飯山いいやま

神社の紹介

  「龍蔵神社」は「級長津彦」・「級長戸辺命」の二柱を聖武天王神亀2年(725年)に勧請したと伝えられる。古くは「井山神社竜蔵大権現」と称され、治承4年(1180年)に源頼朝の祈願により相模国神祇奉幣六一社の内にあったと伝えていた。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると御神体は石一顆で、本地仏の阿弥陀如来・薬師・十一面観音が祀られていた。天正19年(1591年)に社領2石の御朱印を附された。宝暦元年(1751年)に拝殿を再建し、天保4年(1833年)に本殿を再建している。江戸時代には「龍蔵権現社」と称し、飯山村の総鎮守であった。末社には「熊野社」・「疱瘡神」・「山王社」があり、別当は「龍蔵院」であった。
  飯山村のこの他の神社・小祠には村持ちの「飯綱社」、龍蔵院持ちの「白山社」、千光寺持ちの「熊野社」・「五霊社」・「十二天社」、千光寺持境内社の「龍田社」は末社に「天神社」・「稲荷社」あり、村民持ちの「弁天社」、「石神社」は村民持ちの3社、「神明社」は村持ち1社と村民持ち1社、「御嶽社」は村持ち1社と村民持ち2社、「山王社」は千光寺持ち1社と村持ち1社と村民持ち2社、「稲荷社」は村持ち1社と村民持ち2社である。
  竜蔵神社の境内は古墳の跡で古い石棺が露出しており、文明6年の地蔵石像がこの上に安置されている。言い伝えによると厚木市飯山の山頂にある竜神池には竜が棲んでいたといわれ、龍蔵神社はこの山の麓にある。かつて北側にあった別当「龍蔵院」は「飯谷藤井坊」と号し(現飯谷神官の家にあたる)、小田原玉瀧坊配下の本山修験であった。所蔵宝物古瓶2個と古鏡は鎌倉期の骨壷で、白山社の山腹より発見されたものである。白山山頂には雨乞いで知られる当院持ちの「白山社」がある。明治初期の神仏分離で別当は神職となり現在に至っている。
  明治43年(1910年)に「?谷神社」・「小金神社」・「白山神社」を合祀した。末社には元竜蔵院持ちの「熊野社」がある。社殿内には井上五川筆の奉納絵馬などがある。境内にある石造物のうち、頭部が失われた石造地蔵菩薩坐像の背面には文明6年(1474年)の銘があり、嘉永5年(1852年)に俳僧つぶねの一周忌に建立された句碑もある。

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龍蔵神社社号柱
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鳥居神社由緒
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狛犬狛犬
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燈籠旧燈籠
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手水舎
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拝殿幣殿
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覆殿神楽殿
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境内
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玉垣

囃子

  



神輿

  13時30分に子供神輿が出発するが、子供の参加者がいないため軽トラックに載せて町内を一周する。



例大祭

  江戸時代の例祭は旧暦の6月28日で、現在は8月第1日曜日である。   かつては山岸の「神明神社」、橋場の「熊野神社」、尼寺の「日枝神社」の三つの神社が個々に実施した秋の収穫祭で、収穫のものを供えていた。現在では自治会が中心になって実施しているので、自治会と子供会の行事的なものになっている。
  三つの神社ではそれぞれの場所で随時(2〜3年おき程度)実施していたが、平成に入り三社集めて毎年実施しようということになり、龍蔵神社の場を借りて行うようになった。その2〜3年後にはもう一社の田名の「三長(みたけ)社」も加わり4社の祭りとしたが、4では縁起が悪いので神事よりも自治会の祭りに近い形にすることにした。
  準備は龍蔵神社の鳥居に国旗を付け、境内の舞台の飾り付けや子供神輿の準備を行う。また、それぞれの神社では宮世話人が赴き、清掃、注連縄を張る。
  大祭当時の12時30分には本殿に関係者が集合し、神主の指示に基づき三つの神社の方向に一礼し神事を開始する。13時に神事は終了し、供えた餅(切り餅)をお礼と共に氏子(自治会員)に配る。かつては、供えた餅を切り分けて御供(ゴック)として配った。
  夜は劇団の演劇やカラオケ大会を行うが、かつては村芝居をやっていた。夜店は出ない。



