとっては、これまで浜降祭に参加していた村々を高座郡南部地域として捉えていたものが、この法律の施行により参加している村々が、小出・鶴嶺・御所見・有馬・松林・茅ヶ崎・寒川の7つの行政村に区分されることにった。とりわけ南湖の浜はこの浜降祭の中心の祭場であるが、これが同一行政区ではなくなり他村ということになってしまった。氏子圏の分割は寒川神社が浜降祭施行の折り、これまでは高座郡役所のみでよかったものが、7つの村役場へ書類を提出する必要ができたことでもある。当然のことながら寒川神社としてはこの行政の組替えに危機感を持つことになり、組替えに係わりなく従来の氏子圏の確保はもちろんのこと、一方で浜降祭の開催にあたっての組織の確立や制度的な見直し、規則の規定、予算・決算書の作成等の明確化を打ち出すことになった。
  次に浜降祭の費用について表示していく。まず次の表は収入の部の内容を示すものであり、11ヶ村の11神社が各社2円ずつ負担していることがわかる。この年の米の値段で換算すると1社当たり約一斗七升で、約25.5kgとすれば全体で約280kgに相当する。

浜降祭費用 収入の部 (明治21年)
席順村名現行行政区神社名割当金額(円)
第1位宮山寒川町寒川神社2.00
第2位浜之郷茅ヶ崎市八幡神社2.00
第3位芹沢腰掛神社2.00
第4位岡田寒川町八坂神社2.00
第5位円蔵茅ヶ崎市大神宮2.00
第6位宮原藤沢市寒川大神2.00
第7位柳島茅ヶ崎市天照皇太神2.00
第8位下寺尾八坂大神2.00
第9位遠藤藤沢市御嶽神社2.00
第10位中島茅ヶ崎市日枝神社2.00
第11位門沢橋海老名市渋谷神社2.00
合計22.00

  次の表は支出の部を示すものであり、(1)神饌需要費と(2)祭場の新設費にわけている。

浜降祭費用 支出の部 (明治21年)
費 目金 額支払い先
(1)神饌需用費
 赤飯1斗1升
 神酒3升3合
 海菜代
 海魚代
 
 野菜代
 神酒徳利代(20本)
 徳利運搬費(厚木〜宮山)
 徳利買上のため使賃
 神饌長持棒調整費
 南湖祭場迄長持運搬費

 1円20銭
   66銭
   30銭
   76銭
 
   34銭7厘
   78銭
   18銭
   52銭5厘
   36銭
   90銭

宮山  杉崎謙吉
       〃
       〃
茅ヶ崎 飯田藤左衛門
     中村宗吉
宮山  杉崎謙吉
厚木  岡島彦八
宮山  中村宗吉
 〃   能条愛造
 〃   大川幸蔵
 〃   吉田伊右衛門
(2)祭場の新設費
 幕3張代
 神饌所休憩所
   建設請負費

10円65銭
 2円20銭
 

平塚  今井清兵衛
茅ヶ崎 鈴木孫七
 
合 計18円86銭2厘

  (1)神饌需用費とは浜降祭の当日に神前へ供える物のことであり、赤飯・神酒・海菜・海魚・野菜から酒の徳利、それにその運搬費も含んでいる。赤飯と神酒の量がかなり多いが、これは参加者に振舞ったものと思われる。この他では魚代が目立っており、徳利代はこの年だけの費用と思われる。これ以外は運搬費や人足代であった。(2)祭場の新設費は規則にあったように、神官と氏子惣代が休憩する場所を確保するための幕と幕串代とその工事費であった。
  次に支払い先をみてみると赤飯・神酒・野菜・海菜は地元の宮山で購入しているが、海魚は茅ヶ崎、神酒徳利は厚木、幕は平塚でそれぞれ購入している様子がわかる。また幕の購入費用が高額で全体の56%を占めており、一方工事請負はこれまでどおり鈴木孫七がつとめている。なお支出総額は18円86銭2厘なので、差額の残金は各村の神社へ28銭5厘3毛ずつ返金している。

●浜之郷・鶴嶺八幡社の扱い
  明治期についてみると、南湖浜での浜之郷・鶴嶺八幡社の神輿は明治7年(1874年)から明治26年(1893年)までは、主神寒川神社神輿につぐ地位に固定されていた。その間、唯一参加しなかった明治24年(1891年)のみ芹沢にその地位を譲っている。ここまでをみると、明治期の浜降祭は毎年平穏に続けられていたかのように思えるが、実際は何度か中断されかかったことがあり、その様子は明治27年(1894年)から説明していく。

浜降祭参加神輿 (明治23〜26年)
施行年
(西暦)
明治23
(1890)
明治24
(1891)
明治25
(1892)
明治26
(1893)
第1位宮山
寒川神社
第2位浜之郷
八幡社
芹沢
腰掛神社
浜之郷
鶴嶺八幡社
(浜之郷)
第3位芹沢大曲
十二神神社
芹沢
腰掛神社
(芹沢)
第4位岡田
日枝神社
円蔵
大神宮
岡田
八坂神社
(下大曲)
第5位円蔵宮原
寒川大神
円蔵
大神宮
(円蔵)
第6位宮原
寒川大神
柳島
八幡太神
宮原
寒川大神
第7位柳島遠藤
御嶽神社
柳島
八幡大神
(柳島)
第8位遠藤
御嶽神社
門沢橋
渋谷神社
遠藤
御嶽神社
(遠藤)
第9位中島茅ヶ崎
八坂神社
門沢橋
渋谷神社
(門沢橋)
第10位門沢橋
渋谷神社
茅ヶ崎
八坂神社
(茅ヶ崎)
第11位茅ヶ崎
八王子神社
中島
日枝神社
(中島)
第12位甘沼
八幡大神
(甘沼)
合計11912(11)
備考席順不明

●中断されかけた浜降祭
  明治27年(1894年)は6月に日清戦争が始った年であったが、寒川神社は浜降祭を実施すべく計画を立てていた。またこの年は旱魃が続き、氏子の多くは農民であったため経済的不安がつのった時期でもあった。7月1日に寒川神社は近隣の村に対し浜降祭の相談をすべく、7月5日の午前9時に寒川神社社務所へ出頭するように連絡を出している。ところが7月5日になると多くの村々より本年は浜降祭に参加しないという連絡が続々と入り、その時の不参加の村は宮原・浜之郷・茅ヶ崎・芹沢・遠藤・中島・円蔵・甘沼・柳島の9ヶ村であった。寒川神社は7月11日に再度近隣の村々へ参加を呼びかけたが、先述の村々はもちろんのこと、さらに門沢橋からも7月11日には不参加の連絡が入った。
  浜之郷は社掌代理の能条守太郎が病気のために参加せずと通告があり、その他の村の不参加理由ははっきりとしていないが、数ヶ村の届出の理由として「旱魃ニ付未ダ協議整ハズ」・「降雨有之候ハ、出輿之協議ヲ遂グルヤモ難量」などとあり、「ひでり」により農地が荒廃しているので祭りどころではないということであった。結局この年の浜降祭に参加したのは寒川神社と岡田の八坂神社の2社みで、寒川神社へ帰社した後に行われる遷幸祭に関しては、浜へは参加しなかった遠藤の御嶽神社が参加して3社で挙行されている。このように明治27年は浜降祭こそ行われたが、実際には小規模なものであった。
  翌明治28年(1895年)の4月には日清戦争が終結し、この年も寒川神社は浜降祭の開催を決めた。7月5日の午前9時に社務所へ参集するように呼びかけたが、参加の返事が届いたのは遠藤・下大曲・甘沼の3社であった。日清戦争の影響と前年の不作のせいであろうか、寒川神社にとっては大いに不満であったことが伺えるが、この年も小規模ながらに行っている。また、これまで決まっていた席順も神輿の数が激減するにともない、参加の希望を伝えた順に変わっていくことになる。

浜降祭参加神輿 (明治27〜31年)

明治27
(1894)
明治28
(1895)
明治29
(1896)
明治30
(1897)
明治31
(1898)
1宮山
寒川神社
2岡田
八坂神社
(下大曲)岡田大曲
十二神々社
遠藤
御嶽神社
3(遠藤)
御嶽神社
(遠藤)
御嶽神社
甘沼
4(甘沼)
(八幡神社)

八幡大神
一之宮
八雲大神
5一之宮
八雲大神
下寺尾
八阪神社
6下寺尾
八坂大神
7(門沢橋)
(渋谷神社)
24565

遠藤は
浜不参加
席順
不明
門沢橋は
浜不参加

●町村制施行の影響
  明治中期まで積極的に参加をしていた芹沢(旧小出村)は明治27年以降参加をしておらず、上表には記されている下寺尾(同)も明治42年以降には不参加となる。茅ヶ崎市域では参加社が広域から狭域に変化した傾向が見られるが、この理由の一つには明治22年(1889年)の町村制の施行があると考えられる。町村制施行後5年ぐらいは参加しているが、その後は新しい行政区を越えての祭りへは参加していない(どこのことか?)。これは新しい行政区になったことによる村意識の変化があったものと思われ、共同体の枠組みが変えられたため、これまでの共同体のもつ同朋意識がなくなったことによると推測される。



