船子ふなこ

八幡神社

  「八幡神社」の祭神は「誉田別命」で神像3体を安置し、社殿裏には船子の道祖神が祀られている。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では船子村の鎮守を村持の「八幡宮」とし、鐘楼には享保4年(1719年)11月鋳造の鐘を掛けていた(この鐘は第二次世界大戦時に供出している)。船子村のこの他の神社・小祠には村持ちの「神明社」・「山王社」・「諏訪社」・「稲荷社」・「第六天社」・「道祖神社」・「大森明神社」が記載されている。
  当社には天正19年(1591年)11月に徳川家康から1石5斗の朱印地が寄付された朱印状原本が残っている。明治7年(1874年)に足柄県より「下船子村社」と認定されたが、以後の神事・祭日の当番は旧来の氏子であった上船子と下船子で1年毎に交替で務めることに決まった。

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八幡神社
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狛犬狛犬
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鳥居水鉢
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鐘楼神楽殿
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燈籠社殿
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日枝社・山王社・農耕山地水の神境内

囃子

  



神輿

  



例大祭

  江戸時代の例祭日は旧暦の4月14日であった。以前の大祭日は4月8?日だったが、お釈迦様の日と重なり雨も多いので、4月29日(祝日)に変更された。豊作・家内安全・地区団結を祈願して行われる。
  一週間前から神社内の掃除、舞台の飾り付けや花飾りの準備をしたり、供物を買う。昭和30年頃までは大勢で幟立てを行ったが、その後は人手が少ないのと電線等が邪魔をするので立てなくなった。
  大祭当日は神前に神主が供物を供える。氏子総代・役員らが列席し、祝詞奏上・お祓い・玉串奉奠を行い、御神酒で乾杯する。以前は余興に神楽・芝居・青年団の踊り等が催されたが、現在は舞台でカラオケや婦人部の踊りが行われる。
  以前はおもちゃ・鯛焼き・おでん等の露天商が出たが、現在は上がりが少なく来なくなったので、自治会で器具・道具を買って、綿あめ・焼き鳥・ヨーヨー・フランクフルトの店を出している。



船子の歴史

  旧船子村は厚木市域の南部寄りに位置し、村域は長谷丘陵最南端と玉川・恩曽川沿いの沖積地にある。恩曽川は北東部を流れ、南境には現在、新玉川が流れているが、これは改修後のもので、以前はさらに南に流路があった。長谷丘陵先端部に小さい山があるが、これは地頭山古墳と名付けられた前方後円墳である。周辺は、東側は大住郡岡田村、南側は愛甲村・大住郡酒井村、西側は長谷村、北側は温水村に接している。
  中世の資料は多く、正和4年(1315年)の「沙弥了申長幸連譲状写」の「相模国愛甲船子屋敷・東野畠」を初見とする。正平7年(1352年)の「将軍足利尊氏充行下文写」には「相模国愛甲庄内船子郷」、宝徳3年(1451年)の「休畊庵寺領注文」には「相模州愛甲保舟子郷」と記載されている。当村は「愛甲庄」、その後「愛甲保」という地域に含まれていたようである。後北条氏支配下の永正16年(1519年)の「伊勢宗瑞箱根領注文」に「中こほりふなこ」、永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「中郡船子」と記載されている。近世の国絵図では、正保図は「舟子村」、元禄図は「上船子村」・「下船子村」、天保図はまた「船子村」と1村を記載する。郷帳では元禄では元禄・天保郷帳ともに上下2村を記載し、幕末の慶応元年(1865年)の文書にも「上・下船子村」と2村を記載している。なお、「船子」・「舟子」の両様が使われているが、その変遷はよくわかっていない。
  旧集落は丘陵縁辺部を取り巻くようにありカミ・シモの2集落がある。『風土記稿』に載る小名は「寺ケ谷」・「北久保」・「原」・「札場」であるが、伝承の集落名とは一致しない。村域北西部に舌状に張り出した丘陵部を中心に畑地があり、東部・南部の広い沖積地は水田で、耕地整理により整然とした耕地となっていた。
  近世の支配は幕府・旗本・藩領などの3〜4給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は61戸、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は61戸であった。明治22年(1889年)に戸室村・恩名村・長谷村・温水村・愛名村・愛甲村と合併して南毛利村大字船子となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字船子となる。東部の水田は宅地化が進み、一部で「南町」の住居表示が実施されている。南部の水田は倉庫などの事業所の建設が盛んである。


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