東照大権現祭とうしょうだいごんげんさい

神社の紹介

  徳川家康を祀る「東照宮」が中原御殿跡にあったころは、家康の命日にあたる4月17日を「権現祭」といい、その後に東照宮は「東照権現社(権現様)」と呼ばれるようになった。権現様は石原正太郎氏の屋敷の裏辺りにあったが、小学校の奉安殿を作るのに権現様が邪魔だという事で明治40年(1907年)2月3日に日枝神社の境内に移した。

東照大権現社号柱
参道燈籠
社殿三百五拾式年祭記念碑


東照大権現祭

  かつての例祭日は4月17日で、別当寺であった得願寺の僧の法楽があり、中原の人々は草だんごを作ってお祝いをした。明治半ば頃までは石原氏宅前の道で草競馬が行われており、この祭りには近郷近在から多くの人が寄ったという。東照宮が日枝神社に合祀されてからは権現祭もなくなり、草だんごも作らなくなってしまった。
  現在は東照大権現祭として4月17日の前後の日曜日に祭礼を行い、鷹狩行列や神輿・車山車なども参加し、近年において急速に大きくなっている祭礼である。

入口には東照大権現の提灯
参道には東照大権現の幟
町内の掲示板には権現祭と鷹狩り行列のポスター
御祝儀のお返しは酒やお札など

  祭礼当日は日枝神社社殿の右横に合祀されている東照大権現の前に関係者が集まり、8時より式典が執り行われる。式典が終わると「神輿かつぎ渡御」が行われる。

関係者が東照大権現へ向かい式典が始まる
乾杯の準備式典が終わると
氏子総代会会長の挨拶町内会連合会会長の挨拶
神輿保存会会長の挨拶続いて各協力団体を発表
神輿前に向かい襷が渡される
御神酒を配り乾杯

  渡御の途中では中原小学校前にある「相州中原御殿之碑」の前にて、9時30分頃から式典が執り行われる。

相州中原御殿之碑供えられた供物
関係者が集まり式典が始まる
お祓い祝詞奏上
玉串奉奠式典が終わると
供物を下げ箱にしまう

  宮付けが終わると神輿の協力団体は裏山で昼食をとり、最後に各団体毎に一本締めで帰路に着く。境内では後片付けが行われ、関係者は社務所内で直会となる。

神輿の協力団体は裏山で昼食
休憩が終わると一本締めで帰路に着く
境内では後片付け関係者は社務所で直会
神輿を神輿殿まで移動し納める


鷹狩行列

  徳川家康は現在の中原小学校(御殿2丁目)のあたりに「中原御殿」を築き、江戸と駿府を往復する際の宿としたほか、戦国武将の中でもとりわけ鷹狩を愛好した家康はこの周辺でも鷹狩を行っていたと伝えられている。東照権現祭は家康(命日4月17日)をしのぶ祭りで、家康の故事にちなんで「鷹狩行列」も披露される。時代衣装や手づくりの鷹などの道具を持ち、古式にのっとって鷹野に向かう実戦的な隊列を組み、天清駐車場からお宮までの旧伊勢原県道を車山車や神輿と共に巡行する。また、行列には解説車が付き添い、鷹狩行列や鷹狩の説明をする。

鷹狩行列には解説車が付き添う
子供達に行列の説明

  この行事は平成13年度(2001年)に開かれた「ふるさと歴史シンポジウム〜江戸の礎 中原御殿」がきっかけとなり、平成14年(2002年)4月に中原地区町内会(自治会)連合会などにより子供達の「手づくり甲冑行列」が披露された。平成15年(2003年)4月にはこの甲冑行列に加え、現在の鷹狩行列が「中原の歴史再発見事業活動委員会」と中原地区町内会(自治会)連合会などにより披露された。

鷹狩行列の構成(平成21年度)
町内会
(自治会)
解説
御徒・十人組御殿町内会先導役
将軍・若年寄・代官下宿町内会若年寄は鷹狩の総指揮官
側衆・小納戸裏宿町内会指揮官の下で鷹狩万端を仕切る
鷹匠組新川端自治会蒼鷹や獲物追出し犬と鷹の餌持係
手筒・持槍持上宿町内会行列の護衛係
狭箱持・土圭之間坊主中宿町内会将軍の着替えと時報係