明治後期の浜降祭

●渡幸休止へ
  明治32年(1899年)の場合はこれまでとはやや趣が異なり、神奈川県知事は「赤痢蔓延の兆候」があるとして浜降祭の中止を命じた。これに対して寒川神社は7月8日に会合を開くと「本年はやむをえず休祭」にすることを決定し、氏子圏の村々へ連絡した。しかし一方で、同日付けで寒川神社宮司の丹波与三郎は神奈川県内務部長の李家隆介に対して、「県知事命令書ニ対スル回答及具申書」を提出している。要点を抜書すると浜降祭について、以下のようにその祭典の意義を強調した。

「  ことに一名”禊の神事”と称し、悪疫流行の際はことさら盛典を行ひ、旧拾四か村氏子共(寒川神社の)神輿に供奉し、海辺において万の災殃(さいおう)を解除する古例にこれあり 」

  さらに「たとえ多少流行病あるも、特許をえて、渡輿いたしたき衆望にこれあり」とし、浜降祭を中止すれば「職務上冷淡不尽の嫌ありて、民情に反し悪感情を生じるたるやの懸念あり」と、浜降祭に対する民衆の感情が抑えがたいことを強調している。しかし、結論としては「来る十五日、本社においても祭典神賑等一切差止め、本年は命に依り、休祭の奏上式を執行いたすべく候」とし、南湖浜への出御はしないまでも静かに寒川神社で儀式を行いたいという意向を伝えている。
  さらにその後も宮司丹波与三郎は関係機関との折衝を続け、7月13日に再度寒川神社は神奈川県庁へ浜降祭執行願を提出した。これに対し神奈川県は同日条件付きながら開催を許可し、寒川神社は同14日に関係村々へ連絡して浜降祭への参加を求めている。参加を要請した村名は遠藤・下寺尾・門沢橋・甘沼・一之宮・下大曲・の6ヶ村であるが、この他に7月5日の会合へ参加した村は田端・赤羽根・芹沢である。
  明治34年(1901年)の場合は不景気のため寒川神社の方から浜降祭中止を申し出ている。同年7月14日に寒川神社宮司丹波与三郎は、神奈川県知事周布公平に対し下記のように申し入れている。その後の展開はわからないが、寒川神社としては不景気を理由に南湖浜での祭礼はやめ、寒川神社の社殿で祭礼を行うことを明示している。

「  本年は不景気につき、休祭いたしたきむね、当宮山部落より申しいで候、(中略)村内重立ち候者へ協議のうえ、神輿渡御式は断然差しとめ、当日社頭において祭典執行いたすべく候あいだ、この段具さに申し候なり 」

  翌明治35年(1902年)も前年同様に不景気が続いていることから神輿渡幸を休止し、浜降祭当日に寒川神社社頭において祭典のみを執行することを前日の7月14日に県庁へ連絡した。しかし、同日に渡幸中止の件を各村々へも連絡したが、その夜になってから突然、宮山村の者達が神輿を担ぎ出して神輿渡幸の執行を寒川神社に迫った。神社側もやむなく折れて俄に神輿渡幸が行われることなり、急なことであったため行列に参加したのは下寺尾と岡田の2社のみで、2社の供奉は寒川神社から一之宮の間までと浜降祭の会場へは参加していない。

浜降祭参加神輿 (明治32〜36年)
施行年
(西暦)
明治32
(1899)
明治33
(1900)
明治34
(1901)
明治35
(1902)
明治36
(1903)
第1位宮山
寒川神社
(〃)
第2位遠藤
御嶽神社
(下寺尾)
(八坂大神)
第3位大曲下寺尾(岡田)
(八坂大神)
第4位(一之宮)
(八幡大神)
合計33(1)11
備考一之宮は
浜不参加
席順
不明
渡幸
休止
( )は
浜不参加
供奉
なし

●渡幸復活に向けて
  明治37年(1904年)は2月に日露戦争が始った年で、寒川神社は神奈川県内務部長宛に下記の7月14日「浜降祭執行の義御届」を提出した。これによると、日露戦争開戦の時期でもありさらに水害などがあったことから、浜降祭を南湖浜で盛大に行うことはやめて、寒川神社の神輿渡御は村内の一之宮までとし、南湖浜には神官が大玉串のみ奉献するとしていることがわかる。つまり寒川神社周辺のみの渡御として、神輿の練り歩く地域と浜降祭の規模を縮小したのである。

「  本年は時局に際し、ことに水害等これあるかたわら、茅ヶ崎南湖祭場へ神輿渡幸の義休止し、当村大字一之宮まで出輿致したきむね、氏子より申し出候につき、当社は古例を欠さざるため、当日大玉串(榊枝に注連をつけたるもの)を奉持し、例刻祭場(南湖)において祭事執行し、神輿の儀は氏子申出にまかせ、一之宮かぎり出輿、同所にて暫時御休憩還幸(帰社)あいなり候よういたすべく候 」

  明治38年(1905年)は8月まで日露戦争が続いていた年であり、この年は7月7日に寒川神社で浜降祭を執行するかどうかを相談したが結論は出なかった。そこで、もし多くの村が否決の場合は南湖浜へは出ずに寒川神社で行うことを決め、その日はそれぞれの村へ持ち帰って後日回答することにした。7月10日に第2回の会合が開かれ、浜降祭を例年どおり行うことが決定された。その結果寒川神社から8ヶ村へ神輿を出すように連絡し、その村々は遠藤・大曲・下寺尾・岡田・上大曲・一之宮・中瀬・田端であった。しかし南湖浜へ参加した様子は記されていないが、1社のみ「岡田日枝神社神輿一之宮迄御迎の上当社(寒川神社)へ」とあり、この年も小規模ながら行われたことがわかる。
  日露戦争が終わると浜降祭は徐々にではあるが復調の兆しがみえ、その人出を見越していろいろな企画が試みられた。その一つは明治39年(1906年)から行われた境内の西脇で開催される競馬で、もう一つは明治41年(1908年)から始った「手踊り」である。さらには人手を見越しての商店の進出もあり、浜降祭は年々盛んになっていくことになる。

浜降祭参加神輿 (明治37〜41年)
明治
(西暦)
37
(1904)
38
(1905)
39
(1906)
40
(1907)
41
(1908)
1位(宮山)
(寒川神社)
2位?岡田?
3位?下寺尾
八阪(坂)神社
?
4位
以下
??
合計(1)1?38
備考大玉串の
み奉献
供奉なし社数
不記
社名
不記

  以上のように寒川神社の浜降祭が中断されそうになったのは、明治13〜44年の32年間で計6回におよび、それは明治27、28、32、34、37、38年である。その理由は不景気・凶作・水害・流行病・日清戦争・日露戦争などあったが、その様な時においても祭りの規模を縮小してまで、とにかく挙行している。寒川神社にとっては年に1回行われる氏子圏の人々が総出で参加する祭りであったため、何としても実現する必要があったと推測される。この浜降祭に対する民衆の要望を受け入れた結果の一方で、寒川神社にとっては1年に1回氏子圏の引き締めを行う場であったとも考えられる。また、行政の側も民衆の熱望する年1回の祭りを中断することができなかったといえる。


●浜之郷の離脱
  明治27年以降の参加神輿の減少は日清・日露の両戦役、凶作・水害・流行病などが大きな理由と思われるが、もう一つは浜之郷村が江戸時代以来寒川神社と同様の浜降祭を行っていたことを主張し、寒川神社の傘下から離れ独自に挙行し始めたことにもよる。この間の事情は明治41年(1908年)の浜降祭日記に、下記の「横浜貿易新報」の記事によって知ることができる。

「  今より十余年前、或る事情により、各郷社は鶴ヶ峯村字浜の郷なる鶴峯八幡宮の下に、殆ど同日同時なるも寒川と分離して浜降祭を行ふに至りしと云ふ 」

  このことが明治27年以降、浜之郷の神輿が不参加であることの理由と思われ、同時に浜之郷傘下の地区の神輿も参加しないという結果に至ったと推測される。ところが、浜之郷は寒川神社主導の浜降祭に参加しなかった年も茅ヶ崎市域の数ヶ村の神輿を集め、南湖浜での「みそぎ行事(浜降祭)」を独自で挙行していた。茅ヶ崎住民の意識からいえば、浜降祭は古くから浜之郷を中心とした茅ヶ崎の祭りという意識が強く、寒川町域の寒川神社を頂点とし、その輩下に組み入れられることには抵抗があった。つまり町村制の枠組みでの新しい共同体同士の対抗抗争が、浜降祭に影響を及ぼしたといえるであろう。
  ところで行列の折、国旗の後に続く御旗があったが、これについては明治42年(1909年)の『浜降祭日記』に少し詳しく紹介されているので記してみると、「菊花の紋所の下に、国弊中社寒川神社と紫地に白く染抜きたる錦旗」とある。まさにこの菊の御紋の旗こそが寒川神社の権威を示すものであり、他の神社とは格の違うことを明示するものであった。浜降祭の行列はまさに官社たる寒川神社の神威発揚の場であったといえる。
  明治43年(1910年)は久方ぶりに浜之郷が参加することになり、この他に茅ヶ崎(本村)・十間坂・柳島・中島・遠藤と計7社の神社が浜降祭に参加した。しかし寒川神社が考えたように浜降際は順調に進行しなかったようで、この年の日記によれば下記のように、浜之郷・円蔵・中島の神輿が隊列を乱している様子が描かれている。

