半原はんばら

半原神社

  「半原神社」は宮沢と県道54号が交差する北西の一角にある。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「諏訪社」が村の鎮守とあり、清瀧寺持と記されている。また、神奈川県皇国地誌残稿には「半原神社、式外村社々地東西二十一間南北二十八間三尺面積五百九十九坪丑ノ方字久保四千百七十番地ニアリ建御名方命ヲ祀ル勧請年暦詳ナラズ例祭九月二日旧諏訪大明神ト称セシヲ明治二年己巳六月今ノ社号ニ改ム 境内神社四 略」と記されている。
  中世・永禄の頃は北条氏康の臣である田城城主内藤下野守藤原秀行がこの地を領していたが、永禄12年(1569年)10月に甲斐の武田信玄が小田原の北条氏を攻め、帰路三増峠にて合戦をした際、信玄は信州の諏訪明神社を向山の地に勧請し、戦勝を祈願したと伝えられる。
  神社の由緒を伝える社碑によれば、その後天正4年(1576年)に山崩れにあい、慶長8年(1603年)9月に宮沢左岸の現在地に遷宮した。寛永6年(1629年)に新井加賀守、惣領内藤金兵衛と共に修理を加え、諏訪大明神と称した。明和6年(1769年)霜月24日に社殿を改築したとある。文政10年(1827年)頃には鳥居・水屋・天王神輿等造営の文書が見られ、半原村の鎮守として一段と整備されたようである。
  明治2年(1869年)6月に半原神社と改称され、明治7年(1870年)7月の社寺書上帳によれば「1.高三石四斗三升三合 相模国愛甲郡半原村 神主 前田藏人」との記事があり、村社に定められた。『愛甲郡勢誌』・『愛川町文化財報告書第9集他』によれば「明治43年7月、国の訓令を奉じて村内の各地に奉祀してあった、八雲・浅間・琴平・秋葉・日枝・神明・清瀧飛瀧・諏訪・滝・稲荷の10社を合祀す」とある。なお、皇国地誌残稿ならびに明治8年(1875年)の半原村地誌関係書戸長役場写によれば、浅間・八雲・琴平の3社と塞神社は明治7年(1874年)12月に旧地より半原神社に移され、境内神社とされたとある。
  拝殿東にある社碑によると「明治45年3月15日工を起し、南面の社殿を東向きとし、新たに拝殿を造営し、鳥居を改め、社地を整え、5月1日竣工した」とある。大正4(1915年)年9月に神饌幣帛料供進指定神社に列せられた。昭和21年(1946年)8月に宗教法人の指定を受けた。昭和52年(1976年)2月に覆殿新築の工を起し、同年7月に竣工した。中宮外陣内法には「大住郡沼目村飯島藤兵衛暉重」の文字が刻され、外陣の天井の巻龍には「法眼永仙藤原元信九世孫 狩野梅笑興信門人松尾梅雪興□書?」と記されている。
  附属建物、奉納品の主なものは社務所兼神楽殿(一部は神明社より移転)、鐘楼および梵鐘がある。梵鐘は第二次大戦中に供出されたが、昭和31年(1956年)に再鋳された。また、祭日にたてられる幟は、山岡鉄舟の筆によるものである。神社は江戸末期ごろは名主新井喜右衛門が管理面をつかさどり、明治以降は前田蔵人、足立原禎、井上藤吉、甲賀金蔵らが社を掌り、近年は甲賀貞治氏が宮司であった。

半原神社鳥居
社号標社号柱
幟竿燈籠
ふるさとの木半原神社のトウカエデ
手水舎社務所
神楽殿鐘楼
石碑鳥居
燈籠燈籠
石碑お神札納所
狛犬と燈籠狛犬と燈籠
燈籠石碑
拝殿幣殿・覆殿
八坂神社
覆殿改築記念碑石碑
参道境内
玉垣
境内社

囃子

  



神輿

  

 
宮本区会子供神輿格納庫


八雲神社祭礼

  半原神社に合祀された八雲神社の祭礼日は、明治の初年までは8月3日を祭日としていたが、その後、7月24日を宵宮、翌25日を神輿の五地区の渡御として、川北・原臼・宮本・両向・細野の氏子連が輪番で祭礼を担当して、営み続けてきた。しかし、近年は氏子中の都合もあり、それに近い土曜・日曜に行われるようになった。



半原の歴史

  半原村は往時は愛甲郡毛利庄に属し、「飯原村」の称を用いたが、万治年中(1658〜60年)に半原村の称に改められた。この地は文安元年(1444年)に小田原の城主大森氏の領であったが、弘治3年(1557年)8月から北条氏の臣内藤秀行の領となった。文禄元年(1592年)5月から徳川氏の代官窪寺九右衛門の支配となり、寛永元年(1624年)2月に徳川氏の家臣(旗本)佐藤伝左衛門の知行所となり、享保9年(1724年)から徳川氏の代官日野小左衛門の支配となり、享保13年(1728年)から下野国烏山藩大久保山城守の領となった。明治2年(1869年)から烏山県となり、明治5年(1872年)1月に足柄県の管轄となり、明治9年(1876年)5月から神奈川県の管轄となった。


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