羽根はね

須賀神社

  「須賀(すが)神社」の祭神は「須佐之男命(すさのおのみこと)」・「大海津之命(おおわたつのみこと)」で、境内社は「多賀明神」・「浅間社」・「稲荷社」である。創立年代は不詳であるが、往時は「住吉社」と称し村の鎮主であった。神体は石一顆を奉安してある。古棟札7枚のうち、永正庚の3字より永正7年(1509年)のもので、その棟札によれば今井三郎左衛門は当社および牛頭天王社に進退し、名主であった。天正19年(1591年)には社領二石の御朱印を賜り、米倉舟後守も社領一石を寄進している。
  社頭手水鉢の銘記は正徳六庚申歳(1716年)三月吉祥とある。本殿中の守置の石像牛頭天王は宝暦年間(1751〜63年)の作である。明治6年(1873年)7月30日に住吉明神社は、同じ羽根村の牛頭天王社を合祀して、須賀神社と改称し村社に列せられた。時の神主は秦野煙草の開発者「草山貞胤翁」である。大正12年(1923年)9月に相模湾を震源として関東大震災が起こり、社殿全潰し、社前の老松・老杉も倒木したと社伝は書き伝えている。このとき、奇しくも神輿は残った。現在の社殿は3年後の大正15年(1926年)の再建によるもので、後に知事「半井清氏」が御社号浄書奉納され、昭和39年(1964年)に大鳥居を建設した。

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石碑鳥居
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神社由緒参道
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燈籠燈籠
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手水舎狛犬
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拝殿覆殿・幣殿
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神楽殿 
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境内


例大祭

  4月4日→4月第1土曜日



羽根の歴史

  羽根は丹沢支脈に開けた集落で、山際から緩やかな傾斜が続き、葛葉川の近くで平地になっていて傾斜半分、平地半分という地形である。『風土記稿』にある小名は「西ノ庭」・「中ノ庭」・「扇沢」であり、天保5年(1834年)の戸数は75であった。

太鼓

  羽根地区の祭ばやしは「羽根祭ばやし保存会」によって伝承され、明治時代からおこなわれていたという。
  囃子は「大太鼓1」・「締太鼓2」で構成され、「ジショウデン」・「キザミ」・「ミヤショウデン」・「ハヤシ」がある。以前は須賀神社の春祭りにおいて境内に作った櫓の上で演奏したが、現在は山車(トラック)で地区内を巡行する。



神輿

  須加神社の神輿は棟札と請負証文が伝わっていて、その由緒が分かる。それによると寛政12年(1800年)に羽根村において牛頭天王社の神輿普請の話が起こり、同年8月に神主の今井文石衛門や名主今井八郎右衛門から、大山の大工「手中明王太郎信景」に神輿の普請が注文された。信景は神輿を10ヶ月で建造し、翌年の享和元年(1801年)6月に完成させた。天明の大飢饉から立ち直り、やがて化政期の爛熟を迎えようとする時代であった。それから45年が経ち、弘化3年(1846年)に明王太郎景元により神輿の大修理が行われ、その時の棟札も残っている。神輿の内陣に享和元年新造の棟札と、弘化3年の大修理の棟札が付いている。
  羽根村の家数は天保年間(1830〜43年)に75戸であり、太平洋戦争により若者が減ったとき、しばらく神輿は担がれない時期があった。戦後、経済・文化が復興し、発展した時期に神輿ブームがやってくると、再び羽根の神輿は祭礼にかつがれるようになった。

●神輿の普請
  寛政12年の請負証文が今に伝わっていて、当時の状況がわかる。この証文を読み下し文にすると次のようになる。

「    請け負い申す一礼の事
  一 牛頭天王御輿 壱社
  但し御柱間 二尺、 組物唐様御(三)手先
    獅子頭 八ツ、 小壁龍 八枚
  但し御柱四本、獅子頭八ツ、龍八枚、組物通し惣金置
    扇子垂木、鳥居玉垣、柱下台輪迄本朱塗
    長押、唐戸通 路色、
    箱台輪板舗、屋根上 布着路色
  右御注文どおり金三拾両にて請け負い仕り、皆出来の儀は来る戌五月晦日までに随分念入に仕立て差し上げ申すべく候。御手附金として、弐両ただ今、慥に請け取り申し候。跡金の儀は追々お渡し下さるべく候。右日限の節、金子残らず御渡し下され、人足の儀は其の御地にて御出し成され、御輿御請け取り下さるべく候。尤も右の内へ檜四尺廻り壱本、栢五尺弐寸廻り壱本、厚朴三尺五寸・三尺六寸廻り弐本、〆て木数四本御指出成され、右木取り先山は此の方にて仕り、木出し人足之儀は、其の御地にて此の地まで御出し成さるべく候。念のため請け負い一札仍って件の如し。
  寛政十二年申八月廿三日 大山寺棟梁 手中明王太郎
                    田原村証人 大津定右衛門
  羽根村神主 今井文右衛門様
           御役人衆 中 様
           御世話人 中 様    」