「  鶴峯(浜之郷)の神輿は後れて来り、列を乱して十間坂方面に向ふ、続て円蔵・中島神輿など同行せり、是に至り頗る喧掻を極めたる者なり 」

  また、浜降祭の開場に医師や看護婦が派遣されるようになったのはこの明治43年からであり、『浜降祭日記』によると 「高田病院より医員一名および看護婦三名を派遣し、赤十字旗を掛つる等、注意すこぶる奏せり」とある。
  浜之郷は翌明治44年(1911年)には再び不参加となり、寒川神社主催の浜降祭に参加したのは本村・十間坂・南湖上町を加えたの4基の神輿だけであった。明治45年(1912年)に寒川神社は浜之郷としばしば連絡をとり、連合浜降祭を企画した。その結果浜之郷も参加することになり、10社の参加を得ると浜降祭では行列が続き、人出は約5万人にのぼったと新聞に報ぜられている。

浜降祭参加神輿 (明治42〜45年)
明治
(西暦)
42
(1909)
43
(1910)
44
(1911)
45
(1912)
1位宮山
寒川神社
2位浜之郷
鶴峯(嶺)八幡宮
茅ヶ崎
八阪(坂)神社
岡田
菅谷神社
3位茅ヶ崎
八阪(坂)神社
十間坂
八阪神社
浜之郷
鶴嶺八幡社
4位十間坂
八阪(坂)神社
南湖上町
八雲神社
茅ヶ崎
八王子神社
5位柳島
八幡宮
(岡田)
(菅谷神社)
十間坂
八阪(坂)神社
6位中島
日枝神社
南湖上町
八雲大神
7位円蔵
大神宮
遠藤
御嶽神社
8位(岡田)
(菅谷神社)
円蔵
大神宮
9位(下寺尾)
(八阪神社)
中島
日枝神社
10位柳島
八幡宮
合計7410
備考社数
不記
順席不明
( )は浜不参加
岡田は
浜不参加

大正期の浜降祭

  明治期の浜降祭が相模国高座郡南部の祭りであったのに対し、大正期の浜降際は祭りの中心が茅ヶ崎の南湖浜であったことから、茅ヶ崎の人々が中心となる祭りへと変化していった。逆にいえば寒川村民の祭りであった浜降祭から、だんだん離れていくことになったのである。明治期には寒川神社が民社から官社に格上げされる段階で地元の民衆の信仰が薄れていったように、寒川町の人々にとっての浜降祭は既に自分達の信仰からは遠い存在として位置づけられたのかもしれない。
  明治期の浜降祭に参加した各村の神輿をみてみると、寒川神社のお膝元である寒川町域からは宮山をはじめとして岡田・大曲・一之宮が、海老名市域では門沢橋が、藤沢市域では遠藤・用田・獺郷・宮原がそれぞれ参加していた。ところが大正期になると様相はかなり変わり、寒川町域では宮山の寒川神社の他には岡田の菅谷神社のみとなった。海老名市域の門沢橋は参加をとりやめ、藤沢市では唯一遠藤の御嶽神社が参加していたが、大正5年(1916年)以降は参加をとりやめている。結局、寒川町の宮山と岡田の2社を除けば、残りは全て茅ヶ崎市域という状況に変化していった。

●天皇の崩御
  大正2年(1913年)と翌大正3年(1914年)は明治天皇崩御にともない、2年連続で浜降祭が中止されている。明治天皇は明治45年7月29日に61歳で崩御となり、この年の浜降祭は既に行われていたため問題はなかったが、翌年の大正2年は浜降祭をとりやめている。7月7日に寒川神社宮司関誠は神奈川県知事に対して、次の文書を提出している。

「  例年七月十五日当社浜降祭之節ハ、南湖海岸ヘ神輿渡御相成候処、本年ハ諒闇中ニ付、社頭ニ於テ祭典ノミ挙行、神輿巡行ヲ差控候条、此段及申報候也 」

  これによると例年7月15日の寒川神社浜降祭の時は南湖海岸へ神輿を渡御させることになっているが、本年は天皇崩御により上下ともに喪に服すること(諒闇)になっているので、寒川神社社殿において祭典のみを行うことにし、神輿巡行は行わない旨を報告していることがわかる。翌大正3年も同じ理由で中止している。

●浜降祭の再開
  大正4年(1915年)は明治天皇の喪があけ、3年振りに浜降祭が挙行されると、寒川神社のほか11社が参加した。その中には浜之郷も参加したが、岡田の菅谷神社、遠藤の御嶽神社につぐ第3位の席順であった。この年の浜降祭で浜之郷の神輿を担ぐ人々がどのような思いで行動したかについてはあきらかではないが、大正5年(1916年)7月12日に寒川神社宮司は藤沢警察署長に対して次のような書面をしたためており、藤沢警察署に取締りの強化を依頼している様子が伺える。

「  特に貴官の御職権を以て、十分の御取締りを願度く、実は該祭(浜降祭)に関しては、例年神輿渡御之沿道に於て種々の紛擾を惹起するの傾向有之、神明に対し誠に恐懼の次第に御座候 (後略) 」

  また、寒川神社は毎年紛争を続ける席順について本年は「一、寒川神社 二、菅谷神社(岡田) 三以下は各神社々格に準じてなすべきこと」とし、「神社明細帳に記載届なき神輿は参列を許さず」としている。また寒川神社は茅ヶ崎町長に対して、参加の多い茅ヶ崎町域の神輿の席順のとりまとめを依頼している。町長は町内の神社の神官や氏子総代を集めて協議を重ねているが、ここでも浜之郷は菅谷神社の次席という位置づけに満足しなかったようである。しかしそれ以外は翌大正5年にみるような席順を了承し、参加が決定したと町長は寒川神社宮司に報告している。その結果、浜之郷はこの年から参加をとりやめた。

浜降祭参加神輿 (大正4〜7年)
大正
(西暦)
4
(1915)
5
(1916)
6
(1917)
7
(1918)
第1位宮山
寒川神社
第2位岡田
菅谷神社
第3位遠藤
御嶽神社
茅ヶ崎本村
八王子神社
円蔵
大神宮
柳島
第4位浜之郷
鶴嶺八幡宮
甘沼
八幡大神
上町
八雲神社
円蔵
第5位十間坂
八坂神社
下町
住吉神社
本村
八王子神社
本村
第6位南湖仲丁
八雲大神
柳島
八幡宮
十間坂
第六天神社
中島
第7位茅ヶ崎本村
八王子神社
円蔵
神明神社
下赤羽根
神明大神
上町
第8位柳島
八幡大神
菱沼
八王子神社
柳島
八幡大神
十間坂
第9位上丁
八雲大神
十間坂
第六天社
仲町
八雲神社
下町
第10位下丁
住吉大神
中町
八雲社
下町
住吉神社
下赤羽根
第11位円蔵
大神宮
上町
八雲社
中島
日枝神社
中町
第12位中島
日枝神社
中島
日枝神社
甘沼
甘沼
合計12121212
備考遠藤の参
加は不詳
行列順行列順

●くじ引きでの席順
  南湖浜の座席と行列の順位ついては毎年かなりもめており、その遺恨が祭場での抗争に発展するケースが多かった。そこで大正8年(1919年)には神輿の順序について、「大正八年七月十五日浜降祭神輿行列並海岸列席順序左の如く抽籤に依りて決定す」と決めた。しかし、例外として今後は岡田を除き、第二位以下をくじ引きで決めることとなった。くじ運の良さがあって上位に連続着座することもあるが、海岸(南湖浜)での列席順は毎年かなり変動していることがうかがえる。明治期にはその席順が固定されていたことからすると大きな変化であり、参加者の増加と茅ヶ崎市域の村民の参加により、茅ヶ崎市域同士の村落毎の対抗意識が激化したともいえる。

浜降祭参加神輿 (大正8〜11年)
大正
(西暦)
8
(1919)
9
(1920)
10
(1921)
11
(1922)
1位宮山
寒川神社
2位岡田
菅谷神社
3位円蔵
大神宮
柳島
八幡大神
下赤羽(根)
神明神社
本村
八王子神社
4位柳島
八幡大社
下赤羽
神明大神
茅ヶ崎本村
八王子神社
十間(坂)
大六天神社
5位下赤羽
神明大神
本村
八王子神社
十間坂
大六天神社
中町
八雲神社
6位本村
八王子社
十間坂
大六天神社
南湖仲町
八雲神社
中島
日枝神社
7位十間坂
第六天神社
中町
八雲神社
甘沼
八幡大神
上町
八雲神社
8位中町
八雲神社
甘沼
八幡大神
南湖上町
八雲神社
南湖下町
住吉神社
9位甘沼
八幡大神
上町
八雲神社
中島
日枝神社
円蔵
神明大神宮
10位上町
八雲神社
中島
日枝神社
下町
住吉神社
柳島
八幡宮
11位中島
日枝神社
下町
住吉神社
円蔵
大神宮
新町
八阪神社
12位下町
住吉神社
円蔵
大神宮
柳島
八幡宮
下赤羽根
神明神社
13位本村
八坂神社
甘沼
八幡宮
合計12131213

