小野おの

神社の紹介

  「小野神社」の勧請年月は不詳だが、延長5年(927年)の『延喜式巻九』の神名帳に「相模国式内社の内愛甲郡(あいこうごおり)小一座、小野神社」と記されている。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では愛甲郡小野村の鎮守を「閑香明神社」とし、これが『延喜式』に載せられた当国十三座のうちの小野神社であると記している。現在の当社の拝殿の正面にも「閑香大明神」の古い額が掲げられている。祭神を「下春命(したはるのみこと)」とし神体は木像である。本地薬師を安じ、「阿羅婆娑枳(あらはばき)」と「春日」の2社を相殿とし、末社には「第六天社」・「稲荷社」・「淡島社」・「金毘羅社」・「山王社」があった。別当は本山修験の「光玉山大鏡院(明治初年度廃寺)」であった。天正19年(1591年)には社領2石5斗の御朱印を賜っている。小野村の神社と小祠に関しては「小町明神社」・「道祖神社(村持)」・「山王社(村持)」・「稲荷社(村持)3社」・「神明社(村持)」が記載されている。
  『愛甲郡制誌』によると当社が建久5年(1194年)8月に愛甲三郎季隆によって再興し、建長2年(1250年)12月および元禄5年(1692年)6月の2回工を改めたている。この神社は一般の崇敬殊に深く、天正19年(1591年)に徳川家康公の帰依により愛甲一円の総鎮守であった。殊に愛甲三郎季隆が厚く崇敬しており、その子孫亦参詣度々におよんでいる。愛甲氏本家の横山氏は小野妹子の子孫と伝えられ、愛甲氏の家系の信仰は篤く、特に江戸時代には愛甲姓の武将の参詣が記録されている。明治6年(1873年)20日に郷社に定められた。
  現在の拝殿は嘉永元年(1848年)に建てられ、わら葺屋根であったが昭和43年(1968年)に鉄板葺に替えられた。本殿は拝殿よりも1メートルほど高い地面に神明造で建てられている。末社は「大六天」・「稲荷神社」・「淡島神社」・「金毘羅」・「山王」の5社を祀り、裏手には道祖神6体が祀られている。小野神社のかつての鎮座地は現在と違っており、背後の西南方約500m離れた小高い山の傾斜が少し平らな所にあった。この山は神の山といわれ、今は個人の所有地で「秋葉神社」という小祠が立っている。この旧社址の土地は狭くかつ部落の中心から外れているので、後世になって現在の社地に移されたといわれる。

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小野神社石標
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鳥居鳥居建立記念碑
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神社由緒手水舎
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拝殿覆殿・幣殿
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神楽殿小町連 神祭庫
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石祠など
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玉垣再建記念碑相殿・末社
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境内