  鷹狩に向かう家康一行に扮するのは同地区の歴史再発見事業活動委員会や鷹狩行列実行委員会をはじめとした地元住民で、役割を町内会(自治会)毎に分担して6編成からなる。

御殿町内会は御徒・十人組
下宿町内会は将軍・若年寄・代官
裏宿町内会は側衆・小納戸
新川端自治会は鷹匠組
上宿町内会は手筒持・槍持
中宿町内会は狭箱持・土圭之間坊主

  道中の中栄信用金庫広場では鶴を捕える鷹狩「鶴御成」の様子も再現される。鷹狩行列と名の付くものは他にも見られるが、鷹狩の模擬実演が当行列の特色でもある。

中栄信用金庫広場では鷹狩「鶴御成」が披露
ここでも解説者が詳しく解説
空を飛ぶ鶴鷹匠組が持つ鷹を
鶴を目がけて空に放つ
鷹が鶴の喉を噛む
観客は拍手喝采鶴が落下し
網で捕獲捕獲された鶴

  宮入後は境内に並び、記念撮影が行われる。

境内に整列し記念撮影


権現祭と草だんご

  草だんごは祭礼当日に天清駐車場・中栄信用金庫・神社境内の3箇所で販売され、人気があるために売り切れることもある。

境内では草団子が販売1パック500円
団子を買い求める人々あんこときな粉が同封
製造は(資)ちぐさ本店包装紙には往古の祭りが解説

  以下に草だんごの包装紙に書かれた「権現祭と草だんご」を記載する。

「◎今から三八七年前一六一六年(元和元年)四月十七日、徳川家康公は七十五才の生涯を終えました。
◎家康公没後八十二年、一六九七年(元禄七年)の頃は中原御殿の跡地には松や桧の木を植え周囲の空濠(からぼり)はそのままに残し竹の垣を作り丁重に保存していました。
◎村人達は、四月十七日を例祭と定め、村の里長(さとおさ)が世話役となり祭典を行いました。当日は御殿南側の権現通りで草競馬を、また上宿のかつての的場では競射の奉納をして楽しみました。
◎中原、南原はもちろん、近郷の農家では草だんごを作って行事をしました。

 春の日差しを受けて青々と芽生えたよもぎを摘んで、家々では「草のはなだんご」を作り、あんこやきなこをまぶして春の訪れを味わいました。やがて忙しくなる農事を前に家族揃って祭りを楽しみ心身の充電に役立てたことでしょう。

このような史実をもとに、東照大権現祭は、こどもの甲冑行列と鷹狩り行列をメインに年々盛んになり、昔の人々が楽しんだ祭りの心を草だんごの味で蘇(よみがえ)らせています。」



徳川家康の関東入国

  徳川家康への関東転封(てんぷう)は小田原攻めの最中である天正18年(1590年)4月9日に、豊臣秀吉から内示があったといわれている。そして7月13日に秀吉が小田原に入場する際、正式に関東入国が発令され、家康は8月1日に関東へ入国し江戸城を居城とした。関八州が全部家康の領国となったわけではなく、地附きで秀吉の家臣がまだ散在していた。そこで臨戦体制のもので江戸城修築と江戸の町並み整備、所領への家臣団配置、戦災地復興などに着手した。