●鶴嶺八幡宮の復活
  浜之郷が再度浜降祭に参加するようになったのは大正12年(1923年)からであったが、不参加の年にあっても鶴嶺八幡宮は同日に独自の浜降祭を行っていた。大正11年の浜降祭打合せ協議会において鶴嶺八幡宮神主は、寒川神社主導の浜降祭に参加する条件として、「行列は菅谷神社の後でもよいが、南湖浜では寒川神社神輿の左側の席を保証すること、帰途の行列は寒川神社の次とすること」を要求している。しかしこれは菅谷神社の反対で拒否され、この年は浜之郷の参加はなかった。
  大正12年に寒川神社宮司は浜之郷・鶴嶺八幡宮の参加を求めるため、4月5日に両者が会談して円満に話を進めることを約束し、その後もしばしば協議を重ねている。一方、寒川神社は宮山の氏子たちとの相談会を重ねている。その結果、鶴嶺八幡宮を参加させることについて、「寒川神社の資格を失墜せず、菅谷神社の位置に累を及ばざる範囲において、宮司の裁量に一任す」という結論を得た。これは前年に対立した原因であった席順のことである。7月1日に寒川神社宮司は鶴嶺八幡宮と浜之郷総代へ次の三か条件を提示した。

一  鶴嶺八幡宮が宮山(寒川神社所在地)まで送迎いずれかを行えば、行列、海岸の席順は希望通りにすること。
二  同社が今宿までの送迎で先駆ならば、海岸の位置は一般神輿の側面とすること。
三  以上二案に不賛成ならば、鶴嶺八幡宮の祭典は、古来通り六月二十九日にすべきこと、なお強いて七月十五日に行うならば、午後にすべきこと、さらにどうしても午前中にこだわるならば、寒川神社神輿到着一時間以前に浜を退去すること、とくに双方の祭典は無関係であることを明らかにすべきこと

  その後の事情はよくわかっていないが、7月29日に茅ヶ崎町長・寒川村長代理をはじめとして、各村の氏子総代、鶴嶺八幡宮神官も参加して協議会が開催された。この協議会では先述の三か条が検討されたようで、その結果として次の「覚書」が作成された。

一  本年より浜降祭には鶴嶺八幡宮の神輿は行列の先駆をなし、海岸において側面して鎮座し、合同祭儀で行うこと。鶴嶺八幡宮は寒川神社の神輿を今宿まで出迎えること、但し今宿より更に歩を進めて出迎えることは差し支えなきこと。

  上記の内容は先述の三つの提案のうち第二の案にあてはまる内容であり、この時から浜之郷・鶴嶺八幡宮の南湖の祭典での席順は別格となり、神輿は向かって右の側面に鎮座することになった。
  以上のように、それまでは茅ヶ崎代表として寒川神社に対抗していた鶴嶺八幡宮であったが、茅ヶ崎市域内の村の席順を争う抗争では鉾を収めざるをえず、また寒川神社主導の浜降祭が年々盛んになっていくとにかんがみ、ついに寒川神社と合同という形式で再度復活することになった。

●関東大震災と浜降祭
  関東大震災が大正12年9月1日に起こったが、この年の浜降祭はすでに7月15日に挙行されていたので影響はなかった。しかし、茅ヶ崎市域や寒川町域は大きな被害をこうむり、寒川町域では全壊家屋575戸、死亡者31名、さらに茅ヶ崎市域では全壊家屋2112戸、死亡者156名におよんでいる。このような状況でも翌年の大正13年には浜降祭が行われることになり、寒川神社は『横浜貿易新報』に文章を寄せて紙面にその掲載を依頼している。まず、浜降祭が例年のごとく行われることを記し、なおまた付近の15の神社(実際には14社)の神輿が参加する予定であるとしてる。さらには、下記のように意気込みを示していることがわかる。

「  同神社(寒川神社)の神輿は昨年の震災のため破損の厄に遭遇したるが、河村宮司は青年の元気を鼓舞し、震災のため沈滞せる志気を旺盛ならしむるため、また敬神の念を深厚ならしむるには是非この恒例の祭儀を行う事を必要とし、 」

  この他では7月15日に寒川神社の神輿が還御後、神輿修理竣工奉祝のため数樽の清酒、数俵の餅を参詣者に配布し、煙火や神楽の催しも予定していること、相模鉄道が臨時列車を増発することなどを記して広報活動に努めている。また、寒川神社は6月27日に浜降祭に関係する神社の氏子総代に宛てて、次のような手紙をしたためている。

「  万一本年は中止などという事あらば、青年の志気を阻喪せしむる事甚大なるべくは申す迄もなく、今日は旺盛の元気を以て復興の事に当たらざるべからざる事に有之、又吾人が震災後たるにも拘わらず、安らかなる生活を遂げ得るは、一つに神恩鴻大の賜にして、神慮を慰め奉り、根本の至誠を捧ぐる意味よりしても、是非この盛儀を中止する様の事は相済ざる義と存候間、氏子各位へも御激励の上、盛大に挙行有之様、御尽力有之度、念の為予じめ申上候 」

  このように、震災後の苦しいときだからこそ浜降祭を盛大にもりあげ、青年の志気を高めようというものであった。この時、同文で12社に手紙を出しているが、それは大正13年に参加した茅ヶ崎市域の12の村であり、このことからみるとこれらの各村は寒川神社の熱意に動かされたといえる。

浜降祭参加神輿 (大正12〜15年)
年号
(西暦)
大正12
(1923)
大正13
(1924)
大正14
(1925)
大正15
(1926)
主神宮山
寒川神社
別格浜之郷
鶴嶺八幡宮

鶴嶺八幡宮

鶴嶺八幡神社

鶴嶺八幡社
1位岡田
菅谷神社
2位十間坂
大六天神社
南湖中町
八雲神社
赤羽根
神明
中町
八雲
3位中町
八雲神社
中島
日枝神社
中島
日枝
赤羽根
神明
4位中島
日枝神社
上町
八雲神社
上町
八雲
中島
日枝
5位上町
八雲神社
下町
住吉神社
下町
住吉
上町
八雲
6位南湖下町
住吉神社
円蔵
神明大神宮
円蔵
神明大
下町
住吉
7位円蔵
神明大神宮
柳島
八幡宮
柳島
八幡
円蔵
神明
8位柳島
八幡宮
新町
厳島神社
新町
厳島
柳島
八幡
9位新町
八坂神社
甘沼
八幡宮
甘沼
八幡
(新町)
(厳島)
10位下赤羽根
神明神社
本村
八王子神社
本村
八王子
(甘沼)
(八幡)
11位甘沼
八幡宮
十間坂
大六天神社
十間坂
大六天
本村
八王子
12位本村
八王子神社
下赤羽根
神明神社
中町
八雲
(十間坂)
(大六天)
合計14141411
備考鶴嶺八幡宮
が復帰
( )は出輿
中止か

●浜降祭の参加と約束ごと
  大正期に入り浜降祭が年々隆盛を極めるようになると、さまざまな問題が起こることになった。そこで参加する神社の神官や氏子が中心となり、「浜降祭の参加の約束ごと」が作成されるようになった。
  第一は「浜降祭興行ニ付届書」の提出先であるが、大正5年(1916年)の日記によると神奈川県知事をはじめ、寒川村長・村会議員・鈴木孫七にそれぞれ1通ずつと、藤沢警察署長には図面付きの届書を1通作成している。
  第二は「神輿渡御に関する注意事項」であるが、大正15年(1926年)の日記によると15か条ほどが取り決められ、主なところを拾うと下記のようになっている。このことから祭りの主体が青年たちであり、それぞれの村の対抗意識から喧嘩口論はつきものであったので、その統制をはかるのが神社係であったことがわかる。なお、神社係は各村の青年団から選ばれていた。

「  一 浜降祭海岸祭場においては神社係一同は着袴のこと。
   一 神輿出御の際には神社にて、例年の通り篝火を焚くこと。
   一 神輿台は常に神輿に随伴するよう神社係にて注意すること。
   一 渡御行列の乱れざるよう神社係にて整理すること。
   一 海岸神饌所付近に各社集合所を作って、一名ずつ詰め切り、
     各社の連絡をはかること。 」

  第三は「浜降祭渡御次第」で、大正13年(1924年)の日記によると7月15日は下記のようになっている。これによると南湖浜での祭礼には2時間とっており、途中の休憩はいずれも帰途であり、鳥井戸で30分、一宮では45分取っていることがわかる。

「  午前三時       社頭出発
   同 四時       一宮通過
   同 四時三十分  鳥井戸通過
   同 五時三十分  海岸へ着御
   同 七時三十分  海岸出発
   同 八時       鳥井戸帰着
   同 八時三十分  同 出発
   同 九時十五分  一宮帰着
   同 十時       一宮出発
   同 十時三十分  社頭へ還御 」

  第四は「寒川神社神輿渡御の行列順」であり、年によって若干の違いはみられるが、大正12年(1923年)の日記でみると下記の順であった。これによると前衛と後衛に巡査が配され、警察署長が随伴するという万全の警備であり、先頭と最後尾には神社係と称する青年団員を配して、混乱を防ぐ体制がとられていることがわかる。

