荻野おぎの

荻野神社

  上荻野の南端字「宮ノ腰」の地に、祭神「大已貴命」と配神「素箋鳴命」を祀る荻野地区総鎮守である「荻野神社」がある。創立時期については不詳だが寛文11年(1671年)9月29日の勧化札によると石鳥居を建立しており、貞享4年(1687年)に飯山村の大工棟梁西谷半右衛門が本社を再興して社名を「石神大明神」と称し、その後の明治3年(1870年)10月に現社名の「荻野神社」と改称した。神祇伯白河殿より正1位免許の上、社前に額を賜っている。御神木の銀杏は樹齢600年とも推定され、本殿と共に厚木市の文化財に指定されている。また、平成8年(1996年)には石神様の60年式年祭が挙行された。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』よると「石神社」を荻野三村の鎮守とし、自然石(高さ4尺5寸6分、幅3尺5寸程)を神体とし、牛頭天王を合祀したとある。鐘楼の鐘には寛永4年(1627年)の銘が彫られ、本地堂には十一観音を安置、神木は銀杏樹(圍一丈七尺餘)であった。末社に「神明」・「八幡」・「春日」の合祀社、「山王」・「有賀明神」の合祀社があった。上荻野村のこの他の神社・小祠には「松石寺」持ちの「熊野七所社」・「浅間社」、「源養院」持ちの「山王社」、中荻野村「灌頂院」持ちの「山王社」・「天神社」、村持ちの「第六天社」が記載されている。天正19年(1591年)11月に徳川家康より社領3石の御朱印状を賜り、明治6年(1873年)2月に上知されるまで続けられた。同年7月30日には郷社に指定された。別当寺院は中荻野の「灌項院」持ちであった。
  神社明細帳などによると、明治初年までは当社の別当寺院として今は廃寺となった「灌項院」に奉仕してきたが、明治6年(1873年)7月20日に郷社に指定された後は自然神官の司る処となった。明治40年(1907年)に幣帛供進神社に選定され、昭和5年(1930年)7月には幣殿と拝殿の大改修が行われた。昭和25年(1950年)5月4日には境内地が無償譲与された。現在の社殿は、本殿が木造八幡宮型造りの銅板葺(間口2.6m、奥行2m)、拝殿は木造入母屋向拝付唐風造朱漆塗で屋根は銅板葺で、幣殿(間口2間半奥行1間程)により繋がっている。この他に、木造入母屋造亜鉛葺の神楽殿(間口5間半、奥行3間)がある。
  末社は5神体相殿木造切妻亜鉛葺(間口2間、奥行7尺5寸)で、末社が「日吉神社(大日霊貴命)」・「八幡神社(応神天皇)」・「春日神社(天津児屋根命)」・「有賀神社(大綿津児命)」の4神を、摂社は1神で「八坂神社(素箋鳴尊)」を祀る。その他には「天満宮」と「御嶽社」があり、いずれも木造にて角入造(間口1間、奥行7尺5寸位)になって祀られている。当社の資料として棟札が保存されており、寛政8年(1796年)6月のもの(高さ5尺)と文化12年(1815年)8月15日のもの(長さ3尺2寸)がある。この他には勧化札2枚があり、天文11年(1542年)9月29日に旧石鳥居を建立する時と、貞享4年(1687年)12月15日の本社再興勧化の時の合計4枚の木札がある。境内には柳田湘江・蟹殿洞々・大矢寛子らの句・歌碑がある。

荻野神社社号柱 (郷社荻野神社)
燈籠鳥居
掲示板手水舎
ご芳名板
社務所神楽殿
荻野神社の由来燈籠
雨水受け狛犬
拝殿本殿
有賀神社
豊受神社
春日神社
日?神社
八幡神社
合祀社左から
御嶽宮菅原神社
向拝天井東照宮・石碑
石造石碑
幟竿収納
忠魂碑慰霊塔
平和の碑石祠
玉垣
イチョウ (市指定天然記念物)境内


荻野神社発祥の地

  

川沿いにある荻野神社発祥の地
石碑石碑


八坂神社(摂社)

