生沢いくさわ

鷹取神社

  生沢地区は「谷戸」・「東」・「西」・「月京(現在は分離)」の4部落から構成され、生沢地区全体の鎮守として鷹取山(標高219m)の山頂に「鷹取(たかとり)神社」が鎮座している。創建は天長3年(826年)3月と伝えられ、古くは「淘凌森見下(ゆるぎのもりみおろし)神社」と称した。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「浅間社」が鎮守とあり、昭和38,39(1963,64年)の『神奈川縣皇國地誌殘稿』では「鷹取神社」となっている。また、別当寺は「観音寺」であった。
  創建当時の名称は「直下社(なほもとやしろ)」といわれた。鎌倉時代の文献『吾妻鏡』によると「建久二年四月二十七日相模国生澤直下社主清包地頭土屋三郎云々」と見える。これによると当神社は鎌倉時代には専任の神主が在住し、執事していた事が知られ大変賑わいを見せた神社であったと思われる。小田原北条氏も信仰が篤く多くの社領の寄進があり、一説には三百貫と言われる。
  鷹取山の名については古くは栗原山等の名があったが、現在の名は徳川家康が平塚の中原で鷹狩りを行った時、その愛鷹がこの山まで逃げてきて捕らえた事から名付けられた。江戸時代の初め寛文元年(1661年)3月の当神社棟札には、鷹取直下社造営と見える。天正19年(1591年)に徳川家康公より社領二石の御朱印があり、祭神が富士浅間社と同じである事から、江戸中期から明治の初め頃までは「鷹取浅間社」と言われるようになったが、明治6年に「鷹取神社」と現在の名称となり同年の7月30日に指定村社に列せられた。
  祭神の「木花咲夜姫命(このはなのさくやひめのみこと)」は、「大山祇神(おおやまづみのかみ)」と言う尊い神の御子神で、木の花(桜の事)の咲くような美しい姫神である。湧水を司さどられ豊作物の豊作の守護神で、また、女性の方は熱心に参拝祈願をすると少しづつより美人となって行くという御神徳の高い神である。ちなみに、かつては国府新宿の六所明神社は生沢の鎮守でもあった。

2008.1.52008.1.5
鳥居
2008.1.52008.1.5
鷹取神社
2008.1.52008.1.5
神社由緒狛犬
2008.1.52008.1.5
拝殿本殿
2008.1.52008.1.5
境内

  鷹取神社には最初鳥居がなかったが、たまたま二宮の川匂神社で鳥居を伊豆から買い、海路船で運び二宮の浜へ下ろし持って行く予定であったが、神輿が大きく鳥居の巾はよいがタッペ(高さ)が閊えてくぐる事ができないので、鷹取神社で譲ってもらった。この鳥居を新宿の浜へ下ろし、ばらしてある鳥居を神社まで道を通らず、神社に向かって真直ぐに上げて組み立てたという。この時息杖が重みで地へ入ってしまうため、古いわらじを息杖の先に付けて担ぎ上げた。鳥居は御影石で慶応元年丑年(1865年)十一月大吉日と刻まれていたが、震災で倒壊したので昭和3年(1928年)2月に修理復旧された。
  鷹取さんには昔から釣鐘があったが、井戸沢へ落としてしまったといわれている。井戸沢は小字宮東にあり上から50m位で、井戸のように谷が深くなっているのでこのように呼んでいる。また、鷹取山の裏に高さ4・5mの滝(大滝と呼ばれた)があり、一年中水が落ちていた。この水はお宮を掃除するときや、薪山・ぼさ刈りの時にのどがかわいたりすると利用した。
  かつては3月8日は鷹取神社の祈念祭が行われ、その年の五穀豊饒を祈る祭りで戦後に始めた。神主を呼び御神酒・こわ飯をあげ、区長・福区長・町内会長・伍長の役員が部落代表として参加した。また、12月8日は「感謝祭(修めの鷹取さん)」が行われ、これも戦後に始められた。神主を呼び、御神酒・米・こわ飯・みかんなどをあげ、伍長以上の役員が部落のの代表として参加して行った。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の6月8日であったが、『神奈川縣皇國地誌殘稿』では7月8日となっている。第二次世界大戦後は食糧難のために、国府祭が終わった後では大変だということで4月3日に変更されたが(4月8日にやったこともある)、その後は胡瓜栽培が多忙なので再び7月8日になったという。現在は7月の第1日曜日に行う。
  前日の宵宮では18時から21時にかけて、太鼓の山車が町内を巡幸する。また、19時からは生沢会館にて恒例の「カラオケ演芸大会」が開催される。生沢会館は新しく建て替えられたもので、その前の生沢公民館は実修学校の古材を貰って建てたものであった。
   例祭当日の式典は8時から鷹取神社で行われるが、場所が山頂で遠いためその他の行事は分社である「御嶽神社」で行われる。9時からは御嶽神社の境内で六所神社の神主により式典が執り行われ、9時20分頃に宮立ちが始まる。御嶽神社を出発した神輿と太鼓の山車は町内を巡幸する。町内には休憩所が設けられ、夏祭りということでアイスやスイカなどが配られる。また、昼食は境内に戻らず、県公社住宅前にテントを張って食べる。
  午後も引き続き町内を巡幸した後、神輿は17時頃に宮入りし、17時10分頃には大祭が終了する。その後は、17時30分頃から生沢会館において直会が行われる。

