本宿ほんしゅく

神社の紹介

  「春日(かすが)神社」は旧平塚宿の鎮守といわれ、祭神として「天児屋根命」を祀る。当社の創建年代は不詳だが、もとは花水川の東側の左岸十間坂(西海岸?)に鎮座していた「黒部宮(くろべのみや)」で、源頼朝の勧請という説がある。古縁起によると黒部宮は海辺に近く度々風浪の害を蒙ったので、その別当「範隆寺(はんりゅうじ)」と10軒ほどの門前集落と共に北方700m程の地(現在の柳町?)に移遷(集団移住)したという。範隆寺は「広蔵寺」と改称してその裏手に土盛をして当社を創建したといわれ、黒部宮は現在地である本宿の西仲町に遷座した際に「春日神社」と改称し、遷座した時期は不明であるが鎌倉時代中期と考えられている。社名は奈良にある本社の名をつけたといわれ、遷座してからは「本宿のかすがさん」と呼んで親しまれ、安産・子育て・虫封じ・乳の出をよくする神様として信仰された。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では、「春日社」が宿の鎮守で神体は木像(長さ一尺六寸行基の作)とある。古くは「黒部宮」と号し、建久2年(1191年)には源頼朝が馬入川橋供養の為に当社を勧請したことが由緒起に見えるとある。当宮は同地の別当「範隆寺」とともに頼朝夫人正子の安産祈願となっていたので、翌建久3年(1192年)8月には神馬が奉納された。慶安2年(1649年)8月には社領六石の御朱印を賜った。古くは社地が東海道往還より六七町海岸の方の字「十軒坂」にあり、旧知には稲荷の小祠があった。その後は現在地に遷座し境内には幣殿・拝殿・神輿堂などがあり、鐘楼には宝暦5年(1755年)年鋳造の鐘が掛けてあると記されている。
  春日神社の別当寺であった「広(廣)蔵寺(真言宗)」は明治初年に廃寺となっているが、この地所が貨物駅の南側に1町くらいあり、春日神社にも唐ケ原に1町いくらか土地があった。農地解放の時に開放したが畑であった。元は貸して野球場や競馬場に使っていた。

2008.1.22008.1.2
春日神社社号柱
2008.1.22008.1.2
鳥居手水舎
2008.1.22008.1.2
社務所鳥居
2008.1.22008.1.2
狛犬鐘楼
2008.1.22008.1.2
絵馬
2008.1.22008.1.2
立て燈籠釣り燈籠
2008.1.22008.1.2
拝殿覆殿・幣殿
2008.1.22008.1.2
春日天満宮春日稲荷神社
2008.1.22008.1.2
春日龍宮社古札納所
2008.1.22008.1.2
境内


祭りの準備と宵宮

  8月1日に大祭を行っていた時代は、7月30日に幟立てや町内および神社境内などの飾りつけなどをした。幟立ては町内の者が総出で綱を張って幟を立てた。また、神社境内の掃除をし、神輿を出して掃除をしてモジリを張った。町内では道筋にあたる玄関口を横切るように注連縄を張り(注連縄に使う縄は町内で買っておいた)、各家は提灯を吊るしてその上を花で飾ったという。また、街道沿いに仮鳥居や大行灯なども立てられ、仮鳥居は丸太を立てて横木を通して、それらに紅白の布を巻いたものであった。大行灯は町内に一ヶ所だけ立てられ、その大行灯には「正祭儀」と書かれていて、明かりは蝋燭から採っていたがその後は電気になったという。その他に地口行灯を仮鳥居から神社までの道の片側に並べたといい、地口行灯は木枠に紙を貼ってそこに川柳や絵などを描いたものであった。行灯は古くは提灯屋に作ってもらったが、その後は婦人が作るようになった。更に町内の幟を各町内毎に立てた。これらの仕事は祭り当番にあたっている者が交代で行い、さらに当番であたっている者は拝殿で「オコモリ」を夜通し行っていたという。
  7月31日は「ヨイミヤ(ヨミヤ)」で、神主が神輿にオミタマを入れる。また、余興をする舞台をつくり、舞台では「浪花節」や「色物」が出し物として行われていたという。



