温水ぬるみず

春日神社

  温水部落の字「宮原」に鎮座する「春日神社」は、源平の戦に於いて破れた平家の一門の氏神として応永22年(1415年)8月28日にこの地奥田家の祖先が勧請したと伝えられ、現在では温水部落全体の氏神社として祀られている。主祭神は「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」で、両側にある相殿の「八幡宮」と「天神宮」には「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」と「木花咲那姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祀る。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では村持ちの「春日社」を本村・高坪・赤羽根の鎮守とし、末社に「八幡社」・「天神社」があった。社の守衛の為に社地内に修験者が「清宝院」を営み、これに木造不動明王の像を安置して守護のために住したが、明治維新後に廃寺となっている。『風土記稿』の温水村の条には春日社外の末社として「吾妻権現社」・「山王社」・「稲荷社」・「神明社」、浅間山の鎮守である村持ちの「浅間山王合社」が記載されている。
  境内には昭和48年(1973年)7月に厚木市の重要文化財に指定された安山岩製の石灯籠(高さ1.62m)が1基あり、「応永24年(1417年)9月29日 春日大明神」と刻まれている。社殿は木造平屋建で本殿(間口3間、奥行5間)には内宮があり、これとは別に木造平屋建ての神楽殿(間口4間、奥行3間)の神楽殿がある。当社創建に関しての資料として江戸時代の棟札が1枚保存されており、宝永3年(1706年)9月18日再建につき神主奥田清正と記されている。江戸時代には代々奥田氏が神主を勤めており、現在もこの奥田家の子孫が引き続いて社殿の鍵を預かっている。
  当社の社宝として貞宗作と伝えられる短刀一振(長さ28cm)があり、その表裏に梵字一字宛が彫られている。

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春日神社社号柱
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狛犬狛犬
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鳥居水鉢
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燈籠社殿
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神社由緒石灯籠(市指定重要文化財)
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神楽殿
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境内

  老人しあわせ農場入口には当社に属している「稲荷社」があり、木造亜鉛葺の社殿(間口6尺奥行8尺程)前には鳥居がある。

囃子

  



神輿

  式典の後に子供神輿と大人神輿が各自治会を渡御する。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の7月28日であった。昭和初期までは7?8?月28日であったが、現在は4月第4日曜日に行われる。
  1、2週間前から準備を始め、夜宮の日は朝から役員や協力団体役員が出て会場の準備を行う。昔は幟を1、2日前に立てた。夜宮には太鼓、劇団、カラオケ、温水会の演劇などが行われる。
  大祭当日は神主(愛甲 毛利氏)による式典が執り行われる。昔は愛甲の神楽師が神楽を行った。



温水の歴史

  旧温水村は厚木市域の中央部から南西寄りに位置し、村域は長谷丘陵北側と尼寺原台地中央部南部にある。この丘陵と台地の間には恩曽川が流れ、川に沿って沖積地が広がり、さらに東側の沖積平野に続いている。長谷丘陵は開析の進んだ台地で起伏に富み、当村の立地する北側ではこの丘陵面より低い段丘2面が所々に認められる。北西部には山地系の高松山丘陵末端部がかかっている。村域ほぼ中央を粕?屋道が斜めに横断し、西境には大山道が通っている。周辺は、東側は恩名村・大住郡岡田村、南側は長谷村・船子村、西側は愛名村、北側は戸室村・林村・飯山村に接している
  中世資料では天文5年(1536年)の「北条氏綱判物」の「ぬる水郷」が初見で、永禄2年(1559年)の『所領役帳』では「中郡温水」の他に「中郡赤羽禰」が記載され、この「赤羽禰(根)」は温水村の1集落である。村名の由来に関して『皇国地誌』では「古ハ温水或ハ生湯水等ノ字ヲ用イシガ文禄三年検地ノ時ヨリ温水ノ字ニ定ムト云」と記している。近世の国絵図では、正保・天保図は温水村1村を記しているが、元禄図には温水村のほか高坪村・浅間山村が記され、それぞれ「温水村之枝郷」と傍記されている。郷帳は元禄・天保郷帳とも温水村・高坪村・浅間山村の3村を載せる。
  長谷丘陵側の旧集落は裾部に沿った沖積地の高いところ或は一段小高い台地上にあり、北西から「タカツボ」・「シュク」・「ヤト」・「アカバネ」の4集落がある。シュク・ヤトを合わせて「ホンムラ」ともいう。尼寺原台地側段丘崖下に沿う沖積地の微高地に「センゲンヤマ」の集落がある。『風土記稿』に載る小名も現在の伝承と同じく「本村」・「高坪村」・「浅間山村」・「赤羽村村」であり、『皇国地誌』では集落名に関して「上郷村、村の西北部、高坪、浅間山ノ二部ニ区別ス。下郷村、村の東南部」と「上郷村」・「下郷村」をあげている。村域中央の恩曽川沿いとその先に続く東部の沖積平野が水田で、耕地整理により整然とした耕地となってきた。台地上は畑と山であった。村域北部の台地上は広く尼寺原と呼ばれており、隣接する戸室・恩名村では近世期に新田開発を行ったが、温水村と飯山村は秣場として残った。
  近世の支配は幕府・旗本・藩領の5給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は104戸、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は92戸であった。明治22年(1889年)に戸室村・恩名村・長谷村・船子村・愛名村・愛甲村と合併して南毛利村大字温水となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字温水となる。北側の尼寺原台地中程では昭和37年(1962年)から尼寺原工業団地の造成が始まり、併せて緑ヶ丘団地建設の建設に伴い、本村域の一部で「緑ヶ丘」の住居表示が実施された。長谷丘陵側でも本村域西側の一部を含む一帯で毛利台団地が建設され、昭和52年(1977年)に「毛利台」の住居表示が実施された。東部の水田地帯でも、住宅地建設により「南町」の住居表示が実施されている。長谷丘陵東部の長谷村分にかかる一帯には戦前に陸軍が高射砲部隊を設営し、戦後は東京農業大学の農場となった。また、東部の水田も開発され、小田急東名団地などが建設されて宅地化が進み、かつての耕地はなくなりつつある。


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