北金目きたかなめ

北金目神社

  北金目の鎮守である「北金目神社」は古く「熊野大権現」と称し、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には村の鎮守として「熊野社」(不動院持)とあり、幣殿・拝殿・神楽殿などがあったことが記されている。さらに天正19年(1591年)11月に社領二石の御朱印を賜った。明治3年(1870年)5月に「熊野神社」と改称、明治6年(1893年)には村社に列せられた。明治9年(1896年)に現在の北金目神社となり、大正4年(1915年)に幣帛供進の神社に指定された。祭神は「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」・「速玉之男命(はやたまのおみこと)」・「予母津事解之男命(よもつことさかのおみこと)」である。
  平塚市内では唯一の春日造本殿で、建立年代は17世紀中期から後期頃と推定される。平塚市内の神社では最古と考えられ、平塚市の重要文化財に指定されている。また、拝殿は棟札によると慶応4年(1868年)建立の入母造で、覆殿と幣殿は一体化している。
  境内には浅間大神(せんげんおおかみ)と大書きした碑と、登山220度と刻まれた碑が建っており、2基とも富士信仰に基づくものである。前述の石碑は明治11年(1878年)の造立で、基壇には扶桑協会に関する氏名が刻まれている。後述の石碑には蔓延元年(1860年)から大正7年(1918年)の58年間に、この地の柳川藤左衛門が富士登山を220度行ったと刻まれており、この地区の富士信仰が極めて盛大であったことを知ることができる。

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社号柱鳥居
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鐘楼手水舎
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拝殿幣殿・覆殿(本殿)
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社務所
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神楽殿境内
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石碑由緒


宵宮

  以下は、7月9日に祭礼が行われていた当時の情報である。祭りの前日をヨミヤといい、大久保は幟立て、北久保が神楽殿や拝殿の掃除、中久保が提灯の用意をした。この時に使用するは大久保の栗田与助家の前にあった「オミタラシ」という池から汲んで来た。大久保の路傍に北金目神社と書いた石塔があり、そこにかつてはオミタラシという池があり、この池からは水が沸いていた。オミタラシの掃除や注連を張る家は先祖代々、栗田与助・柳泉マキの両家と決まっていたが、現在ではこの池はなくなっている。
  当番の人達は神社に泊まりこんで(ヤコモリという)幟の上げ下げや祭典割の徴収などを行うが、近年ではヤコモリをすることはなく夜の10時頃になると各家に帰る。



例大祭

  祭礼日は『風土記稿』によると旧暦の6月18で、その後は4月18日であったが、現在は4月の第3土曜日になっている。かつては北金目に神主がいたが、現在は比々神社の宮司が勤める。
  大久保・中久保・北久保の3つの部落が回り晩でヤドをした。当番は部落全体でするのではなく、一部落を上組・下組の2つに分けてその一方が当番になるので、6年に1回まわってくることになる。ヤドは当番の中で一番大きな家がなったというが、近年は順番制である。祭りの当日に宮司はヤドで用意をし、ヤドから北金目神社まで「先払い(2名)」・「宮司」・「長持」・「役員」の順で行列をして行った。宮司は神社で祝詞をあげてから、ヤドに帰って御馳走になったという。
  以前は神楽殿で夕方から余興して神楽師による三番叟があり、その後芝居をしたという。神楽師は厚木市愛甲や高座郡あたりから呼んできたという。また、芝居師は藤沢市の遠藤辺りからも呼んだという。
  祭りが済んだ翌日(19日)はハチハライをし、ハチハライの費用は祭りの時に寄せれた賽銭があてがわれた。当番の組になっている者がこの金を用いて、ハチハライが済んだ後に酒などを飲んだ。

囃子

  昔は北久保・大久保・中久保の各部落から山車が出たが、中久保は大正時代に山車を出すようになり、それ以前は大久保と一緒に山車を出していたようである。山車の高さは3間(約5.4m)ぐらいあり、山車の上に青年たちが乗って太鼓を叩いた。山車は子供達に曳かれて村中を回り、山車が通ると道筋の家ではハナをかけ、このハナは青年達のものになったという。山車が倒れて死者が出ることが度々あったので、現在ではトラックの山車が回るようになっている。



神輿

  



北金目の歴史

  寛永15年(1638年)に幕府領であった北金目村は、旗本青山宗俊の知行地に加えられた。元禄10年(1697年)に幕府領は旗本三枝守清・同渥美友延・同揖斐政興・同鵜殿長明・同細井勝長・同本間季光・同ホ曽谷玄鳳の7給地に分割された。これ以後、曽谷玄鳳の知行地は宝永7年(1710年)に増田慶豊に分割されたが、元文1年(1736年)に上知されて幕府領となり、享和3年(1803年)に再び旗本飯田有定の知行地となった。したがって北金目村は8給の旗本知行地で明治に至る。
  『風土記稿』記載の戸数は63で、小名として「北」・「竹ノ内」・「地徳」・「大久保」が挙げられており、現在は「北久保」・「中久保」・「大久保(南久保?)」の集落がある。『風土記稿』の北は北久保にあたり、竹ノ内と地得は中久保に相当する。



北金目地区で祀る神社

  北金目では全体で祀る北金目神社の他に、部落(ムラ組)単位で祀っている氏神社があった。『風土記稿』には村民持ちの小祠として「五領社」と「三島社」があり、末社として「五穀神」が記されている。

●北久保・・・御嶽神社・三島神社
  御嶽神社の祭りは3月4日で、三島神社の祭りは3月8日であったが、近年では2社の祭りを3月6日に一緒に行うようになった。3月6日には各家から米を持ち寄り、赤い御飯で大きなおにぎりを作って子供達に配った。また、一方では武州(武蔵国か)の御嶽神社と伊豆の三島神社に一年交代で参拝に行ったという。
●中久保・・・御霊神社(五領社)
  五領社は中久保で祀る神社で、現在は御霊神社という。10月18日に中久保の人だけで祭りを行っていた。6名が当番に選ばれ、神主を呼んで祝詞をあげてもらう。祭りに参加する家は古くからある家で、新しく移住してきた家は参加していない。各家から米を集めて、おにぎりや煮〆などを作って子供達に配る。ヤドの家を決めて、そこで掛軸をかけて共同飲食をした。
●大久保・・・八幡神社(若宮八幡宮)
  八幡神社は大久保で祀っていたが、明治時代に北金目神社に合祀されている。祭りの日は3月28日頃で、大久保全体で祭りをした。大久保の各組が順番に当番となり、祭りの準備を行う。組で幟を立てて、一軒がヤドとなる。ヤドには各家から一名ずつ出て、煮〆などを作る。また、各家から米5合くらいを集めて、赤い御飯のおにぎりを作って子供達に配った。



取材

中久保・・・令和6年(2024年)4月19日(金)、20日(土)



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