  八坂神社は荻野神社本殿に鎮守荻野神社(旧名石神社)と共に祀られている。鎮守荻野神社の祭典は昔も今も9月15日で、総代のみが参列して式を行っている。

囃子

●上荻野
  上荻野には「宮郷太鼓保存会(宮郷太鼓連)」によって伝承されている囃子があり、言い伝えでは明治26年(1893年)に二十六家講(現在の厚木市上荻野宮郷地区)の青年部が小太鼓2個と大太鼓1個を購入して始めたのが起源だという。流派は厚木地区に多く伝承されている「一六太鼓」で、宮郷に転居してきた三田の住人が広めたという説がある。当時の若連(会の名称)は大若衆(5名)・小若衆(5名)・世話人(5名)で構成され、笛と鉦が入る五人囃子であった。
  明治40年(1907年)になると「宮本青年会」が発足し、若連の世話人(10名)が幹事となった。さらに同年に「宮本青年第一支部二十六家青年会」が発足し、それまでの二十六家講から大太鼓・笛・鉦を譲り受けたが、小太鼓2個は二十六家講が転売したため(転売先は不明)、有馬(現在の海老名市本郷)の廣崎賢太郎商店(現在の廣崎太鼓店)から小太鼓2個を購入した。この小太鼓2個は平成30年(2018年)の現在も使用されている。しかしながら、明治45年(1912年)頃から笛と鉦が自然消滅し、囃子の構成が小太鼓2個と大太鼓1個となった。
  昭和4年(1929年)に宮本青年第一支部二十六家青年会は、「宮郷青年会」と改称し、昭和27年(1952年)に小太鼓がそれまでの縄締めからボルト締めに変わった。しかしながら、それまで賑やかであった荻野神社の祭礼が衰退し、昭和35年(1960年)頃から太鼓の演奏がなくなった。昭和42年(1967年)になると地元の有志2名が馬場から太鼓の指導を受け、本堂の手摺にロープで小太鼓と大太鼓を括り付けて練習を行った。その後は神輿の御仮屋の前に杭を打って、竹を渡して太鼓を括り付けて叩いたこともあった。
  当初は2名だったメンバーも徐々に増え、昭和45年(1970年)に現在の「宮郷太鼓保存会」を発足し、荻野神社の祭礼で太鼓の演奏を復活させた。その後、地元の氏子や事業所から寄付を募り、昭和47年(1972年)に現在の櫓が建造された。昭和50年(1975年)に廣崎太鼓店から小太鼓1個を新調し、現在の小太鼓3個と大太鼓1個の構成になった。昭和58年(1983年)には厚木市郷土芸能保存会の前身である「厚木市太鼓保存連合会」に入会し、廣崎太鼓店から大太鼓を新調した。
  宮郷の囃子は一時期途絶えたこともあり、馬場から伝承した曲以外に、他の地区の囃子も取り入れ、現在も試行錯誤を繰り返している。演奏されている曲は「はやし」・「きざみ」・「ばかばやし」・「おっぺけ」・「みやしょうでん」で、近年に横浜や伊勢原市笠窪から笛を取り入れた。荻野神社の祭礼の他に厚木市文化祭郷土芸能発表会や、地域の福祉施設でも演奏している。
  荻野神社の祭礼前の練習は毎年10回を基本としており、平成30年(2018年)は6月24日(日)から日曜日を中心に行い、7月7日(土)から宵宮前日の7月13日(金)までは毎日行われた(累計11回)。練習は太鼓保存会の会長宅にテントを張って行い、時間は19時から20時30分頃までが子供の時間、21時までが大人の時間となっている。それ以外のイベント等の練習は、宮本老人憩の家で行っている。

太鼓の練習は19時から会長宅でテントを建てて行う。
正面に譜面を用意太鼓の他に竹棒を渡し
太鼓の後ろと外では竹で練習
山車の花飾りの準備20時半から9時は大人の練習
囃子


●中荻野
  「馬場太鼓」は中荻野地区の「厚木市中荻野馬場太鼓保存会」によって伝承されている。居囃子は「大太鼓1」・「締太鼓4」・「中太鼓1」・「当り鉦1」で構成され、「馬場刻みばやし」・「屋台ばやし」・「ばかばやし」・「チョウチョウトンボ」・「荻野馬場ばやし」がある。
  荻野神社(八坂神社)祭礼では境内に櫓を組んで囃され、4月の蚕影神社祭礼では境内が狭いので馬場地区内で行われる。



神輿

  当社には荻野神社神輿と八坂神社神輿の2基の大神輿があり、荻野神社神輿は60年に一度だけ担がれ、過去に4回担がれている。平成8年(1996年)、昭和11年(1936年)、明治9年(1876年)、ここまで丙子。江戸末期は甲子で文化13年(1816年)?

荻野神社神輿棟札

  毎年担がれている八坂神社神輿は前の神輿の痛みが激しいため、昭和26年(1951年)に厚木の宮大工河内福賢が製造したものである。この河内氏は厚木神社の神輿を製造した工匠でもある。平成15年(2003年)に福賢氏の息子により修復が行われた。子供神輿は地元の大工である市川貢の製造である。

八坂神社神輿子供神輿
掛け声
(宮本会)


神輿渡御

  
  以前は下荻野新宿の端より上荻野の端まで担ぎ練り歩いたが、近年は公所より源氏橋付近までの旧道を昔ながらの「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声で担がれる。
  11時に宮立ちをする。昭和40年代までは子供が神輿を担いで荻野全域を回ったが、交通事情により現在は神輿を車に乗せ、上荻野方面と中荻野・下荻野方面の2つの順路を回る。車には宮司の代理で先導をする地区の神社役員、神輿付人、太鼓の叩き手が乗る。
  地区役員は白装束に青い袴を着し、幣束を持つ。神輿の休憩所となるのが御旅所で、前日に注連縄を張り「御旅所」の看板が立てられる。神輿を乗せた車がこの御旅所に着くと太鼓を叩いて知らせる。この太鼓を聞いて近所の人達がお賽銭をあげに集まってくる。神輿が神社に戻ってくると、それぞれの神輿を毎年各地区交代でその場で神輿を担いで回る。



