岡田おかだ

神社の紹介

  岡田の地には江戸時代に豪族鮎川氏の居城が築かれたといい、今の地名にも城端とか西の前などと呼ばれると所がある。古くこの地には領主の関係で上岡田と下岡田の二つに分かれていたが、鎮守社である「三嶋神社」の祭礼は両部落合同で施行されている。当社の創建年月は不詳であるが、元禄4年(1691年)の銘のあった古鐘には伊豆(静岡県)の「三島神社」の分霊を勧請したという由緒等が刻まれており、祭神は「大山祇神(おおやまつみのかみ)」を祀っている。口伝によるとその昔に能因法師が歌をもって慈雨を降らせたという古事にならい、雨乞いのためにこの神を祀ったとも伝えられている。
  元禄4年(1691年)に岡田村の名主(亭長)であった細野久右衛門善重は社殿の修復を行い、その後も再々行ってきた。同年には鐘楼を造っており、洪鐘は荻野地区の鋳工師であった木村五郎右衛門正重の作を奉納した。その後、大東亜戦争にて軍事提出したために元禄年代から250年程のあいだ住民に親しまれてきた鐘の響きは途絶えたが、昭和25年(1950年)に氏子一同の奉納にて再鋳され、これが銘文として刻まれている。
  当社の社殿は大正年代末に再建され、木造銅板葺の本殿には覆殿(間口奥行共間口1間半)と同型の幣殿があり、前面には木造日吉型造の拝殿(3間4方)がある。拝殿の正面に掛けられた献額は「文政4年(1821年)10月に野州烏山城主、大久保佐渡守藤原朝臣忠保拝書三島大明神」と書かれている。これは当所が烏山藩領であった頃に領主より奉納されたと伝えられ、下野国(栃木県)烏山藩五代藩主大久保忠成(おおくぼただしげ)の書である。また、境内には木造切妻亜鉛葺の神楽殿(間口4間、奥行3間)がある。なお、御神体は丸鏡でるがこれとは別に木造女形神像(立型にて高さ37cm)が1?あり、他に本殿の前方両脇に弓矢を持つ木造彩色塗の神像(高さ52cm程)1対がある。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では岡田村の鎮守を「三島社」とし、末社には「稲荷社」があった。岡田村のこのほかの神社・小祠には「天神社(村民持)」・「御嶽社(村民持)」・「白山社(村民持)」が記載されている。明治初年には部落内にあった諸社祠を合祀し、その際は「道祖神(2基)」・「水神宮」・「弁天社」・「稲荷社」・「白山社」など各1基であった。

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三嶋神社社号柱
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鳥居
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燈籠手水舎
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鐘楼神楽殿
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狛犬狛犬
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拝殿幣殿・覆殿
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水神社稲荷大明神
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境内
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社務所・岡田自治会館

囃子

  



神輿

  



例大祭

  例祭は古くは9月29日で、その後は9月3日になったが、終戦後に4月18日に変更した。



岡田の歴史

  旧岡田村は厚木市域の南部に位置し、村域は平坦な相模平野にある。東側は相模川が南流し、この相模川沿いに八王子道が南北に貫き、村域最南部で矢倉沢道が西に分岐している。現在は都市化に伴い地下水位が下がって水は出なくなったというが、かつては村域西境に地下水の湧出するところがあり、かなりの量が湧出していたため排水路を設けて排水していた。周辺は、東側は相模川を隔てて高座郡社家村(現海老名市)・同中新田村(同)、南側は酒井村、西側は船子村・温水村、北側は厚木村・恩名村に接している。
  中世の頃の岡田村に関する資料はいくつかあり、観応2年(1351年)と思われる「某書状」には「あいきやうのしやうのうちにて候おかたのかう」とあり、愛甲庄に含まれていた。永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「中郡岡田郷」、永禄12年(1569年)の『甲陽軍艦』には「岡田」と記載されている。近世の資料では、正保国絵図では岡田村であるが、元禄・天保国絵図では上岡田と下岡田の上下2村になっている。
  旧集落は村域の東側、相模川沿いの自然堤防上にある。村域の西側低地が耕地であり、そのほとんどが水田であった。畑地は少なく、相模川の堤防の外も畑地にしていた。『風土記稿』では小名を載せていないが、北から「オオカミ」・「カミ」・「ナカ」・「シモ」の4つの小集落があり、オオカミ・カミを「カミオカタ」、ナカ・シモを「シモオカタ」という。
  近世の支配は藩領・旗本領の6給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は92戸であった。明治22年(1889年)に長沼村・下津古久村・上落合村・戸田村・酒井村と合併して相川村大字岡田となり、その後は中郡相川村大字岡田となる。昭和30年(1955年)の町村合併の後に厚木市大字岡田となり、現在は「旭町」・「岡田」の住居表示が実施されている。相模川沿いの北側は厚木地区から続く工業地域の一部として早くから工場地となり、西側水田地帯は東名高速道路厚木インターチェンジの開設によって事業所の進出が盛んである。


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