「  人払(神社係) ― 前衛巡査 ― 先駆(祢宜) ― 人力車 ― 神号旗 ― 辛櫃 ― 鉾 ― 大榊 ― 太鼓 ― 御翳(絹で作った長柄の傘) ― 神輿 ― 宮司人力車 ― 主典人力車 ― 警察署長 ― 後衛巡査 ― 寒川村長 ― 寒川村会議員 ― 委員長 ― 委員 ― 神社係 」

  第五は「神饌」つまり神前に供える品物で、昭和3年(1928年)の日記を見ると下記のようになっている。ここで前夜祭とは7月14日の夜に行われる祭礼、海岸祭とは南湖浜での祭りであり、還御祭とは寒川神社へ神輿が帰ってからの祭りである。やはり「浜降祭」だけあって海岸祭の供物が多い。また、大正10年(1921年)の海岸祭の記事を見るともっと多くの神饌が記されており、米・酒・餅・するめ・海菜・野菜・果物・菓子・塩水・赤飯の10種類である。

「  前夜祭では洗米、神酒、海野菜、果物
   海岸祭では洗米、神酒、鏡餅、鰹節、海野菜、果物
   還御祭では洗米、神酒、海野菜、果物 」

●浜降祭の献納品とお札
  献納品とは神社の氏子や祭りに参加した人々が、寒川神社の神輿の前に献上した品物で、年によってその規模や種類は異なるが、おおよそ次のようなものが多い。野菜は人参・牛蒡・モロコシ・茄子・キャベツ・豆・生姜・甘藷・玉葱など、果物はビワ・桃、魚は干物・鯖・鮭・石持、布は白丁・晒・襦袢、飲み物はサイダー、清酒は毎年二斗前後、鏡餅は毎年五重以上。この他に金銭の納入もみえるが、ともあれ地元でとれた野菜や魚、果物が中心である。
  次に南湖浜でどのようなお札やお守りが販売されたのかをみてみる。『浜降祭日記』には大正8年(1919年)に初めて登場し、この時のお札は「剣札」・「箱札」・「切札」の3種類で、若干の数の上限はあるが大正9年(1920年)と大正11年(1922年)も同様である。大正14年(1925年)になると上記の3種に加えて「八方除」・「金帯」・「新守」が登場し、翌大正15年(1926年)には「安産」が追加される。昭和4年(1929年)になるとさらに「剱祓」・「折守」・「箱守」・「特神札」・「ハエガキ」・「略記」が追加される。札・守は浜降祭の隆盛にともなって多種類のものが販売されるようになっており、特に「八方除」がはじめて登場するのは大正14年のことであった。



昭和期の浜降祭

  明治期に引き続き大正期と昭和期の浜降祭に関する日記が寒川神社に現存しており、大正元年(1912年)〜昭和4年(1929年)までは『浜降祭書類』、昭和5年(1930年)〜昭和14年(1939年)までは『浜降祭綴』、昭和15年(1940年)〜昭和17年(1942年)までは『浜降祭書類』、昭和18年(1943年)〜昭和24年(1949年)は『浜降祭書綴』とそれぞれ一括され、表題は異なるがこれらの内容はほぼ同じで毎年の浜降祭に関する書類の綴りである。
  神社によっては神輿は一つだけではなく、「樽神輿」や「子ども神輿」などを繰り出して複数の神輿を出している例もあり、神輿数が神社数を超えている場合もみられる。

●大正天皇の崩御
  大正天皇は大正15年(1926年)12月25日に48歳で崩御したため、この年の浜降祭も既に挙行した後であった。ところが、明治天皇の崩御の際は大正2年(1913年)と翌大正3年(1914年)の2年間に渡り浜降祭を中止したのに対し、昭和2年(1927年)の日記を見ると浜降祭は挙行したことになっている。7月9日に寒川神社社務所において関係神社の協議会が開かれ、次のように大正天皇の喪中につき祭りが華美にならず、静かに行われることを指示している。

「  本年ハ折柄諒闇ニ付、一月七日ニ兵第ニ号市町村宛、本県学務部長通知ノ次第モ有之、殊ニ謹慎シテ厳粛ニ祭事ヲ執行スルヨウ格別ニ注意ノコト 」

  また、南湖浜で祭りの高揚をはかる神輿の練りについても、「本年ハ特ニ練リ居ラザルヨウ各役員注意ノコト」と禁止している。また、寒川神社の神官は藤沢警察署長へ浜降祭執行願書と別紙に、渡御行列予定順路図や予定時刻表などを提出しているが、そのおりに次のような一筆を書き加えている。

「  例年ノ通、前衛・後衛ノ警官御派遣相願度、尚恐縮ニ候ヘ共、貴官若クハ御代理列中ニ御参加被下候ハヽ、誠ニ行列ノ荘厳ヲ加ヘ候儀ト被存候 (後略) 」

  すなわち、前後には警官を、列中へは署長に入ってほしい旨を申し出ている様子がわかる。一方、藤沢警察署も10か条の「指示書」を出しており、寒川神社の神官達とそれぞれ神輿に加わる者達から請書をとっている。「指示書」から「指示事項」の主なところを抜き出して下記に意訳する。

「  一 神輿の担ぎ手の服装は、襦袢、猿股、手拭とも白とすること。
   一 神輿の担ぎ手の人数は16名以下とすること。
   一 樽神輿、子供神輿の参加は認めないこと。
   一 各村落での神輿渡御は午後7時までとすること
   一 渡御中は飲酒を禁止すること。
   一 神輿は絶対に揉みあったり練り歩いたりしないこと。
   一 神輿渡御願書を提出すること、また指揮官と神輿を担ぐ名前を
     組ごとに提出すること。 」

  以上のように、天皇の喪であることからこれまでの浜降祭とは異なり、警察側の厳しい条件がつけられるなど、厳戒態勢の中で行われている様子がうかがえる。

浜降祭参加神輿 (昭和2〜4年)
年号
(西暦)
昭和2
(1927)
昭和3
(1928)
昭和4
(1929)
主神
(中央)
宮山
寒川神社
別格
(右端海寄)
浜之郷
鶴嶺八幡社
別格
(主神右側)
岡田
菅谷神社
第1位赤羽根
神明神社
中島
日枝神社
上町
金比羅神社
第2位中島
日枝神社
上町
八雲社
南湖下町
住吉神社
第3位上町
八雲神社
下町
住吉神社
円蔵
神明社(大神宮)
第4位下町
住吉神社
円蔵
神明社
柳島
八幡社
第5位円蔵
神明大神
柳島
八幡社
本村
八坂神社
第6位柳島
八幡神社
本村
八王子社
中町
八雲社
第7位本村
八王子神社
中町
八雲社
十間坂
大(第)六天神社
第8位中町
八雲神社
新町
厳島神社
赤羽根
神明社(大神宮)
第9位十間坂
大(第)六天神社
赤羽根
神明社
新町
厳島神社
第10位十間坂
大(第)六天神社
中島
日枝社
第11位十間坂
神明社
甘沼
八幡社(大神)
第12位十間坂
神明社
合計121415

●浜降祭の祭式
  通称「浜降祭」と呼ばれるのは大別すると7月14日の寒川神社での「前夜祭」、翌15日の南湖浜での「浜降祭」、寒川神社へ神輿が帰ってからの「還御祭」の3回に分かれており、その進行過程を昭和6年(1931年)の日記で記していく。なお、神饌の括弧内は詳細に書かれている昭和11年(1936年)の日記による。

一、浜降祭前夜祭式次第 (七月十四日 午後八時)
  時刻宮司以下所定の座に着く、これより先手水の儀あり、祓所にて修祓 次に宮司御扉を開き終わりて側に候す、警蹕(けいひつ:神事の時声をかけて周りを戒めること) 奏楽 次いで禰宜以下神饌(洗米五合・酒二合・海菜・野菜・果物・塩水)を供す、奏楽 次いで宮司祝詞を奏す 次いで宮司玉串を奉りて拝礼、禰宜以下座後列拝 次いで禰宜以下神饌を撤す 奏楽 次いで宮司遷霊の詞を奏す まず内陣の御扉を開き外陣の座にて 次いで灯火を滅す
  次いで遷霊 警蹕 宮司御霊代(みたましろ:神霊に代えて祀る)を奉遷す 其儀先ず宮司殿内に参進し禰宜以下各々その位置に着き、絹垣(きぬがき:絹の帳 神事の時垣のようにめぐらして囲いをつくる)を奉仕す 次いで灯火を点ず 次いで宮司御扉を閉じ終わりて本座に復す 警蹕 次いで宮司以下神輿に拝礼 次いで各々退下

二、神輿渡御次第 (七月十五日)
    第一鼓 午前一時
    第二鼓 午前二時
    第三鼓 午前三時
  神輿は前夜祭後拝殿前庭所定の座に奉安す 次いで第二鼓にて奉舁者(神輿をかつぐ人)参集 次いで修祓 次いで第三鼓にて左記の列次により渡御 (以下行列順を記しているが省略)

三、南湖浜祭場祭典次第 (七月十五日 日の出の刻)
  時刻宮司以下参列員所定の席に着く 次いで修祓 次いで禰宜以下各社神輿に神饌(洗米三合・酒二合・鏡餅二升一重・赤飯五升・海菜・野菜・果物・塩水)を供す 奏楽 次いで宮司祝詞を奏す 次いで宮司玉串を奉りて拝礼、禰宜以下座後列拝 次いで参列者玉串を奉りて拝礼 次いで禰宜以下神饌を撤す 奏楽 次いで各々退下