2008.7.62008.7.6
神事が始まるお祓い
2008.7.62008.7.6
神事を見守る氏子宮立ち前の乾杯
2008.7.62008.7.6
休憩所でアイスが配られるカラオケ演芸大会の告知
2008.7.62008.7.6
県公社住宅前で昼食受付トラック
2008.7.62008.7.6
生沢会館前で休憩レモンハウス前で休憩
2008.7.62008.7.6
夏はスイカにビール!直会前の挨拶
2008.7.62008.7.6
乾杯お客さんを丁寧に見送る

  かつては7月7日のヨミヤにムラ人全員が出て、神社の掃除をしたり参道の草刈りなどをした。不幸があって忌みがかかっている家は参加しないという。生沢地区は谷戸・東・西(月京は独立)の3つに別れていて、3年に一回当番が来る。当番の地区の氏子は神社へコワメシ(赤飯)・御神酒・かわらけ・三方・ござなどを運んで祭りの準備をしてから、当番に当たった字全戸が神主・カギトリサン(鍵取りさん)・宮世話人(正・副区長・町内会長・会計・伍長)とともに式に参加する。カギトリサンは世襲制で東の加藤家が務めている。神主が祝詞をあげ式を始め、最後にカギトリサンが扉に鍵をかけて終わる。
  余興は1月の戸主会の席上でやるかやらないかが決められたといい、この戸主会は1月8日の午後に生沢の全戸主が出席して集会所で行われたが、やがて1月15日に変更となり、第二次世界大戦後はこの日が二宮町に鎮座している吾妻神社の祭日と重なるので、第2日曜日に変ったという。昔は鷹取神社の境内で神楽を行っていたらしいが、芝居は出来ないので田んぼを借りて興行した。その後は御嶽神社の境内(ここを一部畑にして小作地としていた)で行うようになった。



御嶽神社

  谷戸の下組と東の氏神である御嶽神社は「御嶽さん」とよばれ、『皇国地誌残稿』によれば無格社で「日本武尊(やまとたけるのみこと)」を祀る。創立年度は不詳であるが、元は個人祭祀だったものを、氏子が成立して西谷戸地区の守り神となった。
  明治の中頃に境内の周囲にあった欅や杉の立木を伐採して売った代金をもとに「御嶽神社資本金定則」を制定して、その資金を氏子に貸出し、その利子を祭典や屋根普請などの費用に充てた。また、かつては境内地の一部を落札で氏子に貸したこともあるという。現存する地所書入金子借用証は明治15年(1882年)のものがあり、この頃から始められたものと思われる。また、御嶽さんの釣鐘・大鉦弐式を明治18年(1885年)に売ったことが委任状に書かれている。『風土記稿』には「正徳元年鋳造の僮鐘があり村持ち」とあり、この釣鐘であったと思われる。
  『皇国地誌残稿』によると例祭日は10月10日であったが、3月21日の彼岸の中日に変わって現在に至っている。当時の祭りは役員が集まって利子の取り立てについて相談したり、その利子で御神酒を飲む程度であったという。現在は神主が来て祝詞をあげる程度である。

