蓑毛みのげ

御嶽神社

  蓑毛の氏神様は2箇所あり、一つは上蓑毛の「御嶽神社」で、もうひとつは小蓑毛の「神明社」である。なお、神明社は上蓑毛の御嶽神社の分社である。御嶽神社の祭神は「日本武尊(やまとたけるのみこと)」と「宇迦之御魂命(うがのみたまのみこと)」、明治44年()9月1日に神明社より合併した「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」と「大日?命(おおひるめのみこと)」である。
  御嶽神社は天正13年(1585年)に創建されたという古老の口伝がある。大日本縁起には「行基僧正、吉野より勧請し、現在地石段の中腹に奉安、熊野神明を相殿に置き蔵王社と尊崇し、波多野庄二十七か村の総鎮守として崇敬せり」と記されている。明治6年(1873年)7月30日に村社に列せられ、大正4年()3月23日には指定村社に列せられた。
  祭礼日には昭和35,6年頃まで厚木方面から神楽師(神楽衆)が来て、神楽が奉納された。氏神の祭には神楽奉納や、若者らによる田舎芝居が行われ、参道には露天が立ち並び、村内には御輿が回っていた。

鳥居
燈籠手水舎
神楽殿狛犬
拝殿本殿・幣殿
境内

太鼓

  山車はトラックに幕を張って花飾りをし、その上に大人が乗る。囃子太鼓は「大太鼓1」・「小太鼓2」、「笛1つ」であったが、笛は30年くらい前からなくなってしまった。これは後継者がいなくなったためである。太鼓連のメンバーは10人くらいで当日は交代で演奏する。また、練習は祭礼に10日ぐらい前から毎晩行う。
  以前は木の輪が4つついた木製の山車で、子供が引っ張っていた。飾りも「花飾り」・「ちょうちん」・「幕」を張っていた。
  



神輿

  村内を順行する御輿は、その制作年代が100年を越えるものといわれ、当時、蓑毛にいた宮大工が製作したものであるといわれている。
  御輿の担ぎ手は、主として蓑毛の若い衆であり、戦前までは大祭の前日から、小蓑毛まできておこもりをしたという。各ニワ内から担ぎ手がそれぞれ4人ずつ計16人が選ばれ白装束で御輿を担ぐという。担ぎ手は各ニワで、いちおうは各家ごとに順番で決められているが、かつぎ忌(ブクのかかっている家)の家や産婦がいる家は参加することを嫌われていた。
  御輿の通行ルートは上、中、下各ニワを回り、蓑毛のほぼ全域を回るが金目川沿いの裏町方面は道の都合等で御輿は入らないことになっている。   御輿は大人用一基と子供用一基があり、朝8時か9時に上の御嶽神社を出て、小蓑毛の神明社を経由して、それから再び上に登って午後4時頃に御嶽神社に来た。神輿の巡行は「神主」・「山車」・「子供神輿」・「大神輿」・「氏子」である。行列が村内を回るとき、見物している人たちが神輿に金を投げ入れる。



蓑毛の歴史

  蓑毛は平安の頃から霊山とされた大山の登山口として道路沿いに発展した集落である。1180〜1266年頃のことを記す『吾妻鏡』にも地名が見え、また、大山の関係で古くから御師(師職)を業とする者が多かったことから、この地には古い記録が残っていいはずだが、過去に5回もあったという山津波のために古文書が残っていないようである。小蓑毛が蓑毛から正式に分村したのは正保から元禄にかけての時期と考えられるが、慶長の頃の寄進状には既に小蓑毛の地名が見えるという。
  『風土記稿』によると蓑毛村の小名は「元宿」・「宿分」・「橋場」・「才戸」・「小林」であり、正保5年(1834年)の戸数は81であった。

●蓑毛の地名伝説
  日本武尊が東征のおり、駿河路から相模国への道は海岸沿いを通らず、山沿いを選んで四十八瀬川沿いに秦野の地に入った。土地の状況を調べるために近辺の山々に登山したが、ある日、尊が登山から帰還する頃に突然、電光電鳴、沛然たる大雨となった。里人たちは尊がさぞかしお困りであろうと本営の将士と共に尊を迎え奉ろうとしたが、有り合わせの蓑と笠を作り、それを持って急行したところ、滝ノ沢の所でばったりと尊に会った。尊はたいへん喜び、雲霧の中に隠見する民家を望見しながら、以後この里をミノゲというべしと宣ったので、これが蓑毛の郷名になったという。


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