例大祭

  例祭日は『風土記稿』によると旧暦の6月15日で隔年に神輿を海辺に渡し(浜降り祭)、旧社地にて神事があったと伝えている。その後は8月1日になり、人手を集める関係から昭和55年(1980年)頃から第1日曜日になった。祭りの当日は神主に祝詞をあげてもらい、諏訪町・上平塚・桜ヶ丘・二十四軒町を除いて各町内会が参加する。宵宮で設置された舞台では「歌舞伎」や「神楽」が奉納され、神楽は寒川町の倉見から呼んだ。芝居師は十八軒町にワタウチヤというのがいて、歌舞伎がとても好きで見様見真似で覚えていたといい、三浦方面では人気が高かった。
  8月1日が本祭りであった時代は、1日休んで8月3日に「お礼参り」といって「ハチハライ」をした。8月2日は祭りが終わって疲れ果てているし、また暑いので何もする気にならなかったという。3日は午前中に幟倒しをした後、ハチハライと称してなます・酒・焼き豆腐などの御馳走を食べたという。また、かつては祭りの際に各家から1人ずつ手伝いに出たが、出なかった家は「ダイカエ金」と称してわずかな金額を払った。そのお金は子供達が集めにきたという。近年は翌日曜日に「神幸祭」が行われるになった。



黒部宮

  黒部宮が遷座した後に海岸の人達が中心になって、もともと鎮座していた地に黒部宮を再建した。社前には「春日神社元宮 黒部宮」の社号標石が建っており、由緒も掲示されている。この由緒によると、かつては黒部宮を中心として門前集落が発生しており「見付山」とも呼ばれ、この見付山から花水川の渡渉地点は「越場(こしっぱ)」ともいい、旧花水川を渉り大磯へ続く古道があったという。
  黒部宮にも世話人・総代がいて、春日神社の祭礼にやってくる。黒部宮の大祭は春日神社の祭りが終了してから2・3日後に行っていたという。

2008.1.22008.1.2
社号標由緒
2008.1.22008.1.2
鳥居・社殿

太鼓

  かつては、「柳町(やなぎちょう)」・「東仲町」・「西仲町」の各町内に屋台があったが、明治18年(1885年)の大火で焼けてしまったと言われる。現在でも神社の縁下に彫物やわっぱ等が残っている。