祭神

  小野神社の現在の祭神は「日本武尊(やまとたけるのみこと)」となっており、『特選神名牒』も同説である。ところが、江戸時代に記された地誌や式内社に関して書かれた諸本では、いずれもこもれと異なることから、明治以降になってから祭神に日本武尊が加えられたようである。『風土記稿』によると「下春命(したはるのみこと)」となっており、『神社覈録』も同説である。
  当社の祭神を日本武尊としたのは『古事記』(中巻、景行天皇の段)に記された尊の野火(のび)遭難の説話に基づくものであると思われ、この記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えられたようである。倭建命(やまとたけるのみこと)は東国の賊の征伐に向かった際に相武国の野に入り、賊に放火され焼き討ちの苦難にあった時に倭建命(日本武尊)は草薙剣(くさなぎのつるぎ)で草を刈りはらった。その時のことを妃(きさき)の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が入水の際に詠んだとして記された歌の「さねさし さがむ(相武)のをぬ(小野)に も(燃)ゆる火の ほ(火)なかに立ちて と(問)ひしきみ(君)はも」に出てくる「をの(小野)」を、愛甲郡小野村にあてたことによるものである。しかし、この古歌が橘姫によって詠まれたかどうかは疑わしく、さらに歌のなかの「相武の小野」は小さい野原ということではなくただの「野(相模野のことか?)」ととらえることもできる。すなわち、ここでの小野は固有名詞ではなく、「小」という接頭語を「野」に添えて美化したにすぎないとも解釈することができる。
  他方、『日本書紀』によると日本武尊の野火遭難は駿河国であったとしており、「この歳(倭姫命から草薙剣を授けられた歳)、日本武尊始めて駿河国に到りたまう。その処の賊いつわり従い、欺きて曰く、この野に麋鹿(おおしか)多し、いでまして狩りしたまえ。日本武尊その言を信じ、野中に入りて狩りしたまう。賊、王を殺さむ情(こころ)」ありて、その野を放火(ひつけ)焼く。王欺かれぬるを知(しろ)しめて、すなわち燧(ひうち)を以て火を出し、向焼(むかいひつ)けて免るることを得たり。王曰く、殆ど欺かれぬと。則ち悉(ことごと)く賊衆を焚(や)きて滅ぼす。故(か)れその処をなずけて焼津(やきつ)と曰う。」と記されている。『延喜式』の神名帳には駿河国益頭(ましず)郡に「焼津神社」があり、この地方では当神社付近の地を日本武尊の野火遭難の旧蹟に当てている。焼津神社の社伝によると日本武尊が伊勢より海路を通り、駿河国焼津に上陸したと伝える地点が現存しており、毎年例祭のおりに神輿の旅所となっているという。なお、駿河国における日本武尊の野火遭難の故地にちなむといわれる神社が焼津神社以外に2社あり、一つは有度(うと)郡草薙(げんざいは静岡市に編入)の「草薙(くさなぎ)神社」、もう一つは庵原(いおはら)郡草谷(現在は清水市に編入)の「久佐岐神社」である。いずれも焼津神社とともに延喜式内の神社で、古社たることは疑いはない。

囃子

  「小町太鼓保存会」



神輿

  



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の8月12日であったが、その後は9月21日に行っており、小町神社と合同でやるようになった昭和40年頃からは4月21日に行っている。昔は五穀豊穣や豊作祈願が目的だったが、農業をやる人が少なくなった現在では、商売繁盛や交通安全など全ての祈願をする。
  前日の宵宮は当番の地区(上・中・下の3地区に分かれている)の人達が幟を立てて境内の掃除をする。昔は青年団(軍隊に入る20歳前)が準備をした。昔は宵宮に小野の人達による人形浄瑠璃(人形は長谷座)をやった。
  大祭当日の8時に宮世話人は集合し、10時10分に神殿で式(神事)が始まる。式には総代(3人)、世話人(10人)、自治会長、農業委員、老人会のほか一般の人も参列する。@宮司にならって一拝、A修祓(しゅうばつ)、B開扉の儀(降神)、C献饌(酒と水を開く)、D祝詞奏上、E玉串奉奠、F撤饌、G閉扉の儀(昇神)、H一拝。10時40分に式は終了する。
  晴れていればこの後小町神社へ行く、その後はお神酒で乾杯し直会に移る。昔は神楽殿で里神楽や芝居をやった。今は歌や踊りを18時頃からやる。晴れていれば幟を立て、提灯、刀、鏡などを神殿の前に立てる。境内の秋葉神社は1月23日、竹之内神社は7月13日がおまつりである。