中原御殿

  天正18年(1590年)に秀吉は家康に対しそれまで敵国であった関東に移封を強い、家康は関東掌握を急ぎ直ちに鷹狩と称して各地を巡回し、家臣団の配置や在地土豪の懐柔に努めた。家康は関東入国後に江戸城へ常住したわけではなく、天正19年(1591年)の奥州出陣から文禄の肥前名護屋の出陣、伏見・大阪城との従来などで、駿府城に移り大御所政治展開する慶長8年(1603年)まで、江戸に居住したのは僅か5年に満たない。そして没するまでの9年余の間に江戸城を訪れたのは6回を数え、いわば関東一円と東海道筋等の主要往還の鷹狩りが精力的に行われたことを物語っている。
  鷹狩を好んだ徳川家康は関東入国以降、鷹狩りを名目として関東各地の村々の民情視察を行っている。これは臨戦体制化において軍事演習をかねた地形の調査・人心の収攬と、代官や旗本領の地域行政の察知が目的であった。家康は中原の地をたびたび訪れ、その際に家康の宿所として建設されたのが「中原御殿(ごてん)」であった。しかし、家康の鷹狩と中原御殿は単なる遊興ではなく重要な政治的意味を持っており、相模国中郡においてはこの中原御殿を拠点として鷹狩りが行われ、代官陣屋の農村支配と並立した軍事的な「鷹狩支配」ともいわれている。
  鷹狩り旅行の休泊地は、当初は急迫施設が完備していなかったため社寺や土豪の邸宅が利用され、後に主な街道筋を中心に御殿や御茶屋を建てて利用するようになった。中原御殿の造営時期については諸説のあるところだが、山王社伝(現中原・日枝神社)による慶長元年(1596年)造営が、隣接の藤沢御殿の造営時期と同じであり、また豊田の清雲寺から中原へ移った経緯(御茶屋から御殿への移行)からしても妥当と思われる。この慶長元年に小田原北条氏旧臣の豊田村小川庄左衛門(玉井帯刀)によって造営とされたといわれ、それまで家康は鷹狩りには豊田村の茶屋(清雲寺)へ立ち寄っていたが、文禄4年(1595年)の洪水で水没したため代官頭伊奈忠次の見立てで建設されたといわれる。
  立地条件としての中原は東海道の脇往還といわれる古道の相模道(後の中原道)と東海道が交差する地点にあり、後北条氏時代の「中原の砦」があったといわれる要害の地でもあった。従って、軍事的性格の強い鷹場支配の休泊施設は藤沢御殿と連携すべく建てられたと考えられ、付属する農村支配の中原代官の陣屋と相俟って重要な軍事拠点であったと思われる。また、中原の地は水害のない砂丘上にあり、中原街道で江戸から日帰りできる御殿造営に適した土地といえる。その後は江戸幕府の基礎固めに関する重要な密議の場所として使われ、大阪の陣・武家諸法度・大久保忠隣改易などの重要な政策決定がこの中原御殿で行われたといわれる。
  『風土記稿』によると中原御殿は東西七十八間(141m)・南北五十六間(101m)で、その面積は四千三百六十八坪(1.4ha)と書かれ、中の建物としては家康の居間・寝所のほか、御蔵・御賄所・御殿番所・小者詰諸・鷹方屋・御馬小屋などがあった。四方には幅六間(10.9m)の堀がめぐらされ、敷地外には典医屋敷・鷹匠屋敷・中原代官屋敷などもあり、城郭・城下町的な構造を持った御殿だったといえる。家康の中原御殿への宿泊は慶長10年(1605年)以降詳しく記録されており、この時期に家康が大御所として居城の駿府と江戸を頻繁に往来していたことがその背景にある。家康は中原御殿において土豪との会見や民情視察を行うと共に、外様大名や将軍家臣との会談、大名の改易処分や論功行賞などもおこなっていた。このように中原御殿は臨時に政治を行う場として、家康の大御所政治を担う重要な機能を持っていた。
  中原御殿は御殿番士によって管理され、寛永19年(1642年)に修復されているが、徳川第4代将軍家綱の明暦3年(1657年)に撤去された。この年に江戸では明暦の大火が発生し江戸城と城下町が焼失したため、多くの材木が伐採されて江戸に運ばれた。中原御殿も裏門を残して建物は全て引き払われ、第5代将軍綱吉の元禄10年(1697年)には跡地に松・檜などの「御林(おはやし)」が植えられ、新たに「東照宮」が建立された。なお、裏門は善徳寺の山門として移されたといわれる。この中原御殿廃止の背景には参勤交代が制度化し、大名・公家・宮門跡などの宿泊施設としての本陣・脇本陣が整備され、宿泊・休憩施設としての御殿の意味が失われたことが考えられる。



