南原みなみはら

神社の紹介

  「諏訪(すわ)神社」は南原地区の鎮守であり、祭神は「建御名方命(たけみなかたのみこと)」・「天照大神」・「大山咋命」を祀る。創立は享保元年(1716年)1月15日に村民が御神霊を勧請して祀ったという。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると南原村の鎮守(村持ち)として「諏訪社」とあり、末社として「稲荷」・「神明社(例祭9月16日)」・「山王社(例祭6月15日)」があった。明治9年(1876年)に同地の「神明社」と「日枝神社(山王社)」を合祀した。昭和20年(1945年)7月16日に戦災により消失したが、昭和23年(1948年)に再建し、昭和52年(1977年)9月に現在の社殿になった。
  山王社は「サンノウサン」と呼ばれ、かつては南原小学校の北側のサンノウ山といわれた少し高い所の加藤政吉方で小さな祠に祀られていたもので、山を潰すに際して境内に石塔として移したという。神明社は加藤米太郎宅の後ろの林の中にあった祠を移したものである。

諏訪神社社号柱
鳥居手水舎
狛犬
拝殿覆殿・幣殿
神楽殿
南原自治会館神社由緒
境内

  南原は6つの区分からなりそれを「チョウナイ」と呼び、以前は「上(カミ)町」・「横宿」・「鍛治町(カッチョウ)」・「東町」の4つがそれぞれの小集落をなしていたが、人口の増加と共に新たに「土手新町」と「向原」の2区分を設けた。これら6町内が南原町内連合会を結成している。南原は中原の南にある地位的地名であるので、東中原に対して「南中原」といってもよいであろう。

太鼓

  昔は、祭りの1ヶ月位前から集まり始めて、青年達は麻縄をない太鼓を締めたり、材料を持ち寄ってバチを用意した。
  最近はヨミヤから当日にかけてトラック屋台で太鼓を叩き町内を巡行している。



神輿

  戦前は大人と子共神輿が1基づつあったが、戦争中の火災で焼失してしまった。一時期は青年会の人数も減ってしまい祭りへの関心もなくなろうとしていたが、近年になり子共神輿と囃子太鼓の屋台を作って今のお祭りに担ぐようになった。神輿は午前中に上町を、午後に横宿・鍛冶町、夕方に東町を渡御したが、現在では子共神輿が2基あり2台のトラック屋台と共に二手に分かれて巡行する。
  大人神輿があった時代は15〜16歳以上の青年会を中心とする男達が、毎年揃いの半天を作って神輿を担いでいた。宮総代は羽織・袴の正装で神輿と共にムラを練り歩いた。一日中担いで回るためにはムラの若者がすべて出た上に50歳位の者までも助けに来る必要があった。



青年団

  昔は尋常高等小学校を卒業した頃から20歳位までの間に青年団に加入したが、世帯持ちになると忙しくなるので次第に出てこなくなった。道普請や農作業(大根の種子を共同でとるなど)をし、諏訪神社の祭りでは櫓を組み、太鼓を叩いた。昭和10年(1935年)頃には町内だけでの仕事をして、団員は25人位いた。ジツキの人に加入を勧め、お願いして入ってもらったという。青年団にはいつでもは入れたし、会費とか酒を持っての挨拶はなかったという。勤めに出ている人はほとんどなく、親睦の会であった。
  青年団とは別に「消防団」があり、ほとんどの青年は両方に加わった。消防団の場合は30〜40歳までで、役職につくと50歳位まで入っていた。台風などで川の土手が切れそうなときにも出動した。



例大祭

  例祭日は『風土記稿』によると旧暦の7月21日で、『平塚市郷土誌辞典』では7月10日とある。そして昭和33年(1958年)の『大野誌』では9月10日となっているが、近年にはしばしば9月10日前後の日曜日になり、現在は10日に近い土曜日になっている。南原は「上(カミ)町」・「土手新町」・「横宿」・「鍛冶町(カッチョウ)」・「東町」・「向原(ムカイハラ)」の6町内からなっているが、かつては土手新町と向原を除いた4町内であった。人口の増加と共に土井新町は上町から別れ、向原は東町から分かれた。
  神社の運営は6町内から2名ずつの宮世話人を選び(後任は2年で交代)、宮世話人から神社総代と副総代を選出して行っている。宮総代は3年に1度づつ代わり、昔は再選も再々選もあったが現在では再選できない。3つの町内の時代には3人の総代の他の2人の宮総代は、それぞれ会計役と監査役を勤めた。宮世話人は神社や祭りのことなど一切の運営をまかされていて、「神社の清掃を月1回行う」・「寄付金を集める」・「舞台をつくる」・「祭りの飾り付けをする」・「幟を立てる」・「余興の計画を立てる」などの仕事を行っている。
  祭りの前日をヨイマツリ(宵祭り)とかヨミヤといい、幟立てをする。昔は余興として芝居師を茅ヶ崎の円蔵から呼んだり神楽などを見せたというが、近年では境内左手の神楽殿にて素人演芸や民謡、踊りや太鼓などが行われている。しかし、女たちは家の台所仕事や親戚などのお客の接待が忙しくて見に行けなかったという。各家では祭提灯を吊るし、秦野往還沿いでは注連縄飾りをした。祭提灯は各家の道路側の軒下に提灯をかけるためのカギがあり、9月に入るともう提灯をかけておき祭りの当日に火を入れるのである。また、葬儀があって喪に服している者は神主からお祓いをしてもらえば祭礼に参加できることになっているが、たいていは遠慮しているという。
  祭りの当日には前鳥神社から神主が来て祝詞をあげ、この時に町内会長・宮総代・宮世話人が出席して式典を行う。諏訪神社には常住の神主はいないので、元旦祭や11月23日の勤労感謝祭・新嘗祭、12月のオオハライの時と年に5回、四之宮の前鳥神社から神主を呼ぶ。神社へのお供えの赤飯は神様に捧げた後に村人が食べたが、神様は生のものを食べるのでその他のお供え物は尾頭付きの鯛(鯛が手に入らないときはアジ、それも手に入らないときは昆布・するめ等で代用)を海の幸として、果物・大根・白菜・キャベツ等その年の収穫物を山の幸としている。他にも菓子屋で購入した菓子なども備えられるが、これらのお供え物の準備は諏訪会館の留守番の妻と手伝いの女性2・3人の手で行われていた。
  祭りの翌日をハチハライといって幟を倒すなどの後片付けをし、それが済むと「ごくろうさん」といって御馳走を食べて酒を一杯飲んだ。



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