神輿

  春日神社神輿は江戸時代の建造で、もと素木であったものを明治時代中期に彩色したという。昭和49年(1974年)に浅草・宮本卯之助商店に依頼し、3度目の修理が行われた。かつては1年おきに本宮の黒部宮まで渡御する「浜降り祭(ハマオロシ)」が行われ、「本祭り」といった。浜降り祭りでは神輿が海中に入ってミソギをしたが、近年は海岸を回ってくるだけになった。平成15年(2003年)から神輿渡御が中止され現在は神事のみが行われる。
  祭りの当日は神輿が朝7時30分に宮立ちして午後9時に宮付けし、各町内には神輿が休むゴザショ(御神酒所)を作った。ゴザショは篠竹を4本立てて四方に注連縄を張ったもので、その中心に浜から持ってきたアラナスを盛っておき、その近くに春日神社の掛軸を掛けて御神酒などを供えた。第1番のゴザショは柳町で各町内には計10何ヶ所かのゴザショが出来き、神主の祈?があり近所の人達は初穂料をあげた。神輿が神社へ帰ってくると担ぎ棒をつけたまま拝殿に入れて、拝殿の中を暗くしてから担ぎ棒を外したという。その際に神主がマスクを着けて神輿のミタマを抜き、ミタマはシャクと共に神主の懐に入れておくという。また、柳町と西仲町の間に「イドバタ」と言う所があり、祭りが終るとそこで神輿を洗っていた。
  春日神社の神輿は荒々しく、昭和2〜4年(1927〜29年)頃には寄附の出しが悪い家の玄関に神輿を突っ込んだり、しもたやの玄関に突っ込んで畳にまで上がったことがあると言う。遊廓のあった頃は途中で遊廓に入るとなかなか出てこ来なくなり、その際には世話人の下で仕事をする十人頭が引きずり出した。神輿を担ぐ者は300人位いて若い者はなかなか担げなかったと言い、神輿を担いで藤沢まで往復すると一人前と言われた。また、昔は神輿をかけて回ったが、近年では「ドッコイ」と掛け声をかけてゆっくり進むようになった。祭礼にあたっては女性の穢れは忌み嫌われた。家に不幸があったり妻が妊娠すると祭りに参加できなかったし、祭りの時に怪我をすると「おまえは穢れているのではないか」と言われて神輿を担ぐのを遠慮したと言う。
  昭和27年(1952年)の『平塚小誌』によると「腕骨(うでっほね)祭」という習俗が次のように紹介されている。「春日神社祭典の折、神輿は必ず旧地黒部社へ浜降りされ、赤飯と甘酒とが神前に供饌される。祭事がすむや否や途端に若者達は喊声をあげて、赤飯と甘酒に殺到して奪い合う。笹竹は折れ、注連はとび、押し合い揉み合い、腕づくで争う様はまことに壮観である。観衆はこの争奪の渦を目がけて砂を浴びせる。赤飯は叩き落され、甘酒はこぼされる。若者達は砂だらけになり乍ら敢然と争い、観衆の賞賛と喝采の拍手を浴びる奇習である。」なお、浜降りについては『風土記稿』に「隔年に神輿を海辺に渡し旧社地にて神事あり」と記されている。
  昭和50年(1975年)頃に「神輿保存会」が結成され、神輿を担ごうという人が少なくなったことがあったので保存会を作ったという。保存会会員は335名いて、年齢制限はない。市主催の産業祭や復興祭に神輿を担ぎ、春は春日神社の春祭りがあったが今はやらない。その代わりに4月に神輿を出し、夏祭りだけでは全体をまわりきれないので、昭和61年(1986年)は十八軒町と5区を回った。保存会ができる以前は「十人頭」と呼ばれる役が各町内にあって、これは主として春日神社の神輿巡行の時に仕事をしていた。十人頭とは若頭の10人のことで青年会の役員がその任にあたり、若い者が神輿を担ぐときに間違いがないようにと神輿の渡御について回ったり、担ぎ手がいない時には自ら担いだりした。また、神輿の掃除なども行ったという。この十人頭は青年層の集団を統括する機能を持っていて、農村部にはあまり見られない存在である。



平塚宿(本宿)

