万田まんだ

神社の紹介

  小向にある「愛宕(あたご)神社」は万田の鎮守で、古くは「奇ノ宮明神」と称された。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると万田村の鎮守を「愛宕社」とし、脇立二體があってこれを「奇ノ宮明神」と號し、末社は「神明」・「春日」・「稲荷」とある。さらに小名上久保には「王子権現社(例祭6月15日)」があり、末社は「稲荷」であった。小名小向久保の鎮守は「?天社(例祭4月上巳)」で、傍らに池があった。小向久保にはこの他に「蔵王社(例祭6月15日)」も鎮守としており、末社は「稲荷」・「荒神」と記載されている。
  当社の由来には2つの伝説がある。1つは『風土記稿』に記された縁起による。その内容は、「昔、この山にどこからともなく翁と媼が来て2人で久しく住んでいた。ある夜、この山に光明が赫々と輝いていたので村人が驚いて行ってみると、2人の姿はなく、勝軍(しょうぐん)地蔵尊の像一?があった。これによってこの山を愛宕山と呼びこの像を祀って尊信した。木ノ宮明神と言われたのは二人の翁媼こそ奇異不思議だということに依る。」となっている。
  もう1つは氏子達の言い伝えによる。その内容は、「貞観の昔、文徳天皇の第一皇子惟喬(これたか)親王が伊豆国より海を渡り、当大住郡の唐土ヶ原(もろこしがはら)に上陸し万田の山に落ち着いたが、御供の御乳母が旅の疲れでこの山で亡くなったので、親王は心を残しつつ早川方面に去った。その後、貞観15年(873年)に親王が亡くなったことを聞いた里人達は先に御滞在の地に宮を造り、木の宮明神と崇め親王の遺した御持仏勝軍地蔵尊像を安置した。これが今の愛宕神社である。当社は創立されるや郷中の鎮主として規模は拡大されて、参道は長く弁天社(飛地境内社、今の巖島神社)前に及んだ。」となっている。
  特に後者の伝説は、神奈川県の西部から伊豆半島の東部にかけて、相模湾を覆うように分布しているキノミヤ神社とその由来譚に関係するものである。小田原市早川に鎮座している紀伊神社は惟喬親王を祭神とし、生地屋と密接な関係があるが、愛宕神社にはそのことがみられない。

2008.1.32008.1.3
愛宕神社鳥居
2008.1.32008.1.3
狛犬燈籠
2008.1.32008.1.3
拝殿覆殿・幣殿
2008.1.32008.1.3
木の宮明神水鉢
2008.1.32008.1.3
境内


宵宮

  祭りの前日は氏子全員で幟立てをした。神社の掃除は毎月15日に老人が奉仕し、かつては子供会がよく神社の掃除をしてくれた。余興の舞台は青年が中心となって建てたが、現在は余興がなくなっている。また、神輿を境内に出して掃除をした。宮番の人が6〜7人でオコモリといって、祭礼の前日の晩に神社で一晩過ごしたという。



例大祭

  祭礼日は『風土記稿』によると旧暦の6月24日であった。その後は4月17日であったが、現在は4月第1日曜日に行う。
  祭りの当日は自治会長・組長・氏子総代・青年の代表・生産組合長の代表などが出席して、神官が祝詞をあげてから玉串を奉納する。
  祭りの翌日は「ハチハライ」といって、祭りの後片付けが済んでからご馳走を食べた。この時、次の宮番に祭礼関係の道具等を引き渡すという。

太鼓

  昔は青年が太鼓を受け持ち、オオドウ(大太鼓)1台、ショウドウ(小太鼓)2台を交代で叩いた。昔は笛もあったという。



神輿

  昭和59年(1984年)の5・6月に神輿を解体したところ、寒川神社の神輿であることが分かったという。
  神輿は青年が中心となって担ぎ、村中を回った。祝詞をあげてもらい、練り歩く。神輿は小向では出縄誠氏宅辺りを、上万田では公民館前、下万田では薬師堂で休んだ。その時、お神酒が出た。神輿の世話をする者をコシ番といい、前年の宮番であった者がコシ番を受け持った。下万田の薬師堂附近では自動車の往来が激しくなったので、万田貝塚に神輿が休む処を移動させたという。