  文末に書き記されているとおり、この証文は寛政12年に大工明王太郎が、羽根村の神主今井右衛門に宛てた請負の一札である。このとき今井文右衛門は、住吉明神と牛頭天王社の両方の神主をしていた。羽根村は今井氏が多く、室町時代には既にこの地に住み、氏神として住吉明神を祀っていた。次に証文の内容について詳しく触れる。
  証文の冒頭に「牛頭天王御輿壱社」とあり、牛頭天王社の神輿の注文であった。次の「御柱間二尺」は神輿の寸法で、「組物唐様御手先(くみものからようみてさき)」は軒を支える組物の使用が唐様の三手先であるとうたっている。「獅子頭八ツ、小壁龍八枚」は彫刻の仕様であり、獅子と龍が彫られた。但し書きの「御柱四本、獅子頭八ツ、龍八枚、組物通し惣金置」は金箔置きの部分を指定しており、彫刻・組物・柱が金箔置きとなった。続く「扇子垂木、鳥居玉垣、柱下台輪迄本朱塗」から「屋根上布着路色(ぬのせきろいろ)」に至る記述は漆塗りの仕様で、屋根と箱台輪は布着?色(ぬのきせろいろ)塗、鳥居などが本朱塗となっている。
  次に代金や期日などの請負条件が記されている。神輿普請代金は三十両で請け負い、完成期日については「皆出来(しゅったい)の儀は来る戌五月晦日」と約束した。面白いのは神輿の受け渡し方についてで、「人足の儀は其の御地にて御出し成され、御輿御請け取り下さるべく候」とあるように、羽根村の氏子衆が大成して大山の地へ受け取りに行き神輿を担いで帰った。また、木材のことにも触れており、「〆(しめ)て木数四本御指出成され」と書き記してある。この時代は木材を入手するのが容易ではなく、請負金三十両とは別に檜1本・栢(かや)1本・厚朴2本の合計4本の木材を提供することが契約条項としてうたわれている。
  以上の条件により、羽根村神主や世話人と大工との間に神輿の請負契約が結ばれた。

●二枚の棟札
  神輿には請負証文のほかに資料はないが、神輿の内陣付いている2枚の棟札が貴重な情報を提供してくれる。まず、享和元年の棟札の主文は「奉新造立牛頭天王御神輿」となっていて、牛頭天王を祀る神輿の新造を語っている。神輿が完成し上棟祭が行われ、祝詞が奏上された年月が「享和元歳辛酉六月吉祥日」と記されている。かつて天王社の例祭は六月七日であり、祭りに間に合うように出来上がった。神輿の作者銘は「雨降山棟梁手中明王太郎忌部信景」と記してあり、雨降山棟梁は大山寺の大工棟梁であり、神輿は大山の地で造られた。
  もう1枚の弘化3年の棟札は主文が同じく「奉新造牛頭天王御神輿」となっているが、作者の明王太郎景元の記録から大修理であったことが分かっている。また、棟札の裏面には名主・組頭・世話人の名前が列記しており、名主に今井八郎右衛門と三嶽権右衛門の2人が並んでいる。このことは、羽根村が二領主の支配する相給(あいきゅう)の村であったことを語っている。

●祭神の彫刻
  神輿の唐戸と丸柱の間は戸脇(とわき)あるいは小壁(こかべ)と呼ばれ、唐戸の左右に1枚ずつ(計4枚)ある。須賀神社神輿の戸脇には、この神社の祭神である須佐之男命と大渡津見之命の姿が彫刻してある。
  神輿の正面の小壁には『古事記』・『日本書紀』に書かれている有名な神話の、須佐之男命の八俣大蛇(やまたのおろち)退治をモチーフにした彫刻がある。須佐之男命が剣を構え、まさに八俣大蛇を退治しようとする情景が彫られている。もう一方の戸脇には須佐之男命の妃となる櫛名田比売(くしなだひめ)が、文机を前にして菅筵(すがのむしろ)に座っている姿が彫られており、大蛇退治に使われる八つの酒瓶(さかがめ)も脇に彫ってある。次に背面の両戸脇にはこれまた二柱の男女の神の像が彫刻されていて、向かって左には波を背景に書物を手にした仙人姿の男神と、右には琴を手にした若き女神の像が彫られている。この二柱は海の神である大渡津見之命と、その息女の豊玉比売(とよたまひめ)である。
  この神輿の製作が請け負われた寛政12年には、羽根村に天王社と住吉社の両社が存在していたことが、白川家『諸国門人帳古帳之写』の記述から分かる。文中の神主今井文右衛門は神輿発注の前年である寛政11年(1799年)に、天王・住吉の両社の神主として白川神祀祇伯王から門人の許状を受け、2社の神主をつかさどっていた。このように神社祭神や日本の神話をテーマにした彫刻をもつ神輿は、明王太郎作の全神輿の中では他にはなく、須賀神社神輿の特色となっている。


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