  「平塚宿」は江戸時代には東海道の宿場であり、新宿に対して元からの宿ということで「本宿」という。高札場は二十四軒町にあり、問屋場は本宿経営の西組問屋場が西仲町にあった(新宿の問屋場は二十四軒町にあった)。本陣は東仲町にあり、東仲町には遊郭もあった。遊廓へ遊びに来るのは周辺の農村や町の人々も多かったが、大山参詣帰りのいわゆる「精進おとし」のために来る人がかなりいた。また、女を知って一人前という風潮もあったせいか、青年会などに加入すると連れてこられる若者もいた。あるいは徴兵検査が終わると来る者もおり、徴兵検査前の性病検査でよからぬ病をしょいこんでいるとこが分かると大変な叱責を受けたという。検査が終われば病気になってよいというわでもなかっただろうが、やはり一人前になったというほどの心持ちであったと思われる。
  かつての本宿は東海道に沿って西から東に向かって「柳町」・「西仲町」・「東仲町」・「二十四軒町(新宿の区分か?)」・「十八軒町」の5つに区分されていたが、現在は商店街・住宅地となって昔の景観をとどめていない。この地区は東海道に面した江戸時代からの宿場と、その背後に広がる新住民の住宅地とからなっている。両者とも戦後に激しい人口の集中を経て、いわゆる都市化した部分である。
  二十四軒町は『風土記稿』に記されているように新宿を設置した時に、宿場の運営にあたらせるため八幡村から24軒を移してきたものとされ、「二十四軒」の町名はこれに因るものである。平塚宿は伝馬課役の過重な負担に苦しみ、東に続く八幡新宿村の加宿を幕府に願い出て許可を得た。よって八幡新宿の住民24戸に平塚宿の中心地域へ強制移転を命じ、慶安4年(1651年)に八幡新宿村の飛び地をつくったのである。同時にもともとそこにあった民家18軒を二十四軒町の東側に移したのが十八軒町となった。二十四軒町は新宿の一部という意識が続いており、現在でも平塚八幡宮の氏子である。この二十四軒町と上平塚を除く地区は、平塚宿の氏神である春日神社を祭祀している。



本宿内で祀る神社

●八王子神社(十八軒町・二十四軒町)
  十八軒町には権現様と呼ばれる「八王子神社」があり、祭神は「天照大神」・「素盞鳴尊」で、十八軒町と二十四軒町が氏子である。かつては徳川家康を祀っていたが、後にこの八王子神社を祀るようになった。例祭日は4月17日で、昔は芝居をしたり露天が出て大変賑わった。子供神輿や屋台があり、屋台の上で太鼓を叩いているのを子供達が曳いた。子供神輿は昔からあったが、戦災で焼かれて新しくしたという。
  現在は十八軒町というまとまりはなくなり、昔の十八軒町が東海道の南北で別れ、北側は元の新宿分も含めて「見附町町内会」となり、南側は同じく「錦町町内会」となった。

●須賀神社(東仲町)
  東仲町が祀る神社は氏神の春日神社の他に、「宝善院」の中の「須賀神社」を祀る。例祭日は7月26日で、近年は日曜日になった。神輿殿があり、昔は神輿が出るとよく遊廓の中に入って出てこなかったことがあるという。遊廓はこの東仲町にあった。神輿は空襲で焼けてなくなった。
  現在は東仲町を名乗る町内会はなく、昔のその範囲には「3区町内会」・「4区町内会」・「5区町内会」と「双葉会」ができている。また、5区町内会の中に「大鷲神社」があり、これは4区・5区で祀る。

●北野天神社(西仲町)
  西仲町だけで祀る「北野天神社(天神さん)」が「阿弥彌陀寺」の西にあり、祭神は「菅原道真公」である。例祭日は1月25日で、昔は盛大な祭礼があった。空き地に舞台を掛けて茅ヶ崎・円蔵の高橋鯛五郎がお神楽を演じた。初めに須佐之男命のおろち退治をやって、その後に国定忠治などをやった。鯛さんが踊れなくなってからは息子が一時やっていたこともある。寒い頃でふるえながらも楽しんで見たという。かつては山車があり、その上で太鼓を叩いて東海道を曳いた。子供はその綱を曳くのが楽しみだったという。祭りには子供達におむすびを与えるという。また、祭礼には他の土地の書道をやっている人達も来た。

●王子稲荷社(柳町)
  東海道とバイパスとの分岐点のそばに稲荷社があり「王子稲荷」といい、オオジンサンと呼んでいる。昔は布川・清田・久保田・井上氏等が講を作って祀っていたという。お祭りは初午で、愛甲郡の有名な神楽師、愛甲のタケさんを呼んでお神楽などをした。