2008.1.3
神輿殿


青年会・青年団

  尋常高等小学校を卒業すると「セイネン」の仲間に入り、満25歳までであった。「青年団」は運動会をよくやり、旭地区の運動会も秋の9月に毎年あった。
  青年団の他に「青年会」があり、こちらは40歳あるいは42歳までで、万田だけで組織していた。青年会はお祭りの神輿の関係と太鼓を受け持った。神輿を出して、公民館で昼食を取り、午後は下万田の旭小学校の所まで担いで行って帰った。また、青年会では各久保毎に月見をやり、米と里芋を持ち寄って役員の家で宴を開いた。
  小向では青年団を「一種青年(25歳まで)」といい、青年会を「二種青年(40歳まで)」といった。



万田で祀るその他の神社

  万田は「下万田」・「上万田(寺山)」・「小向」に別れており、それぞれを「久保」と呼ぶ。下万田には「熊野神社」があり、昔はこの熊野神社が万田の氏神だったという話もある。上万田には「オオジンサン」と呼ぶ神社が出縄酒造の側にあり、祭礼は10月9日であった。男たちが神社の前にむしろを敷いて、神主を呼び祝詞を上げて煮しめで酒を飲む。当社は上万田で祀るともいうし、出縄一族の神ともいい、またそれに真壁一族も交わって祀るともいい、はっきりしたことは分かっていない。
  小向には小向だけで祀る「蔵王神社」が高い所にあり、祭礼は10月9日であった。昔からの住人22名が神主(高麗神社の渡辺氏)を呼んで、神事を行った。



熊ノ台と縄文海進

  万田地区に「熊ノ台」というところがあり、地名は熊野神社の石祠があったことに由来する。ここには縄文前期の貝塚である「万田貝殻坂貝塚」があり、万田台地北端部の標高15m前後の丘陵の裾部の傾斜地である。貝塚は縄文人の生活の場所を示すもので、当時の人たちは万田台地上に居住していたことを意味する。なぜ縄文人がこうした台地突端部に住んでいたのかを知るためには、当時の地形(考古学地形)を考える必要がある。
  その手掛かりとして千葉県の館山(房総半島)に「沼のサンゴ礁」といわれる化石サンゴ礁があり、現在の海岸線から約1.0kmほど入った標高10〜15mのところにある。サンゴの生息状況から考えて化石サンゴ礁が形成された当時の海抜は、今から10mほど高かったことを意味する。これは今からB.C.5000〜3000年(縄文早期〜前期)頃のことで、この時期の海面の上昇を「縄文海進」と呼んでいる。
  平塚市の縄文海進期の海岸線も大体標高10m前後のところが、その当時の汀線だったと考えられる。その場合、大磯丘陵の周辺部の山下・高根・万田・出縄・根坂間から広川・片岡の各台地を経て、南金目台地と金目川の北側の北金目台地、そして北部の岡崎と城所の台地などの縁辺部の標高10mがその当時の汀線で、これ以下のところは当時海底だったことになる。縄文人は山と海の幸の得やすい場所として丘陵の突端部を選び、この「熊ノ台」はこうして縄文人が選んだ居住地であった。
  その後の海岸線の変化を見ると、弥生期には現在の国道1号線辺り(砂丘列では第7列と第8列の砂丘間)で、中原上宿遺跡はこの頃のものである。鎌倉期になると黒部宮が波の被害を避けるために、現在の春日神社に遷座したとあることから、その南部(第9列と第10列の砂丘間)が汀線の位置であったと考えられる。旧市内を中心とした沖積低地は海岸線の後退に伴って形成され、その上面には砂丘が12列も形成されてきた。そのため、海岸から北進すると高いところが砂丘で、その間の低いところが砂丘間低地にあたる。そうした地形は交互に続くのが観察され、最北の砂丘は豊田地区と横内地区になる。


戻る(平塚市の祭礼)