四、還御祭 (七月十五日 午前十時三十分)
  時刻神輿社頭に還御 次いで拝殿前庭に舁据う 次いで禰宜以下神饌(洗米五合・酒一升五合・野菜・塩水)を供す 奏楽 次いで宮司祝詞を奏す 次いで宮司玉串を奉りて拝礼 禰宜以下座後列拝 次いで神社係長玉串を奉りて拝礼 神社係座後列拝 次いで禰宜以下神饌を撤す 奏楽 次いで各々退下

五、遷霊祭 (七月十五日 午後五時)
  時刻神輿を拝殿所定の座に奉安す 次いで宮司御扉を開き終わりて本座に復す 警蹕 次いで遷霊 警蹕 宮司御霊代を奉遷す 禰宜以下各々其の位置に着き絹垣を奉仕す 次いで宮司遷霊の詞を奏す 外陣の座にて 次いで宮司玉串を奉りて拝礼 禰宜以下座後列拝 次いで神社係長玉串を奉りて拝礼 神社係座後列拝 次いで宮司御扉を閉じ、終りて本座に復す 警蹕 次いで各々退下

  以上のように、まず第一の前夜祭では寒川神社の御霊代を神殿から神輿に遷す行事を行い、第二に神輿を宮司以下行列して南湖浜に運ぶ。その折は岡田の菅谷神社の神輿が寒川神社の神輿を出迎えに来て、途中から浜之郷の鶴嶺八幡宮(社)が先導の役目を勤め、寒川神社神輿の後に参加する村鎮守の神輿が順番に行列して南湖浜へ向かう。第三に南湖浜で各村鎮守の神輿が勢ぞろいして神事を行う。第四に神事終了後に行列を組んで帰途につき、途中でそれぞれの神輿は行列から分かれて村々へ帰って行き、岡田の菅谷神社のみが最後まで寒川神社神輿に付き添って送り届ける。第五に寒川神社社頭で神輿の還御祭を行い、第六に寒川神社の神輿を拝殿に置き、遷霊祭を行って御霊代を神殿に奉遷する。
  多くの人は南湖浜で勢ぞろいした神輿が一斉に海中に入り、禊をすることが浜降祭と考えているが、実際は上述した一連の行事を総称したものが浜降祭である。寒川神社にとっては祭神を神殿から神輿に遷し、1年に1回の禊を行い、それをまた神殿に戻すという神の再生の儀式でもある。

浜降祭参加神輿 (昭和5〜9年)

昭和5
(1930)
昭和6
(1931)
昭和7
(1932)
昭和8
(1933)
昭和9
(1934)
宮山
浜之郷
岡田
1上町円蔵柳島本村中町
2下町柳島本村中町十間坂1,2
3円蔵本村中町十間坂1,2新町
4柳島中町十間坂1,2赤羽根中島
5本村十間坂1,2赤羽根新町上町
6中町赤羽根新町中島下町
7十間坂1新町中島甘沼円蔵
8赤羽根中島甘沼上町柳島
9新町甘沼上町下町本村
10中島上町下町円蔵赤羽根
11甘沼下町円蔵柳島甘沼
1415151515

●戦争の影
  昭和5年(1930年)から昭和14年(1939年)の10年間は、日本全体としても歴史の変化が激しい時代であった。昭和5年は世界恐慌の嵐の中に日本も入り、昭和恐慌といわれた時期の始まりであった。昭和6年(1931年)9月には満州事変が始まり、昭和7年(1932年)2月には満州国建国宣言、同5月には海軍青年将校・陸軍士官学校生が首相官邸を襲って犬養首相を射殺した五・一五事件が起こった。昭和8年(1933年)3月には国際連盟を脱退、昭和9年(1934年)7月には海軍大将岡田啓介内閣が誕生し、軍部の政治力が格段に強くなった時代でもあった。
  昭和11年(1936年)2月に皇道派青年将校約1400人が蜂起し、首相斉藤実をはじめ大蔵大臣高橋是清・教育総監渡辺綻太郎等を殺害、永田町・三宅坂を占拠して国家改造を要求した二・二六事件が起こった。昭和12年(1937年)7月には日中戦争の発端にもなった盧溝橋事件が起こり、同12月には日本軍が南京を占領して虐殺事件を起こしている。昭和13年(1938年)5月には国家総動員法が施行され、昭和4年(1939年)5月にはノモンハン事件が起こっている。
  以上のように綴ってみると日本の政治が軍部独裁により着々と戦時体制に突入し、戦時色がかなり強い時代であったことがわる。浜降祭にその影響が見えるようになるのは昭和7年からで、この年に寒川神社が寒川村在郷軍人会分会長に浜降祭役員として参加することを呼びかけている。在郷軍人会とは現役軍人以外の予備・後備役、国民兵役の軍人兵士の全国組織で、市町村単位で分会が設けられていた。昭和12年からはその代表者が南湖浜で玉串奉奠を行うようになり、昭和12年には茅ヶ崎町・寒川村の分会長が、昭和13年には上記2町村のほか小出村の分会長も参加している。また、昭和13年からは浜降祭が武運長久祈願祭もかねることとなり、寒川村・茅ヶ崎町・小出村の出征兵士の家族を招いて玉串奉奠をすることになった。
  寒川神社はこの時「国威宣揚・武運長久」の旗を調製することを決め、その折に寒川神社宮司の竹内武雄が7月12日付で出征兵士の家族に宛てた手紙の控えが日記に残されている。

「  拝啓 支那事変勃発以来、既に一周年を迎え、愈々御多繁の事と存じ上候、陳れば来る七月十五日午前六時、茅ヶ崎南湖浜において、当神社浜降祭執行候ところ、今年は特に同祭典に併せて、国威宣揚並出征軍人武運長久の御祈願を執行、神札を贈呈致し候につき万障御差繰御参列なし下されたく、この段ご案内申上候、敬具 」

  このように戦時体制が風雲急を告げている様子がわかり、家族にとっても出征兵士の元気な姿を祈願する気持ちも強かったと思われる。寒川神社はこの年に初めて「武運長久」の切り札を授与しており、日記には寒川村120躰・茅ヶ崎470躰・小出村100躰の合計690躰と記されている。
  昭和14年の日記には武運長久の切り札の全体数は記されていないが、部分的に芹沢腰掛神社氏子中40躰、堤建彦神社氏子中43躰の合計83躰のみが記されおり、全ての神社の氏子に対して出征兵士家族へ配ったものと考えられる。一方で、昭和5年から昭和12年まで寒川神社浜降祭の会場で販売していた札・守、即ち金帯・剣祓・八方除・切札・箱守・剣札などは昭和13年から発売中止とし、武運長久の切り札のみを役場を通じて出征兵士の家族に配布する形式に変わった。

浜降祭参加神輿 (昭和10〜14年)

昭和10
(1935)
昭和11
(1936)
昭和12
(1937)
昭和13
(1938)
昭和14
(1939年)
宮山
浜之郷
岡田
1十間坂1,2新町上町下町?
2新町中島下町円蔵?
3中島上町円蔵本村?
4上町下町柳島甘沼?
5下町円蔵本村中町?
6円蔵柳島甘沼十間坂1,2?
7柳島本村中町?
8本村赤羽根十間坂1,2新町?
9赤羽根甘沼芹沢?
10甘沼中町新町荻園?
11中町芹沢上町?
12十間坂1,2赤羽根柳島?
13芹沢芹沢中島中島?
14遠藤荻園荻園赤羽根?
15西久保西久保?
18181919?