青年

●西仲町
  昔は「ワカイシナカマ」があり、小学校を出て14・16歳で入った。入りたては「コワカレン」といわれる。親と一緒に行って挨拶をする。冬に暮れになると10時頃から朝の4時頃まで、太鼓を叩きながら火の番をした。各家から火の番火を集めて青年会の収入にしていた。集会所はないのでお寺やお宮の境内に集まったり、お大尽のうちの物置などが集まりの場所であった。昭和の初め頃に「青年会」ができた。

●柳町
  昔は小学校を出ると「セイネン」といわれ、主として神輿の世話をした。仲間があって誘われると出掛けるようになり、力石を抱えたり俵を抱えたりして遊んだ。仲間入りは(酒を)一升持っていった。海水浴場の手伝いを奉仕したりしたこともある。その中に十人頭がいて、皆を引っ張っていた。「青年会」・「青年団」ができても町内からは多くは入らなかった。青年団ができたのは戦争近くであったらしい。太鼓は子供がやっていて、大人はやらなかった。



平塚の地名の由来

  平塚本宿の西の柳町の「寺ノ脇」、現在の平塚4丁目10-10にある要法寺境内の西側に「平塚の里緑の公園」という緑地があり、その北東の隅に「平塚の碑」という石碑がある。これは大正9年(1920年)に「平塚の塚」という古墳の前に建てられたもので、さらに昭和52年(1977年)には「平塚碑(ヒラツカノシシブミ)」とその添碑がその側に建てられている。平塚には地名の起こりとして「平塚の塚の主の伝説」があり、平塚・要法寺の古記録によれば天安元年(857年)2月25日に桓武(かんむ)天皇三代の孫高見王の女砂子(いそこ)が、東国下向の折に当地において没したとある。このことは正史には載っていないことである。
  桓武天皇の孫にあたる高見王が東国に下向することになり、その子の高望(たかもち)王と砂子(政子/真砂子ともある)も同道して東下した。当時の東下りの道は足柄路(矢倉沢道)といって足柄峠を越えて坂本(現在の関本)に出て、松田から秦野・粕屋・愛甲・酒井から相模川を田村の渡しを渡って東国に入るという山沿いの道が利用されていた。それが延暦19年(800年)の富士山噴火により足柄峠は通行不可能となり、延暦21年(802年)に新たに東海道に抜ける箱根路が開かれた。その経路は箱根峠から駒ケ岳の山麓から芦ノ湯を通り、鷹ノ巣山から浅間山・湯坂山を越えていく尾根伝いの道(通称「湯坂道」)で、そこから湯本を経て小田原に出た。そこからは海浜沿いに東進して中村・梅沢・柳田・小磯・大磯を経て花水川を渡り、平塚に入ると黒部宮のある十間坂を経て、奥州路にそって本宿に入り田村の渡しに向かった。
  その後、間もなく足柄峠越えのルートも開通したため、東国への道は2つのルートに分かれることになり、東国に下向した高見王の一行はこの2つのルートのうち箱根峠越えの道を選んだ。しかし、平塚の地に入った所で娘の政子が病に罹り、看病の甲斐もなくこの世を去ったので、その死をいたんだ付近の住民はその亡き骸を手厚く葬りそこに塚を築いた。幾星霜を経てその塚の上面が平らになったことから、「平らの塚」が「平塚」という地名になったという。
  一方、東下した政子の兄弟である高望王は常陸国定着後に上総国も所領し、寛平元年(889年)に平朝臣の姓を受けて上総介に任じられて任地に赴き土着し、坂東八平氏の祖となった。関東平氏はこの流れをくむもので、北条氏・中村氏・三浦氏・大庭氏・岡崎氏などはその末裔ということになる。平安時代、中央政界は藤原氏による摂関政治が行われ、出世の望みがなくなった貴族は国司・受領となって地方に下り、任期が切れるとそのまま土着し、その子孫は地方豪族と婚戚関係を幾重にも結んで勢力を拡大していった。桓武天皇の孫高見王の女政子が一族と共に東国に下向したのも、そういった一例であった。


戻る(平塚市の祭礼)