2007.12.302007.12.30
御嶽神社
2008.7.62008.7.6
狛犬狛犬
2007.12.302007.12.30
拝殿覆殿
2007.12.302007.12.30
 
2007.12.302009.3.7
境内生沢会館


生沢青年会

  「生沢青年会」は明治時代に結成され、昭和に入って「青年団」と改称して活動を続けてきたが、現在は消滅している。青年会員になるには、高小を卒業する年の正月2日に「ハツ(初)集会」が開かれるので酒一升を持って仲間入りし、25歳まで務めた。役員は支部長・副支部長(会計兼任)各1名、幹事3名、班長4名を投票で決め、会費は徴収せずに部落からの助成金や事業を行い活動資金にした。
  かつては35歳までの男子を「セイネン」と呼び、鷹取神社の祭礼の余興はセイネンが企画するものであった。余興は部落から費用をもらい神楽や芝居などをやり、芝居師との交渉・接待から舞台作り一切を行った。小田原市千代に芝居をやる人がいたので、事前に費用などの交渉をする。最初は舞台はなかったので7月6日に青年が総出し、立ち臼を借り材木を集めて小屋を建てたという。昭和3年(1928年)に地元の山主からノロ(杉の細い丸太)を寄付してもらい組立式の舞台を造り、普段は御嶽神社で保管しておき祭礼の時に使用するようになった。大祭当日は昼から来て芝居をやり、終わると集会所へ泊まり翌日の朝食後に帰る。炊事などは女子青年が担当した。この舞台は祭りの翌日に解体してから、ハチアライとかハチハライ(鉢払い)といって酒を飲んだ。
  芝居は常設委員の許可がないとできないもので、セイネンが企画した芝居が戸主会で決まっていても常設が許可しないこともあった。今年は部落費がないとか、日照り続きで田植えが終わっていないとか、不作だった、部落に火事などの不幸があるなど許可できない事情のときは、今年は遠慮せよといい費用が出ない。そのようなときには芝居の興行を巡ってセイネンと常設をはじめとするムラの指導者との間に対立が生じたが、血気盛んなセイネンは部落からお金が出なくても役員や会員から費用を特別徴収し、費用が不足した時には芝居や太鼓連のハナ代(祝儀)を当てて芝居を強行した。普通は他部落から大勢見に来るので、部落の人が見られないことのないように席割をし、各家の席を青竹でマスを作った。反対した常設委員の分は作らないが、芝居をやってしまえば常設もしょうがないので費用を出すので、そのときは常設の席も作ったという。その頃は、祭礼の度に近在の親戚知人を招待し、余興見物に誘うことがどこのムラでも普通のこととして行われていた。