中原御林

  中原御殿の周囲を囲うため慶長6年(1601年)に家康は代官頭伊奈忠次に命じて、松苗を植栽させたのが「中原御林(おはやし)」の始まりといわれている。御林とは幕府の直轄林を指し、他の地頭林・寺社林・百姓林などと大別されていた。中原御林の規模は15箇所、約120町歩余にわたり、この結果一面芝地であった付近一帯は松の生長に伴い、御殿の囲いのみならず防風・防砂・水源涵養などの役目を併せ持つ地域へと徐々に変わって行き、田畑としての耕作地の拡大が図られた。
  明暦3年(1657年)に江戸へ解体移送された御殿の跡地に松苗が植栽され、結局御林は16箇所、126町9反2畝5歩が確定した。この中原御林16箇所は、御殿地・上宿・比丘尼・北中・阿孝・諏訪部(すわべ)・天王・入口・南中・浅間・十八間・浜嶽・新宿・入会・西清水・東清水の各御林で、市域の砂丘列上に植栽された。
  享保10年(1725年)の「御林改め」によると55,195本(雑木549本を含む)が植栽されており、管理取締は代官江川氏の権限により御林守が任命されている。そして生育した御林の木は土木用材・建築用材・船舶用材などに利用され、これらの用材の運搬には須賀湊から船に積み、曳航されて目的地に運ばれた。



御殿地

  平塚市の中央部にある中原小学校の所在地は御殿2丁目8-9であるが、この住居表示前の地名は中原上宿993で、さらに古くからの小字名は「御殿地」といった。御殿地とは徳川家康公の中原御殿があったところから付けられたもので、御殿の建設に伴って町割が施されて「中原宿」が形成され、地域内には御殿を中心とした施設が設けられた。
  北の渋田川に架かる大縄橋近くには「城見塚(シロミヅカ)」があり、中宿の中ほどを西流れる谷川(ヤガワ)の川沿いに弓矢の練習場所である「的場(マトバ)」があった。御殿の正門から東に延びる「御縁場(ゴエンバ)」と呼ばれる大手道にあたるものが、中原宿の中心道路(古くは中原街道、または伊勢原道、現在は中原豊田線)に突き当たり、そのT字路のところにある中原交番付近には「御殿番(ごてんばん)屋敷」と「鷹匠屋敷」があった。宿の南方にはある慈眼寺(じげんじ)の入り口付近に医者の「検校(けんぎょう)屋敷」があり、その南側を西流する下田川に沿って西進したところに「武田下」と呼ばれる篠竹の簇生地(矢竹に利用)があった。その西側には「鍛冶町」があって、刀・槍などの武具を造る鍛冶職人の集まっていたところがあった。
  御殿の敷地内には「御主殿」・「御賄」・「厩」・「とや(鷹の飼育小屋)」・「御殿番」などの建物があり、廻りは土手と空堀が巡らされ、その外側に沿って道路が取り巻いていた。現在、中原宿の北東部にある日枝神社は御殿の鬼門鎮護のために、御殿の西方の「御殿後」の地から遷座したもので、西方にある善徳寺の門(三門)はこの御殿の裏門を移築したものといわれている。明暦3年(1657年)の大火で江戸城が焼失し、御殿がはその復興資材として撤去されたが、その時に裏門だけが善徳寺に移されたようである。

囃子

  権現祭では日枝神社の様に引っ張る山車は出ないが、トラックの荷台に屋台を積んだ車山車が出る。平成21年(2009年)は上宿・中宿・御殿の3台の車山車が参加した。各町内では早朝から山車と太鼓の準備を進め、式典前までには社務所前に集合する。なお、上宿の車山車は平成21年(2009年)に新調したもので、豊田地区などと同様に以前の山車よりも一回り大きい造りになっている。

車山車を準備(上宿)太鼓を設置(上宿)
御殿が境内に到着社務所前に停める
続いて中宿が到着御殿の横に停める
最後に上宿が到着3基のトラック山車が揃う

  式典が終わり神輿が宮立すると、社務所前に停めていた車山車も順番に宮立をする。その後は神輿の後ろに付き、中原地区を巡行していく。

上宿が宮立続いて御殿
最後に中宿神輿の後を追う

  3台の車山車以外には裏宿と下宿の太鼓がそれぞれの地元に設置され、神輿かつぎ渡御の一行を威勢の良い囃子で迎える。

裏宿の太鼓はコーヒーショップ前に設置
車山車を迎え囃し
送る上宿の笛が加わり賑やかに
天清駐車場前のテントには下宿の太鼓が設置
神輿を迎え囃すここでも上宿の笛が参入