●都市型の祭りへ
  昭和63年(1988年)7月15日の資料から、浜降祭の神幸(次第)の時刻表を下記に記す。
    午前 2時30分  寒川神社発輿
        6時30分  南湖浜降祭祭場着
        7時     浜降祭祭典
        8時     浜降祭祭場発輿
       10時     荻園行在所
       10時40分  田端行在所
    午後12時     一之宮行在所
        2時     寒川神社着輿
  寒川神社での御霊遷しは7月15日の夕刻に行われ、寒川神社の神輿に従う例えば菅谷神社の神輿は、既に祭礼当日の午前0時に菅谷神社の社頭を発輿して寒川神社の境内へ入り、倉見神社と一之宮の八幡大神の神輿と共に寒川神社の神門の外に位置して寒川神社の神輿の発輿を待つ。これらの神輿は午前2時30分に寒川神社の社頭を立ち、寒川神社の神旗・日月旗・榊・寒川神社神輿・同社宮司・菅谷神社神輿・倉見神社神輿・八幡大神神輿の順に行列を作って神幸をする。往路では一之宮の沿道で一之宮の人たちが麦からを燃やして行列を見送る。
  午前6時30分に神幸の行列が茅ヶ崎市南湖の浜に着くと神輿はそれぞれ海に入り、竹で作られた門(鳥居)を潜って祭場の定められた位置に着く。この年にはここに集まる神輿は子供神輿を除いて33基を数えた。相模国一之宮である宮山(寒川神社)の他に同じ寒川地区からは岡田(菅谷神社)・倉見(倉見神社)・一之宮(八幡大神)の3社、茅ヶ崎市からは寒川に近い芹沢(腰掛神社)・堤(八坂神社)の2社で、寒川地区の3社は南湖の祭場に入る行列では寒川神社のいわば先触れとして前を行き、寒川神社の後ろには古くから寒川神社と縁の深い芹沢と堤が続く。行列の先頭は茅ヶ崎市浜之郷(鶴嶺八幡社)が務めることになっていて、鶴嶺八幡社の組として西久保(日吉神社)・矢畑(本社宮)・円蔵(神明大神)が参加する。また、同市内からは鶴見地区が4社、松林・小出地区からは9社、茅ヶ崎地区からは5社、南湖地区からは5社がそれぞれ参加した。
  南湖浜の祭場に神輿が整列すると、神輿の前には案が置かれて祭典が執行される。寒川神社の神輿に対しては特別な扱いがなされ、前日には神輿の置かれる砂の上に御旅所神主の天孫家がホンダワラを敷き、当日には着輿した神輿にワラサ(後にマグロ)が献じられる。午前8時には各神輿が南湖の祭場を発輿し、寒川神社の神輿は復路、荻園・田端・一之宮の各行在所を経て、午後2時に本社に還幸する。
  このように明治期には参加する神輿が10基前後であり、大正期に入って少しずつ増えていった寒川神社の浜降祭は、地元寒川町はもちろんのこと神幸の沿道にあたる茅ヶ崎市全域を含み込んだ祭りとなった。そうしてみれば、現在のように多数の神輿が参加して盛大に行う浜降祭は本来的なものではなく、茅ヶ崎市の都市化とともに町内を横断する祭りとして位置づけられ、また神輿の愛好者が集団を組んで好んで参加するという風潮に支えられて、いわば都市型の祭りとなったものである。



伝承としての浜降祭の起源

  浜降祭がどのような理由で、いつ頃始ったのかは明らかでなく、浜降祭の起源は不明である。但し、南湖海岸で浜降祭を執行することになった経緯については諸説がり、大別するとおおよそ次の4つに大別される。なお、この4つの説はありそうな話を伝承しているところに特色があり、これらを立証する古文書・記録等は現在までの調査では発見されていない。

●千年を越える伝統
  第一は、明治32年(1899年)の『浜降祭日誌』に「神事は千有余年間継続し、執行し来り候由緒ある最重の神事」として、古代から千年以上続いているとしている。しかし、これについては史料的裏付けがない。

●寒川大神の降臨
  第二は、明治41年(1908年)の『浜降祭日記』に7月16日の『横浜貿易新報』の記事を紹介している。新聞記者は「附会の説にして信ずべからず」と断っているが、「初め祭神は相模川沿岸、当時の河口たりし南湖の浜に降り給へ (中略) 祭神の没後、その恩恵に報い、かつは神夢によりて、漁猟を祝福せんとしたる古代の遺風に濫觴(らんしょう)すと伝ふ」と、これまた古代に始る祭りとしている。南湖の浜に寒川神社の祭神が降臨し、漁民にその術をさずけるため、その恩恵を報謝するために祭りをしたと説明している。
  浜降祭では海に入った神輿が竹の門(鳥居)を通って祭場に入場することや、祭場の南湖の浜に八大龍王の碑が祀られ、南湖海岸が寒川大神(寒川比古命・寒川比女命)の降臨の地であるという伝承があることからすれば、浜降祭は標着神としての寒川大神の降臨を再現し、禊によって神の再生を図る行事と考えられる。浜に向かった神が禊をするために、往路よりも復路により豊かな呪力に満ちていることは明らかである。今日の行事でも往路は何事もなく南湖の祭場へ向かうが、復路には各所の行在所に立ち寄ってから本社へ還幸する。国衙の祭祀政策による国府祭とは異なり、寒川神社の本来的行事がこの浜降祭といえる。

●漂着神信仰
  第三は、同じく『横浜貿易新報』の同日の記事であるが、「往古相模川洪水のため、氾濫せし際、神輿もこの厄に罹りて流れ下りたるを、南湖の漁民が拾ひあげたるに始る」としている。ここでは寒川神社の神を漂着神信仰としてとらえていることがわかる。もっともこれに似た話が伝承しており、それが次の説である。

●寒川神社の神輿流出
  第四は、『茅ヶ崎市史 5』に「天保9年寒川神社の神輿が国府祭の帰りに、増水中の相模川に流され、行方不明となった。数日後南湖の網元鈴木孫七の地引網にかかり、鈴木孫七の手によって寒川神社に返された。そのお礼のために毎年寒川神社の神輿は南湖の浜へ渡御することになり、神輿は鈴木孫七の家に立ち寄ることになり、鈴木家は浜降祭の準備役をしている。(以上要約)」と紹介されている。
  大磯で行われる国府祭に参加した寒川神社の神輿が、その帰途の途中で相模川の渡し場で起きた寒川の氏子と地元馬入(平塚市)の氏子との争いのために、増水中の川へ転落して行方不明となった。驚いた寒川神社は発見者に三〇〇石の報酬を与えると告知し、行方不明の神輿を探したところ、その数日後に南湖の浜の網元鈴木孫七の所有する地引網に掛かって発見された。鈴木孫七はその神輿を自宅の裏山の石尊山に安置して寒川神社に急報すると、3日後に神輿は無事に寒川神社へ戻った。
  この謝礼として鈴木孫七は若干の寒川神社の土地を賜り、神輿発見の功績のために寒川神社の禊場が南湖の浜へ移った。以後は毎年同地へ寒川神社の神輿が渡幸することが慣例となり、その神輿渡幸の際に鈴木家が御旅所神主に任命されるようになったという。
  浜降祭は既に安永9年(1780年)以前から行われていたと考えられ、天保9年(1938年)が始まりではないが、鈴木孫七は南湖にあった寒川神社の御旅所神主を天保11年(1840年)から勤めている。その後も浜降祭の南湖の浜の準備役をしていることは確かであり、浜降祭日記や寒川神社日記の記事にも明治14年(1881年)以降は毎年の如く登場している。

●官社としての神威
  上記の他によく話題にされることで、浜降祭の神輿が現在の寒川町・茅ヶ崎市・藤沢市の広範な地域を廻って、その神威を強調したという説がある。
  『茅ヶ崎市史 1』に所収されている『寒川神社神輿幸御道筋絵図』はよく浜降祭の順路を示したものとして評価されており、明治6年(1873年)に高座郡芹沢村戸長塩川善左衛門が描いたものとされている。この絵図には寒川神社の神輿が同年9月8日〜13日の6日間に、現在の寒川町・茅ヶ崎市・藤沢市の広範囲の43ヶ村を巡行した様子が描かれており、寒川神社の神輿が休息した所と宿泊した所を日に追って書き入れてある。下表がそれをまとめたものである。

休息・宿泊場所(明治6年9月8〜13日)
9月/8日9日10日11日12日13日
休息獺郷遠藤浜之郷大庭赤羽根午後3時に
寒川神社着
宿泊岡田茅ヶ崎藤沢遠藤?
備考寒川神社出発は8日の午前6時半

  ここで巡行した村々は浜降祭に神輿を参加させているところが数多く含まれていることから、この史料(絵図)が唯一寒川神社の浜降祭の神輿巡行の実態を示すものであるとされていたが、『寒川神社日記』を見ると実際はそうでないことがあきらかになった。
  寒川神社は明治4年(1871年)5月14日に神奈川県で唯一官社として国幣中社の社格を得た。なお、神奈川県下で2番目には鶴岡八幡宮が国幣中社になったが、寒川神社よりずっと遅れて明治15年(1882年)9月13日のことである。明治6年9月の寒川神社神輿の巡行の目的は「供奉令之条々」の明治6年9月6日の条に、「敬神愛国の御趣意、みずから庶民に貫徹等これありあたく」としている。このことから巡行はいわゆる明治政府が強調する「三条の教則」を実現し、寒川神社の威令を宣言することであったことがわかる。
  9月13日に神輿が帰着するとさっそく神饌を献じ、神楽を執行し、この時に一八大区の戸副長と一九大区の戸副長が列席している。そして神事執行が終わると直会に移っている。このように寒川神社が官社としての宣言を高らかに、高座郡の村々へ行った行事であったことがわかる。なおこの年の6月29日は片岡忠教が寒川神社宮司に、同年9月12日富田光美が祢宜に着任し、両者共はじめて明治政府から任命された。すなわち寒川神社は官社としてはじめて、官選の宮司・祢宜が就任した年でもあった。
  その後、この年の9月19日に寒川神社において神事大祭典を挙行しており、その折りに第一八大組一番組から一〇番組までの43ヶ村、総戸数4913軒に対して玉串を軒別に配っている。その際に寒川神社は第一八大区の区長・副長に対して、「もっとも御初穂等の義、深く御心配これなきよういたしたく」としながらも、後段では「多少を論ぜず、御敬神の御志を御奉納にあいなり候はば、この上幾久しく神献に及ぶべし」とも伝えている。この時玉串を配った42ヶ村が先般の神輿巡行を行った村々であり、その意味では官選の寒川神社宮司の御披露目と、寒川神社の氏子圏拡大をはかるための興行であったともいえる。つまり、寒川神社の浜降祭とは関係がない。