月京について

  「月京(がつきょう)」はかつて生沢の小字であり、『風土記稿』には淘綾森が字月京にあり、山西村の二宮神社神事の時に休息所(国府祭のときの川勾神社神輿の休み場所か?)であったという。月京が生沢から分かれて月京区として独立したのは昭和35年(1960年)4月で、昭和56年(1981年)に住居表示に伴って大磯町の大字となった。生沢では月京が分離することには反対だったというが、分離する原因としては生沢とは違った空気があったこと、鷹取神社の祭祀に関して祭典費は出していたが、生沢までは遠いので実際には新宿の六所神社へ行っていたことなどが挙げられる。また、元々生沢からの分家からなる集落であったところへ戦後になり移住者が急激に増えて、本村との関係が急激に薄れたことも大きな原因であったと考えられる。
  月京はかつて相模国の国衙があったという言い伝えがあり、余綾郷という地名は余綾郡の郡衙の所在地を示しているようで、相模国の国府を余綾郡に遷すにあたって同郡の郡衙所在地を選んだと思われる。土地の人々は月京という地名を「ガッキョウ」と呼んでいるが、地元で発見された古い水帳によると「がっこう」と記されてあったといい、「学校」の意味であると思われる。鎌倉時代の相模国においてはときの執権北条氏等が相模守として国司の長を兼ね、且つ守護の地位にもあり、しかも北条氏は鎌倉にあって政治を執っていた。このことから鎌倉以外の地に国衙を置く必要性も失われていたと思われ、建物などの施設も自然廃絶の運命をたどったと推測される。ただ、国営の学校だけは国衙がなくなった後もそうとうな期間存続していたと思われ、その地名として残ったものと推測される。
  月京では新宿と一緒に神輿祭りを7月の第2日曜日に行い、新宿の八坂神社の神輿を町内に担いで回る。

囃子

  生沢の太鼓は一時期中断していたが、地元で太鼓を覚えていた経験者らにより昭和52年(1977年)頃に復活させた。現在演奏されている曲目は「ホンテン」と「ミヤシロテン」の2曲で、「相州国府ばやし保存会」として約60名の子供達へこの伝統芸能の継承に力を入れている。
  太鼓用のトラック屋台は2台あり、1台はミヤシロテンを叩く屋台で、ミヤシロテンは覚えやすいために叩き手は主に初心者を中心としている。もう1台の屋台はホンテンを叩き、主に上級者の叩き手だけが乗ることができる。ミヤシロテンを叩けるようになった子供達は、来年こそホンテンの屋台で叩けるようにと、屋台の後ろについて周り叩き方を覚える努力をしている。
  生沢では子供達への指導に力を入れており、上級者の叩き手が揃うとバチが良く揃い、テンポや間が適度に保たれている。子供が主に叩く地区ではテンポが極端に早くなったり、正しい間が分らずに詰まったり、また伸びたりする例も多いが、生沢では昔ながらの曲を出来るだけ正確に伝えるように気を使っている。また、指導にはあえて楽譜を使わず、聞いて覚えることを徹底しているのも、昔ながらの伝統を良く保っている点である。
  ホンテンの屋台は先頭に立って神輿を先導し、ミヤシロテンの屋台は後方から神輿を囃す。また、宮立ちと宮入りの時は「東の池」付近に屋台を停め、待機している。

2008.7.62008.7.6
ホンテンの屋台ホンテンを演奏
2008.7.62008.7.6
ミヤシロテンの屋台ミヤシロテンを演奏
2008.7.62008.7.6
宮立・宮入時は東の池で待機ホンテンの屋台が神輿を先導
2008.7.62008.7.6
ミヤシロテンの屋台は後方で囃す子供達に太鼓を指導
囃子

  かつて生沢では祭りの1ヶ月前から毎晩集会所で練習をやり当日に備え、青年の中で太鼓を叩ける人が組織した「太鼓連」が芝居の幕合に叩いた。この他にも休みの日に若い人達が集会所に寄り集まり、夢中になって太鼓を叩いていたという。祭りの日でもないのにいつも太鼓が聞こえるので、他の地区から「生沢のバカッパヤシ」と悪口を言われたこともあるという。ところがその太鼓がとても上手だったため、毎年7月18日に行われていた大磯の夏祭りにはいつも頼まれて叩きに行ったという。大磯の夏祭りの時期は栗のおろ抜きなどで忙しく、祭りに参加することを家で許可されなかったという。そこで着物を用意して畑へ行き、時間が来ると野良着や鍬を置いて祭りへ向かい、一日中太鼓を叩き通したという。



