小金塚こがねづか

小金神社の紹介

  「小金(こかね)神社」は小金塚の鎮守であり、成瀬小学校の東方に古墳時代から小金塚と呼ばれる大古墳があった。勧請年月は不詳であるが、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によるとここに「七社権現社」が祀ってあった。神仏分離の際に「金山彦命(かなやまひこのみこと)」という金を鋳る術の神を祭神とし今日に及んでいる。明治6年7月30日に村社に列せられた。大正10年11月18日には東宮殿下持別大演習統監として御野立所に行啓遊ばされ、神社御参拝後に暫時御座所を拝殿内に定められた。
  小金塚の名は金物を鋳たのに縁がある呼び名といわれ、この古墳の主が鉄などの金属と関係が深かったのかもしれない。小金塚古墳からは以前、刀や鏡が出たと伝えられるが定かではない。

小金神社鳥居
 
手水舎鐘楼
神楽殿 
拝殿本殿・幣殿
 境内

太鼓

  戦後に青年会を中心にして太鼓連がつくられている。



神輿

  かつては神輿の渡御が行われていた。



例大祭

  祭日は天保12年(1841年)の『新編相模風土記稿』によると大祭が旧暦の6月15日で、小祭が旧暦の11月15日になっている。また、明治20年(1887年)の『下糟屋村外六ケ村地誌』では本祭が9月24日になっている。ヨミヤに幟を立て、若い衆は神社に泊まりこんでいた。その後は4月15日。



小金塚古墳

  昭和59年(1984年)には墳丘の調査が行われ、この古墳が直径約45m、高さ約6mの円墳で、幅10mを越す周溝をもつことが明らかになった。周溝からは4世紀ごろの朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)が出土し、南関東でも最も古い部類の埴輪であると評価されている。古墳の周辺では、弥生時代中期から古墳が造られる直前(古墳時代前期)までの集落も発見されている。
  小金塚古墳は、当時の食糧生産の場であった沖積地を見下ろす台地の突起部に造られている。すべてを眼下に納める絶好の地に眠る人物は、中央とのつながりをもった当地域の首長だったのだろう。
  大正10年(1921年)11月18日、昭和天皇(当時摂政官)は相模川の沖積地で実施された陸軍大演習に際し、ここを「御野立所(おのだてしょ)」とした。これも広い地域を一望できるためであろう。小金塚の一隅には「御野立所」の碑が建てられている。


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