  権現祭では日枝神社の奉祝祭ほどではないが、相変わらず太鼓の張りは強い。奉祝祭では使えない消耗した古い革を使うため、革が破けると予備の太鼓の交換で慌しくなる。

上宿の革が緩んだ枠に結んだ
紐を外す太鼓を外し
予備の太鼓を載せる
太鼓を枠に設置破れた革
中宿の革も破れ組み換えに向かう
さらに革を締め打上げ花火は宮入まで続く

  中栄信用金庫を過ぎたあたりから子供たちによるオカメとヒョットコの踊りも加わり、囃子に合わせて踊りながらお宮を目指す。

子供達のオカメ・ヒョットコが行列に加わり
車山車の後ろで踊りながらお宮を目指す

  町内を巡行し終えた車山車は宮入と同様に社務所横から宮入し、社務所前に車山車を揃えて停める。

御殿が宮入続いて中宿
最後に上宿社務所前に停める
囃子
(競り)

  祭りが終わると車山車は各町内へ戻り、太鼓や屋台の後片付けを行う。

御殿が出発続いて中宿
上宿は境内で後片付け屋台をばらす


神輿かつぎ渡御(宮立〜宮着)

  昭和60年(1985年)から権現祭にも日枝神社の神輿を出すようになり、午前中だけの祭礼のために中原中を回れないので、神輿は場所を決めて渡御する。

●宮立(出発8:40)

地元氏子が集まり一本締め
輿棒に肩を入れ担ぎ上げる
石段をゆっくり降りると
神官に先導され境内を進む
車山車では囃子が鳴り響く
鐘の音が宮立を告げる参道を進む神輿
鳥居を潜るといよいよ
宮立中原地区を渡御

●相州中原御殿之碑(到着9:30、出発9:50)

宮立した神輿は中原上宿交差点を左折
箪笥を打ち鳴らし練り歩く
途中で裏宿の太鼓に囃され中原小学校を目指す
相州中原御殿之碑に到着甚句に合わせて
練り輿を降ろす
冷たい飲み物を取り休憩
出発の合図があり一本締め
輿棒に肩を入れ担ぎ上げる
そのまま後退し車山車を先に通す
今度は車山車が先導し神輿が後を追う

●天清駐車場(到着10:20、出発10:40)

どっこい♪どっこい♪お賽銭を出すとお祓い
下宿のテント前を車山車が通過
交差点を左折し道路脇に停める
神輿も姿を現し下宿テント前に到着
甚句に合わせて練る
輿を降ろし一本締め
冷たい飲み物を取り休憩
休憩を終え一本締め天清駐車場を出発
今度は触れ太鼓を先頭に甲冑隊と車山車
鷹狩行列が続く神輿は最後尾につく

●中栄信用金庫(到着11:00、出発11:35)

綱に引かれながら町内を練る
甚句に合わせて練る
輿を降ろして一本締め
休憩後に車山車が出発鷹狩行列が続く
ここから子供達の手づくり甲冑行列が参加
さらに伊勢山御殿
下宿裏宿
新川端上宿
中宿の子供神輿が参加
最後に大人神輿が出発お宮を目指す

●宮入(到着12:15)

車山車が先に到着続いてオカメとヒョットコ
鷹狩行列手づくり甲冑行列
子供神輿も次々と宮入参道両脇に輿を降ろす
最後に大人神輿が到着
鳥居前で充分練りいよいよ
宮入鳥居を潜る
鐘が宮入を告げ神輿は参道を進む
車山車の前を通過し境内で練る
甚句が入り激しく練る
石段を上り社殿前につけると
神輿を差し上げ回転させる
半回転させて再び肩で担ぐ
そのまま輿を降ろし三本締めで
無事に宮付安置された神輿
掛け声

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