祭礼の歴史

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の8月15日に行われたとあるが、近年は7月15日に改められた。昭和35年頃までは7月15日におこなっており「八坂祭」と呼んでいたが、現在は7月15日頃の日曜日に行う。豊作と無病息災を祈願して行う祭りである。以前は地元在住の神職が祭主を務めていたが、現在は飯山の龍蔵神社の宮司が祭主を務めている。
  以前は神社総代会と青年団・青年会が協力して実施したが、現在は総代会と地域の宮本会(宮の上)・中荻野会(宮の下)が協力して実施する。
  祭典前に御札(荻野神社・八坂神社の2枚)を配り、祭典費(平成13年度は1戸千円以上)を集金する。神社の清掃は老人会の奉仕で行い、この前日までに境内の植木の手入れや草刈りを行っておく。
  前日は宵祭りの日で朝から準備を行う。幟立て・お借屋建てを行い、神輿の渡御先に「御旅所」の立札を配る。この日に集金した祭典費を受納し、余ったお札を受け取る。15時頃から御霊遷し式を行い、19時から地域主催の余興(平成13年度は歌謡ショー)を行う。
  大祭当日は朝から神社境内と隣の荻野小学校校庭の清掃を行い、9時から神事を行う。19時からは余興となり、平成13年度は里神楽を奉納した。また、昔も今も境内には食べ物やオモチャ等の露天商が沢山出る。
  祭りの翌日は朝から総代が集まり、境内と小学校校庭の清掃を行い、御霊遷しの式を行う。その後は幟とお借屋を片付け、祭りの反省会を行う。



上荻野の歴史

  旧上荻野村は厚木市域の北西部に位置し、七沢村・飯山村と並んで広い村域を有し、西山(ニシヤマ)と呼ばれる中津山地と東側の鳶尾山地に囲まれた荻野盆地と呼ばれる台地に占拠している。2つの山地は開析が進み「荻野九十九谷」といわれるほど浸食谷が多く、幾筋もの小河川が集まって荻野川となって台地の中央を流れている。また、荻野川の支流真弓川も中津山地を開析し、真弓盆地と呼ばれる小さな盆地状の地形を作っている。荻野盆地中央を甲州道が南北を貫いている。周辺は、東側は棚沢村・八菅山村(現愛川町)、南側は中荻野村・飯山村、西側は中荻野村・下荻野村の飛地を経て煤ヶ谷村、北側は角田村・田代村(現愛川町)に接している。なお、西側の中津山地側、東側の鳶尾山地側ともに中荻野村・下荻野村の飛地がある。
  中世の頃は観応3年(1352年)の文書にある「荻野郷」に含まれていたと考えられている。中世後期と思われる資料には「を木の村上下」という記事があり、天正19年(1591年)の石神社(現荻野神社)への寺領寄進状には「相模国中郡上荻野郷」と記載されている。『風土記稿』には分村の経過について、「慶長八年改あり、此時上下二村に分る、中村は後年下村より分析せしなり、按ずるに正保の改には既に三村となる。」と記している。近世の支配は中期まで幕府・旗本領の3給、以後は荻野山中藩領で、『風土記稿』によると幕末の戸数は352戸であった。
  旧集落は荻野盆地・真弓盆地内に点在し、『風土記稿』では小名として「澤村」・「横林村」・「久保村」・「C田谷村」・「檜ヶ谷村」・「王子原村」・「後谷村」・「荒井村」・「田尻村」・「陽野村」・「打越村」の11村を載せている。伝承調査では、荻野盆地の集落は荻野川とその支流沿いの台地上にあり、最も北西部の「クツカケ」・「オッコシ」・「ヨウノ」等の集落から、最も東南部の「ミヤノマエ」・「サワ」・「ヨコバヤシ」まで20の集落が確認されている。真弓盆地の集落は真弓川沿いの台地上にあり、最も奥部に「マユミ」、最も南に「フカホリ」の2集落がある。山林が村域の1/2以上を占めており、耕作地は盆地内の台地に開かれてきた。畑地が多く、水田は小河川に沿っていわゆる谷田(ヤトダ)が開かれていた。
  明治22年(1889年)に中荻野村・下荻野村と合併して荻野村大字上荻野となり、昭和31年(1956年)の合併後に厚木市大字上荻野となる。昭和47年(1972年)に東部中央の鳶尾山麓で「まつかげ台団地」が造成され、村域東南端から中荻野・下荻野にかかる鳶尾山南麓一帯の地は日本住宅公団(現住宅都市整備公団)によって大規模な鳶尾団地が造成され、昭和52年(1977年)に「鳶尾」の住居表示が実施された。また、山地の一部にはゴルフ場が建設された。



取材

宮の上編・・・平成30年(2018年)7月14日、15日



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