神輿

  生沢には大(おお)神輿と中(なか)神輿、そして子供神輿の計3基あり、大神輿(昭和58年)と子供神輿は氏子の竹内氏が自ら製作し寄付した。中神輿は中古のものを譲り受けたという説もあるが、製作年代等は不詳である。
  宮立ちは子供神輿、中神輿、大神輿の順で境内を出発し、一日かけて町内を渡御する。また、神輿は昔の青年会に相当する「生沢親睦会」が中心になって、大祭中の渡御を仕切っている。

2008.7.62008.7.6
大神輿中神輿
2008.7.62008.7.6
子供神輿境内に揃う3基の神輿
2008.7.62008.7.6
神輿のお祓い宮立ち前の一本締め
2008.7.62008.7.6
子供神輿の宮立ち中神輿の宮立ち
2008.7.62008.7.6
大人神輿の宮立ち参道を練る神輿

  中神輿と子供神輿は担ぎ手の体力に合わせ途中で台車を使用するが、大神輿は全てのコースを担いで渡御する。近年ではトラックに載せての神輿渡御も増えてきているが、終始汗をかきながら神輿を担ぐ氏子の姿が印象的である。
  また、中神輿は主に女性で担ぎ、年代を問わず若い世代から年配の担ぎ手までが入り混じり、威勢の良い掛け声が町内を響き渡る。

2008.7.62008.7.6
女性で担ぐ中神輿途中で台車に載せる中神輿
2008.7.62008.7.6
町内を練る各神輿民家で練る大神輿
2008.7.62008.7.6
昼休憩時の3基の神輿私も担ぐ(重いです ^^;)
2008.7.62008.7.6
タンスを打ち鳴らす休憩後は一本締めで再出発
2008.7.62008.7.6
台車に載せる子供神輿ロープで神輿を誘導

  町内の渡御を終えた3基の神輿は17時頃に宮入りし、子供神輿、中神輿、大神輿の順で境内に入る。その後は子供神輿以外の2基の神輿が、約10分程度のあいだ甚句に合わせて境内を練る。
  最後に三本締めで宮入りが終了する。

2008.7.62008.7.6
神社に向かう各神輿子供神輿の宮入り
2008.7.62008.7.6
中神輿の宮入り大人神輿の宮入り
2008.7.62008.7.6
甚句に合わせて練る神輿神輿を誘導
2008.7.62008.7.6
社殿に迫る神輿神輿を押し返す
2008.7.62008.7.6
無事に渡御が終了三本締めで宮入りが終了
掛け声


生沢地区のその他の神社

  生沢地区では鎮守である鷹取神社の他に、谷戸の上組と中組では「権現社」を、谷戸の下組と東で「御嶽神社」、西と月京で「天王社」を祀っている。また、生沢の東と西に池があり、「弁天社」を祀る。元々は農業用の溜池らしく東の池は今も昔の面影を残しているが、西の池は町立生沢プールになった。これらの池の管理はそれぞれ水利組合で行っていた。この池にちなみ、西では弁天さんと東昌寺のそばにある八幡さんを祀り、東でも弁天さんを祀る。

●権現社
  「権現社」はもともと谷戸の名主であった二宮康氏宅の守護神で、「権現さんと」いう小祠が上組と中組の氏神になったといわれ、権現さんは火の神といわれ日傘を被っているので谷戸では火事になっても大火事にならなかったという。『風土記稿』には「蔵王権現社」、『皇国地誌残稿』には「御嶽社」とあり、祭神を「日本武尊」とする無格社であった。戦後になって神社庁へ登録するに当り神主の指導によって「御嶽神社」としたが、実際には今も権現さんと呼んでいる。登録してからは神主の意見で8月13日が祭日だというので、当初はその日にやっていたが、二宮氏が見た昔の記録に9月13日と1月13日が祭日と書いたものがあったので、元通りに戻したという。二宮家には他に守り神として「天神さん」・「神明さん」・「八幡さん」があったが、それらを明治の初めに権現さんに合祀した。天神さんがあった場所は二宮氏も聞いているが、神明・八幡はどこにあったか分からないそうである。