小野の歴史

  「オノ」という地名は日本の各地にそうとう広く分布しており、『和名抄』によると近くは旧武蔵国多護磨郡におそくとも平安中期には「小野郷」のあったことが明らかであり、そこに式内の小野神社が鎮座している。また甲斐国巨麻(こま)郡にも「飯野(おの)」という地名がある。元来「ノ」という語は山の裾野とか緩傾斜の地帯を意味する古語で、「オ」は発音をしやすくするための接頭語である。相模国愛甲郡玉川郷のうちの小野も、そのような地形の地である。
  旧小野村は厚木市域の南西部に位置し、村域は津古久丘陵・白山山地・高松山丘陵に囲まれた地域にあり、津古久丘陵北側と白山山地南側には山地裾部に続いて段丘面が存在している。村域中央部を玉川が東流し、白山山地と高松山丘陵との間を細田川が南流している。大山道が村域東南を通っている。周辺は、東側は「長谷村」・「愛名村」・「愛甲村」、南側は「岡津古久村」・「大住郡富岡村(現伊勢原市)」、西側は「七沢村」・「大住郡日向村(現伊勢原市)」、北側は「上古沢村」に接している。
  『延喜式』では愛甲郡の小社として小野神社を載せており、小野は古くからの地名であった。宝徳3年(1451年)の「休畊庵寺領注文」には「相模州愛甲保小野郷」と記載されており、この頃は愛甲保という地域に含まれていたようである。永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「中郡小野」と記載されている。『風土記稿』では小野村に関して「日本武尊当国に入し時、国造等欺きて草野に誘い、やがて火を著け焼討んとせし事ありしは、果たして此辺の事ならんか、(中略)先の郊野を付て、佐賀牟野遠恕(サガムノオヌ)と云るは此所の事にして、今の村名は必其遺称なるべく覚ゆ」と記している。
  旧集落は山地裾部に続く台地上を中心として点在している。山林が6割を占めており、田畑は少ない。水田は玉川沿いの低地に開かれているほか、細田川とその支流沿いにいわゆる谷田(ヤトダ)が開かれてきた。『風土記稿』では小名として「岩田」・「榎田」・「川野」・「椚田」・「竹之内」・「堂村」・「中屋」・「町屋」を載せ、伝承調査では「イワタ」・「エノキダ」・「カツラギ」・「カミムラ」・「カワノ」・「クヌギヤマ」・「シンメイマエ(モンゼン)」・「タケノウチ」・「ナカヤ」・「ホリアイ」・「マチヤ」・「ミヤノワキ」の12集落が確認されている。近世の支配は幕府・旗本領・藩領等の3給であった。『風土記稿』によると幕末の戸数は94戸、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は96戸であった。
  明治22年(1889年)に岡津古久村・七沢村と合併して玉川村大字小野となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字小野となる。北側の山地一帯は昭和40年代から「厚木パークシティ」開発が計画され、大学等の文教施設や研究所を始めとする事業所、さらに住宅団地が造成されかつての景観は大きく変わった。実施後の昭和60年(1985年)に「森の里」・「森の里若宮」・「森の里青山」の居住表示が実施された。



小町神社

  小野神社の背後の右手、玉川を越えた向こうに低い山が続いており、その中腹に「小町神社」がある。この神社は小野小町を祀るといわれ、その神社のある山も「小町山」と称している。『風土記稿』には小町山に「小町明神社」があり、山下に小町松、末社に神明社があり、別当は「宮野院」であると記載されている。
  平安時代に美女として有名であった小野小町は、この小野村が出生地であると伝えられている。文明18年(1486年)道興准后が回国の途中、この地に立ち寄ったときのことを『回国雑記』のなかで「熊野堂(注・厚木の町内にあり)と云ふ所へ行ける途に、小野といへる里侍り。小町が出生の地にて侍るとなん里人の語り侍れば、疑がはしけれども、 色みえて移ふときく古への言葉の露かをのの浅茅生」と記している。さらに『鎌倉根元記』でも当社が小町の旧蹟であると記しているというが、『風土記稿』の編者は小町というのは采女(うねめ)の通称であり、往昔この地から采女を貢したことがあったのを地名により有名な小野小町に付会したものとも取れる。
  また別の伝説によると、源頼朝の妾に丹後の局という女あり、懐妊して男子を産んだので、頼朝の正婦人政子の憎むところなり、殺されようとした。隣村愛甲村出身の愛甲三郎季隆がこれに同情して、母子を当小野の地に連れて来てかくした。その男子はのちに鹿児島に逃れ、島津家の先祖となったと伝えている。愛甲三郎季隆は源家三代に仕え、弓がうまく故実に通じていたので重用されていた。その居蹟は愛甲部落内の西方、小野部落寄りにいまも存している。建保年間(1213〜18年)に和田義盛が北条氏と争ったときに、和田党に味方して討ち死にした。その生存中は愛甲郡の地頭として勢力を振るっていたから、その居住地の近くの小野神社の保護者として、これを崇敬していたものと想像される。

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鳥居社殿
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小野神社縁起
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小町塚境内

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