飯山の歴史

  旧飯山村は厚木市の中央部から北西部に位置し、広い村域を持つ。東半分は荻野台地と尼寺原台地にあり、それぞれの台地には数面の段丘面が認められるが、概して平坦な土地が占めている。西半分の大部分は白山丘陵が占め、この丘陵東側には飯山台地に続く台地があり、白山丘陵と中津山地南端部に囲まれ、飯山盆地と呼ばれている。小鮎川が北部から中央を流れ、恩曽川が南境を流れており、この河川沿いは沖積地である。大山道が村域東側を南北に貫いている。周辺は、東側は及川村・林村、南側は温水村・上古沢村・下古沢村、西側は煤ヶ谷村、北側は上荻野村・中荻野村・下荻野村に接している。
  村域西側は山林が9割以上を占めており、田畑は少ない。水田は小鮎川とその支流の小河川に沿っていわゆる谷田(ヤトダ)が開かれてきた。東側は小鮎川・恩曽川の沖積地に広く水田が開かれており、また、台地上も広く畑地となってきた。旧集落は小鮎川・恩曽川沿いの台地縁辺に点在していた。
  当村には坂東順詣第六番札所の飯山観音、金剛寺などの古刹があり、中世には鋳物師が存在していたことなどから中世資料は多い。嘉禄3年(1227年)の「法然上人行状絵図」の「相模国飯山」が初見で、天文20年(1551年)の「道者売券写」には「い山のかう」とあり、永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「中郡飯山」と記載されている。また、天正17年(1589年)の「北条家朱印状写」には「井山」と記されている。『風土記稿』では飯山を「いひやま」と訓じているが、これらの文書のように「いやま」と訓ずるものは中世から存在する。また、『風土記稿』は村名に付いて「此地に飯山と唱ふる山あるにより村名とすと云、飯山郷と唱ふ、按ずるに、【和名妙】当郡の郷名に印山あり、其唱を註せざれど、例によるに、伊比也末と唱呼せし事必せり、印飯音訓似たるを以て訛唱し、今の文字に改めしならん、されど猶古く伊也末と唱へし事証あり」と記している。
  近世の国絵図は、正保図は「飯山村」、元禄図では「上飯山村」・「下飯山村」の2村を載せ、天保図ではまた「飯山村」1村となっている。『風土記稿』では小名として「千頭」・「台」・「尼寺」・「川久保」・「久保」・「旗谷」・「辻」・「打越」・「山岸」・「下原」・「菩提」・「砂場」・「矢崎」・「白山」を載せ、享和2年(1802年)の村の鎮守龍蔵権現社鳥居講連名帳には「千頭」・「上千頭」・「台・たい」・「菩提」・「下原」・「山岸」・「久保」・「人寺」・「川窪」・「はたや」・「打越」・「砂場」・「天寺原」・「くり原」・「堀切」・「畑中」・「橋場」が記載されている。民俗調査では「尾台」・「岩坂」・「志田原」・「田野」・「橋場」・「山岸」・「矢崎」・「畑中」・「栗原」・「金谷」・「久保」・「千頭」・「辻」・「台」・「旗谷」・「白山」・「小金原」の集落名が確認されており、このうち尾台・岩坂・志田原を「カミイイヤマ」と総称している。なお、慶安2年(1649年)の「光福寺由緒書上」に「毛利之庄内飯山之郷谷ツ村」の記載があるが、この「谷ツ村」に関する伝承などの資料は現在のところ存在しない。
  近世の支配は、中期までは幕府・旗本領の4給で、後期の頃は藩領・旗本領の7給であった。『風土記稿』によると幕末の戸数は261戸、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は328戸であった。明治22年(1889年)に上古沢村・下古沢村と合併して小鮎村大字飯山となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字飯山となる。緑ヶ丘住宅団地と宮の里の住宅地の建設により、当村分の一部でも住居表示が実際された。かつて村域東南部の尼寺原台地は入会秣場であったが、尼寺原工業団地の造成以後に多くの工場や事業所が進出し、ゴルフ場や住宅団地の建設によりかつての景観はすっかりなくなった。また、当村の村名の由来ともいわれる村域中程にあった飯盛山(メシモリヤマ)は採石のために削り取られ、現在では形もなくなってしまった。


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