岡津古久おかつこく

子安神社

  「子安(こやす)神社」の祭神は「木花咲那姫命(このはなさくやひめのみこと)」で、古来から子宝・安産の命として崇められ人々の信仰も篤い。配祀祭神として「富宇気命(とようけのみこと)」と「須佐之男命(すさのおのみこと)」が祀られている。創立年月は不詳だが、『古社調査事項取調書(明治29年・1896年)』によれば文明18年(1486年)以前の創立であり、また境内地には「稲荷神社」があり祭神は「宇加之魂命(うかのみたまのみこと)」が祀られていた。
  天正19年(1591年)には徳川家康から神領一石の朱印地を賜り、元和5年(1619年)にはこの地を領した旗本朝比奈源六郎が当社を再建し、この建立棟札には下津古久村の住人も名を連ねている。『風土記稿』には岡津古久村の鎮守は「子安明神社」で、末社に「神明社」・「山王社」・「稲荷社」の名が記載されている。同村には村持ちの「神明社」も記されている。
  本殿には宝暦5年(1755年)の再建棟札があり、旧拝殿は天保12年(1841年)9月に棟上。明治6年(1873年)に村社となり、翌明治7年(1874年)には「八雲神社」と「神明神社」が子安神社に合祀され、同年に本殿が再建された。その後は幣殿が明治11年(1878年)、神楽殿は明治15年(1882年)にそれぞれ再建された。大正2年(1913年)に本社改築を行い、拝殿は昭和45年(1970年)4月にも再建されている。また、昭和61年(1986年)に幟竿が、平成11年(1999年)に幟が新調奉献された。
  岡津古久は東西2地区に分れ、東を表津古久、西を裏津古久と呼び、子安神社は中間の高台に位置する。

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子安神社鳥居
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拝殿幣殿・本殿
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神社由緒神楽殿
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井戸
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境内
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岡津古久老人憩いの家

囃子

  以前は太鼓保存会の山車が地区内を回っていた。また、伊勢原から太鼓を叩きにきたので、酒肴を用意した。



神輿

  昭和12年頃までは子供神輿があった。



例大祭

  今は4月第2日曜日と7月第3日曜日だが、昔は4月11日であった。
  大祭当日は神主(毛利氏)による神事、総代挨拶、開扉、祝詞、玉串奉奠、終わりの挨拶があり、終了後に直会が行われる。
  以前は地区内を巡幸して、お賽銭のお礼に植木苗を配っていた。また、昔は地芝居をやり、昭和末年までは露店が出た。



岡津古久の歴史

  岡津古久村の厚木市域の南西部に位置し、村域の大部分は津古久丘陵に占地する。この丘陵は標高が低く、2つの大きな浸食谷が開析されており、北側の丘陵裾部に続いてわずかに段丘面がある。山林が約6割を占めており、概して起伏に富んだ地形である。田畑は少なく、水田は丘陵に発達した小さな谷に沿って、いわゆる谷田(ヤトダ)が開かれていた。大山道が村域を南北に貫いている。周辺は、東側は大隅郡高森村(現伊勢原市)、南側は同郡東富岡村(同)、西側は同郡西富岡村(同)、北側は小野村に接している。
  建武2年(1335年)の「きやうい寺領寄進状」では「さかみのくにつおくのかう」、観応2年(1351年)の「足利直義御教書」では「相模国石田庄内津奥村」、永禄2年(1559年)の『所領役帳』では「中郡津古久」の記事が存在する。この「つおくのかう」・「津奥村」・「津古久」を下津古久村に比定する説と岡津古久村に比定する説があるが、現状では確たる検証がなされていない。天正19年(1591年)の「子安大明神への朱印状写」には「相州中郡岡津古久之郷?」と記載され、江戸時代の正保・元禄・天保国絵図とも「岡津古久村」と載せている。
  旧集落は2つの大きな浸食谷にあり、東側の谷の集落を「マエヅコク」、西側の谷の集落を「ウラヅコク」と呼び、『風土記稿』では小名として「表村」と「後村」を載せている。『風土記稿』によると幕末の戸数は35戸で、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は39戸であった。近世の支配は、前期は幕府・旗本領の3給、中期以降は旗本の3給であった。明治22年(1889年)に小野村・七沢村と合併して玉川村大字岡津古久となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字岡津古久となる。東側から南側の丘陵には昭和56年(1981年)に大規模工場が開設し、かつての景観は大きく変わった。


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