長谷はせ

神社の紹介

  長谷部落「葛?城」の地に鎮守として「堰神社」が祀られ、氏子は長谷部落の全住民である。当社の創建については当社に蔵される天和元年(1681年)の縁起や、伝承によると次のように伝えられている。
  天正4年(1576年)の夏は田植時期頃から降雨がなく水田が枯渇したため、田植用水確保のためには玉川を堰き止める以外には方策がなかった。時にこの地の領土、氏直公の家人武井四郎左衛門利忠はこれを善処して、一日も早く村人達の愁眉を救おうと日夜心を尽くしていた。折りしもその工事現場近くを通り過ぎようとしていた一人の山伏があった。時は6月25日の辰の上刻にて栗毛の駒に鞭打て身には唐紅の装飾をまとった壮年の修験者は、「吾は今筑波山近くに住む桂坊と云ふ者なり。吾は今雨降の霊峰を参拝しての帰路なるも、汝この川の流れを堰止め用水を求むに切になるに依って吾この川の堰柱となって永久にこれを守らん。」と利忠に語り、渇水期で川幅は通常より狭くても水量が相当ある川底に飛び入って人柱になった。この修験者は川底深く鎮りて霊魂は遠く筑波の山近くに遷ったが、身は永久にこの川底にあり堰柱となった。これにより多摩川の堰止め工事が順序良く進みその後間もなく完成し、完成後の稲作は毎年引き続いて穂の実りも重く良い収穫の秋を迎えている。この地の人々は現地の社地へ人柱となった桂坊の霊を勧請し「堰大明神」を創建し、毎年6月25日に祭祀を行うようになったという。現在の玉川は改修されているが、当社の南数百メートルのところに「堰神社旧跡衣塚霊場」の碑があり、山伏の衣を埋めたところと伝えられる。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では長谷村の鎮守を村持ちの「堰明神社」とし、用水の守護神といわれ、「山王」・「天王」・「稲荷」を合祀した。旧名は「関野大明神」である。長谷村のこの他の神社・小祠には堰明神社外の末社である「御嶽社」、村民持ちの「三島社」には末社に「八幡社」・「稲荷社」があった。
  社殿は近年に再建され、本殿(高さ2.7m、間口1.45m、奥行1.3m)は総欅造りで、覆殿が切妻亜鉛板葺で拝殿は木造入母屋造向拝付にて完成された。神楽殿(間口奥行共3間半)も木造亜鉛葺板切妻造である。御神体(7cm程)は束帯付黒塗りの木造が安置され、社殿内にはおきなおうなの面が蔵されている。境内には寛文9年(1669年)の銘を刻む「山王社」の石祠があり、末社として「建速須佐之男命」を祀っている。なお、この堰近くに桂坊生前の衣服遺物等を埋めた衣塚を作り、この修験者の遺徳の一端を募っていたが、この地も玉川の水流の変化にて現在では長谷部落桂木の地に移されている。
  長谷では国の重要無形民族文化財である「相模人形芝居」が伝えられており、境内に長谷座の碑が建てられている。

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堰神社鳥居
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狛犬狛犬
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手水舎燈籠
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燈籠
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拝殿本殿・幣殿
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八坂神社神楽殿
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境内

囃子

  



神輿

  



例大祭

  昔は4月15日に行っていたが(7月や9月にやったこともある)、現在は4月15日前後の日曜日に行う。前日をヨミヤといい、役員で幟を立てる。昔は青年が主に準備をし、トウバンといって宮守りをした。
  大祭当日は午前11時12分に神殿で式(神事)が始まる。@宮司にならって一拝、A修祓、B開扉の儀(降神)、C献饌(酒と水の容器の蓋を開ける)、D祝詞奏上、E玉串奉奠、F徹饌、G閉扉の儀(昇神)、H一拝。午後11時43分終了し、その後はお神酒で乾杯し、直会に移る。
  自治会主催のふるさとまつりが同時に開催され、ひまわり広場を出発した子供神輿が4時ごろに着くと、神楽殿で相模人形芝居長谷座の公演が始まる(三番叟、傾城阿波の鳴門巡礼唄の段)。その後、劇団勝太郎により午後6から9時ごろまで芝居などが行われる。



長谷の歴史

  旧長谷村の厚木市域の南西部に位置し、村域は長谷丘陵南側と玉川沿いの沖積地にあり、北西には高松山丘陵末端部に掛かっている。現在の玉川は南境を流れているが、かつては南西の小野村境を流れ、さらに南の愛甲台地に沿って流路があった。長谷丘陵は浸食が進んで大きな浸食谷があり、緩やかなものの起伏に富んだ地形である。糟屋道が村域の北側中央から西側を通っている。周辺は、東側は船子村、南側は愛甲村、西側は小野、北側は愛名村・温水村に接している。
  中世資料では天文20年(1551年)の「道者売券写」に「はせのかう」とあるのが初見で、永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「中郡長谷」と記載されている。『風土記稿』では村名の由来について「村内に長谷観音堂ある故村名に唱ふと云」と記し、小名として「がく一」・「並木」・「谷(やと)」を載せる。旧集落は丘陵裾部沿いと浸食谷にあり、伝承調査では丘陵裾部沿いに「カミバセ」・「ナミキ」・「ナカバセ」・「シモバセ」の4集落が、浸食谷の部分で「ヤト(ヤトバセ)」集落が確認された。村域南側の玉川沿いが水田であり、浸食谷にはいわゆる谷(やと)田が開かれてきた。
  近世の支配は、前期は幕府直轄領、以後は幕府・旗本・藩領等の4〜6給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は86戸で、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は82戸であった。明治22年(1889年)に戸室村・恩名村・温水村・船子村・愛名村・愛甲村と合併して南毛利村大字長谷となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字長谷となる。村域北西部から愛名・温水にかかる丘陵部では毛利台団地が造成され、昭和52年(1977年)に「毛利台」の住居表示が実施された。かつて、沖積地の水田は耕地整理により整然とした耕地になっていたが、現在は県道603号(上粕屋厚木線)の建設以後、倉庫等を中心とした事業所の建設が盛んとなった。また、丘陵部は畑であったが、北東部の温水分にかかる一帯には戦前に旧陸軍が高射砲部隊を設営、現在は東京農業大学の農場となっている。


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