浜降祭の目的

  南湖浜で行われる浜降祭がどのような目的で行われていたのかは、江戸時代の史料では知ることができないが、後年の史料、たとえば明治32年(1899年)の7月8日に寒川神社宮司丹羽与三郎が神奈川内務部長李家隆介に提出した「具申書」によると、下記のように寒川神社の神輿を浜に出し、浜で「みそぎ」の神事を行っていると主張している。

「  ことに一名「禊の神事」と称し、悪疫流行の際はことさら盛典を行ひ、旧拾四か村氏子共神輿に供奉し、海辺において、よろずの災殃(さいおう)を解除する古例にこれあり」

  さらにここでは除病を強調しているが、たまたまこの年は赤痢が流行したために神奈川県庁が寒川神社に対して浜降祭の中止を要求した年であり、その反論として寒川神社が浜降祭を挙行することこそが流行病を除くという理由づけをしたともいえる。しかし、これとは別に寒川神社が除病についての祈祷をしていることは『寒川神社日記』にもしばしば見えるので、浜降祭にそのような利益(りやく)が本来含まれいたとも考えられる。
  ところで浜降祭の目的が除病のみであったかといえば、たとえば『浜降祭祝詞』には漁民の航海安全と豊漁を祈願している文面も含まれていることから、目的そのものも時代の要請によって変わっていったとも思われる。



御旅所神主・鈴木孫七

  南湖中町(現茅ヶ崎市南湖4丁目)に住む鈴木孫文氏は屋号を「天孫」・「孫七」といい、天保年間より6代(160年)あまりに渡って寒川神社の御旅所神主を務めてきた。鈴木家と寒川神社との関わりは孫文氏の5代前の当主であった初五郎が、天保9年(1838年)に初五郎の漁場で寒川神社の御神体を拾い上げてから始ったといわれる。それ以後、鈴木家は浜降祭の式典の準備などにおいて、様々なしきたりや伝統を守ってきた。以下に、現在どのような準備をするかみていく。
  祭礼の1週間前に寒川神社から鈴木家へ使者がやって来て、ここで準備万端整えるようにと依頼を受ける。浜降祭の式次第を詳細に記した一番古い記録は明治14年(1881年)のものであるが、そこにも「例年の通り御依頼申し候なり」と寒川神社から神主に宛てた書面の写しが残されている。浜降祭前日になると式場の準備が始り、寒川神社の神輿が鎮座する場所に砂盛りをしてホンダワラとホウギを敷き、式場に注連縄を張る。
  「ホンダワラ」は褐藻類の海藻で古名を「ナノリソ」といい、「神馬藻」の漢字をあてるくらい海の神の乗り物という意識が強く持たれ、南湖でも正月用のお供え餅に欠かせないものとされていた。明治・大正期の浜降祭では各社の神輿の蕨手にも掛けていたようである。三代目和助丸の内藤氏が健在のときは浜降祭が近づくと「使いなよ」といって用意してくれたものであったが、ここ10年ぐらいは手に入れるのが難しくなり、真鶴から房総一帯、場合によっては新潟の佐渡辺りにまで手を尽くし、ようやく手に入れるといった状況という。
  「ホワギ」は一般的には「ハマゴウ」というようであるが、南湖ではホウギと呼び、本州から沖縄にかけての砂地にはえる低木で、薬湯などにも用いられる。天保期に初五郎が寒川神社の御神体を拾った折り、南湖の一角である石尊山(八雲神社付近)の土手に生えていたホウギの上に御神体を安置し、寒川神社へ急報したことから祭礼の折にもホウギを敷く慣わしが始ったとされている。昔は茅ヶ崎でも海岸一帯に自生していたようであるが、次第に自生するホウギが少なくなり、絶滅の危機にさらされたところ、鈴木家の庭で生育することに成功したようである。
  式典当日のいでたちは、古くは風折烏帽子に素袴(すばかま)だったといい、近年は麻の裃(かみしも)を着るが、いずれも帯刀して式に臨む。この祭典において神事奉仕者としてまず最初に玉串を奉奠したり、鮮魚を献饌したりすることを慣例としているのは、御旅所神主としての重要な役割をもって奉仕されてきた証拠である。



その他(未編集分)

  寒川神社では7月14日の前夜祭に引き続き、翌15日未だ明けやらぬ午後2時20分に発輿祭が斎行され、同30分に社頭を初輿、神輿は菅谷神社をはじめ町内の神輿を従え約7kmの道中を巡行、午後7時南湖祭場における祭典を斎行の後、午後3時に社頭還還幸する。この祭典は相模国一之宮寒川神社、茅ヶ崎市の鶴嶺八幡宮をはじめ両市町内各社の神輿が出御し、御神幸における順序は鶴嶺八幡宮が先駆となり寒川神社を先導することを恒例とする。祭場での列位も中央に寒川神社、向かって左側に腰掛神社、次に是の八坂神社、右側に菅谷神社の位置は不動としているが、この先駆神社は寒川神社の摂社であり、他の3社は寒川神社と親縁の仲にあったことを物語る。
  また、南湖の祭場において寒川神社の御神前に特殊神饌として「ワラサ」および赤飯の奉献が行われているが、これは祭典執行にあたり御祭神の御神幸を祝い、漁の法、農耕の術を授けて常に土民をいつくしみ給いと御新徳に奉賽し、漁獲および農耕の満足を祈願せんとしたる古代の遺風から起こったものと思われる。
  浜降祭はもとは6月30日に行われていたといい、水無月祓(みなつきはらえ)としての禊神事であろうから、天保9年(1838年)の事件を契機に始まったというような新しいものではないと考えられる。しかし、もとは相模川(馬入川)の川口近い海岸で行われていたものが、この事件をきっかけに南湖の海岸に移された可能性もある。
  天保の事件において神輿を発見した鈴木孫七家はそれ以前から寒川神社と関係があり、御旅所神主であったという伝承もあるが、このことが機縁になって御旅所神主として浜降祭に奉仕するようになったともいわれている。いずれにせよ浜降祭の祭場の盛り砂、注連縄張り、この祭りに参加する神輿にかける海藻、特殊神輿であるワラサ(ブリの若魚)の調達が鈴木家の勤めとなっていた。


戻る(高座郡の祭礼)

浜降祭参加神輿  明治7〜26年(1874〜1893年)
現行町村名神社名7910111314151617181920212223242526



(4)
宮山寒川神社@@@@@@@@@@@@@18
岡田日枝神社CCCCCC7
一之宮?1
(下)大曲十二神社CCCCCB(○)6
海老
名市
門沢橋渋谷神社JJIGH(○)6



(4)
獺郷?1
宮原寒川神社EEEFFEEEDE11
遠藤御嶽神社DDDDHHHGFG(○)11
用田寒川神社GG2




(11)
浜之郷八幡神社AAAAAAAAAAA(○)15
芹沢腰掛神社BBBBBBBBBBAB(○)15
南湖八坂神社1
(下)寺尾八坂神社EHGHGGG8
円蔵(造)大神宮FFFFDDDDDDCD(○)12
柳島八幡神社GHIIEEEFFFEF(○)12
中島日枝神社HIJHGIIIHJ(○)10
八阪神社I1
菱沼八王子神社J1
茅ヶ崎八坂大神KJHI(○)4
甘沼八幡大神K(○)1
4192054516101011116910111211912(11)

浜降祭参加神輿  明治27〜45年(1894〜1912)
現行町村名神社名272829303132333435,36373839404142434445



(4)
宮山寒川神社@@@@@@@(@)@,@(@)@@@@@@@@17
岡田八坂神社A(○)A?A??A4
(下)大曲十二神々社(○)AB???2
一之宮八雲大神DDC???3
藤沢
遠藤御嶽神社(○)BBAA???F6




(10)
甘沼八幡神社(○)CCB???3
下寺尾八坂大神ED?B??4
浜之郷鶴峯八幡宮???AB2
茅ヶ崎
(本村)
八阪神社???BA2
八王子神社???C1
十間坂八阪神社???CBD3
柳島八幡宮???DI2
中島日枝神社???AH2
円蔵大神宮???FG2
南湖上町八雲神社???CE2
314152(4)56533(1)1,1(1)1?38?7410

浜降祭参加神輿  大正2〜15年(1914〜1926)
現行町村名神社名23456789101112131415
寒川町
(2)
宮山寒川神社@@@@@@@@@@@@12
岡田菅谷神社AAAAAAAABBBB12
藤沢市遠藤御嶽神社B1
茅ヶ崎市
(15)
浜之郷鶴嶺八幡宮CAAAA5
十間坂八坂神社DHEGFEDCCLL11
南湖中町八雲大神EIHJGFEDDCMC12
南湖上町八雲(大)神HJCFIHGFFEEF12
南湖下町住吉大神IDIHKJIGGFFG12
茅ヶ崎本村八王子神社FBDDEDCBMKKJ12
八坂神社L1
柳島八幡大神GEGBCBKIIHHI12
円蔵(神明)大神宮JFBCBKJHHGGH12
中島日枝神社KKJEJIHEEDDE12
甘沼八幡大神KCKKHGFLLJJ11
菱沼八王子神社KG2
(下)赤羽(根)神明大神FIDCBKKMCD10
新町八阪(坂)神社JJ2
厳島神社II2
3161800121212121213121314141411