堀西ほりにし(堀斎籐・堀沼城)

御嶽神社

  「御嶽神社」の創建年代は不詳であるが、大昔からの言い伝えによれば、貞観9年(867年)に蔵王権現として創建されたという説や、さらに室町時代当初の正平20年(1365年)頃に創建されたという説もある。また、地頭須田家より永正年間(1504〜1520年)に不闕(欠けることなく)「御供米」として玄米一斗宛上献があり、明治6年(年)に村社に列するという文書がある。
  江戸時代の寛文11年(1671年)には宗旨門別帳が作成され、寺請檀家制度が完成し、神仏混淆思想が盛んになり当神社も月光山蓮乗院(浄土宗)と号する桂林寺持ちとなっていたことが知られ、「蔵王宮」と呼称されるようになった。この社は木像を神体とし(風土記稿)、堀郷の4村の鎮守であった。その後堀郷は「堀川」・「堀斉藤」・「堀山下」・「掘沼城」の4村に分村していった。明治元年には神仏分離令が出されて、神道の国教化が進み廃仏毀釈(きしゃく)の運動が高まり、仏教を排斥し、寺や仏像を壊す行動が高まり、明治6年より御嶽神社と改称されたようである。
  「新編相模風土記・中郡勢誌」等の記述によると蔵王宮(御嶽神社)は堀四ヶ村の鎮守で、神体は木造、例祭は8月8日となっている。然し、煙草耕作等の関係で例大祭は4月4日と固定されてきたが、近年児童数の激減ため神輿渡御が休日でないと困難になり、4月4日以降の土曜日に変更された。
  例大祭には堀山下の「堀之郷正八幡宮」、堀川の「八坂神社」、森戸の「神明神社」、黒木の「須加神社」、波多川の「天津神社」、学校前の「浅間神社」、新生町の「八幡神社」の代表が昔の堀四ヶ村当時の氏子として現在も参列している。その他に、千村の「白山神社」、神社境内にある聖徳神社の代表も参列される。

石碑
鳥居参道
神社由緒手水舎
 
拝殿本殿
狛犬・燈籠境内

  御嶽神社の祭神は「日本武尊(やまとたけるのみこと)>」で「古事記」や「日本書記」によれば景行天皇の皇子で天皇の命令を受けて、九州の熊襲や東国の蝦夷を征伐して、帰国の途中に伊勢の国で亡くなった。昔から武勇の優れた神様で、愛情のある歌人としても崇められ多くの人から信仰されている。
  大森稲荷神社の祭神は「宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)」で、五穀豊穣の神である。元亀元年(1570年)、織田信長の頃に大森式部吉政(大森宮司の先祖)が自宅に創建したが、明治末年に県庁の指示によって御嶽神社に合祀された。
  御嶽神社の境内社は4社ある。「菅原神社(天神様)」の祭神は菅原道真公で、学問の神である。1月25日が祭日で昔は子供達が神札を印刷し、各家庭に配布し勉強ができるようにお願いした。「聖徳神社」の祭神は聖徳太子で、秦野西建築組合の方によって太子講を開き、毎年1月と7月の22日に例大祭が施行され、工事の安全祈願がなされる。「山神様」は昔から春に山から里に降りて田の神となり、秋には再び山に戻り山の神となると信じられ、農耕の守護神として信仰されてきた。「天社神」は春秋の社日(春分、秋分に最も近い前後の戌の日)に農事を休んで時が地神講を開き農家の方々が農作物の豊作や収穫の感謝をお祈りした。

菅原神社(天神様)聖徳神社
山神様天社神(地神)

太鼓

  



神輿

  

神輿殿


堀西の歴史

  堀四ヶ村とは「堀山下村」・「堀川村」・「堀斎籐村」・「堀沼城(沼代)村」のことで、堀斎籐村と堀沼城村は明治20年頃から堀西村となった。
  『風土記稿』にある当時の小名は「森戸ノ庭」・「黒木ノ庭」・「大道ノ庭」・「欠畑ノ庭」・「波多川ノ庭」・「沼城ノ庭」で、天保5年(1834年)の戸数は堀斉藤94、堀沼城36であった。また、堀沼城村は堀斉藤村より分村したとあり、もともと同一村であったことから境界が錯雑していて字(アザ)や道路が分ちにくいとしている。


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