2009.3.72009.3.7
権現社鳥居
2009.3.72009.3.7
社殿
2009.3.72009.3.7
境内

  例祭日は9月13日だったが、現在は1月13日である。朝食前に境内を掃除して幟を立て、御神酒をあげて75膳を供え、その後に神主が祝詞をあげる。神社庁に登録してからは祭礼に神主を呼んでいるが、それ以前は呼んでいなかった。氏子全員は祭りに備え毎月掛金を出し積み立てをしておき、当日宿を順番にし(毎年2軒が宿になる)、その費用でご馳走を作りもてなす。火のかかっている家以外の男衆は家へ集まり、女衆はこわ飯をお重へ入れてお参りに行き、アオキの葉へ箸でそのこわ飯をとってあげ、帰りに宿の家へ行ってご馳走になる。セエトウバライの準備をしている子供達にはお賽銭で菓子を買い、こわ飯のむすびといっしにやる。祭礼は明治時代には露店が多く出て、賑やかであったという。神楽も奉納されたが、ちょうど虫窪の天神さんの芝居と重なり、当時人気のあった芝居へ出かけてしまうので誰も権現さんの神楽を見なかったという。近年の祭礼は朝に氏子が集まって境内の掃除をし、御神酒を飲むだけであった。
  神社の鍵や幟は近くの二宮治行氏宅に保管され、鍵には「享保二壬酉歳(1717年)九月八日」と刻まれている。幟(幅約0.34メートル、長さ4.1メートル)は「奉納蔵王権現御寶前 安永二癸己天(1773年)九月吉日 当村氏子」と染め抜かれているが、現在はこの幟を立てずに国旗を掲揚しているという。権現さんには神体として鏡と、一尺足らずの蔵王権現の木像があるそうである。

●天王社
  「天王社」は東昌寺の境内に小祠となって祀られており、『風土記稿』によると例祭日は旧暦の6月7日であった。その後の例祭日は7月7日であった。かつて、天王社には大人の神輿があって西と月京とで担いでいたが、西が17・18軒、月京が7軒位では担ぎきれなかったので、御霊だけを残して70円で売ってしまった。その代金を部落の2・3人が借りて、その利子を祭礼の費用に充てたという。祭礼は昭和13年(1938年)頃までその利子だけで間に合ったが、その後は不足したので費用を出し合ってしばらく祭礼を続け、戦後も2・3回やったが現在はやっていない。神輿を担いで売却に出かけたムラ人は、その年に流行った疫病にかかって死んでしまった。これは神輿を売った祟りであるといわれ、昭和初期に青年達がこの神輿を買い戻すために捜したが見つからなかったという。
  東昌寺裏のいちょうの木の根元に小さい祠に厨子があり、その中には御霊(木造朱塗りで30cm)が納められている。この小祠は昭和28年(1953年)につくられたが、それ以前は大きな祠であったという。祭礼当日は僧侶が厨子の扉を開いてから、役員が御神酒・農作物・強飯を備えて酒を飲んだという。

●厳島神社
  生沢の東の池に弁天さんと呼ばれる「厳島(いつくしま)神社」が祀られていて、祭神は「多岐都比売命(たぎつひめのみこと)」である。御霊はとぐろを巻いた蛇の木像であったが、盗まれて現存しない。祭日は4月の初巳の日であったが、第二次世界大戦後に8月13日となり、神主が来て祝詞があげられる。伝説によれば、大化改新(645年)に米作りのため水を授かる神として祀られたと伝えられる。明治6年(1873年)に無格社となる。

2007.12.302007.12.30
厳島神社(東の池)鳥居・神殿
2007.12.302007.12.30
神社由緒東の池

  また、生沢ではもう一箇所で厳島神社を祀っている。この小祠は元禄7年(1694年)に米作りの用水地を築造した際に、厳島神社(弁天さま)を水田の神様として祀った。明治6年(1873年)に無格社に指定された。祭日は8月13日である。

2009.3.72009.3.7
厳島神社?(西の池)鳥居
2009.3.72009.3.7
社殿西の池跡記念碑

戻る(中郡の祭礼)