三田さんだ

神社の紹介

  三田地区の鎮守「八幡神社」の祭神は「応神天皇」で「神功皇后」を合祀し、本殿両脇には摂社として祭神の「仁徳天皇」を祀る「若宮八幡」と「春日大神」がある。創立年月は不詳だが建久3年(1192年)に源頼朝の家臣であった安達藤九郎盛長が「鶴岡八幡」を勧請して再建したと伝えられている。その後明暦4年(1658年)8月に再建され、現在の本殿は元禄3年(1690年)4月に旧領主であった川口長三郎の寄進により建造されたものとみられる。本殿は柿葺流造り壱坪五合五勺、拝殿寄棟造り二十一坪、前面入母屋造り千鳥破風で、厚木市の重要文化財に指定されている。また、境内には「稲荷社」が祀られている。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると三田村は「八幡社」を鎮守とし、末社に「若宮八幡社」・「春日社」・「道祖神社」・「稲荷社」があった。この他の神社や小祠として「第六天社(村持1社・村民持1社)」・「山王社(村持1社・村民持2社)」・「神明社(村民持)」・「天神社(村民持)」・「白山社(村持)」・「姥儀社(村持)」・「稲荷社(村持)」があった。八幡社は天正19年(1591年)11月には徳川家康より社領1石5斗の御朱印を賜り、正徳4年(1714年)の鐘を掛けた。
  文久4年(1864年)3月15日に社殿がそっくり再興された。明治6年(1873年)7月に村社に指定され、明治9年(1876年)7月27日に神饌幣帛料供進神社に指定された。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災により本殿・拝殿が大被害を受け修繕をし、昭和4年(1929年)1月に草葺屋根を亜鉛鉄板葺に造り替えた。さらに昭和41年(1966年)8月には屋根裏千鳥破風の上棟基礎、床張替内外のはめなどの改築を施行した。

八幡神社道祖神
社号標鳥居
参道・幟竿
境内神楽殿
手水舎三田八幡神社由緒
日露戦役忠魂碑三田小学校跡
燈籠石階段
狛犬(阿)狛犬(吽)
八幡神社本殿(有形文化財)
社殿(正面)社殿(西側面)
厚木市立三田児童館
八幡神社社務所厚木市三田児童館児童遊園

囃子

  



神輿

  



例大祭

  例祭は8月1日に行われる。
  準備は社内外の清掃をする。3年に1度の余興のある時は舞台の清掃等を行う。昔は幟を立てたが今は立てない。
  大祭当日の朝に神社役員7人によって清掃。社殿外に受付所設置。式典参列者は村役30人ほどで、お祓いの後に宮司による祝詞奏上、玉串奉奠、総代長の挨拶で式を終了する。その後は社殿に直会を行う。また、余興のある年は露店が出る。



三田の歴史

  旧三田村は厚木市域の北部に位置し、村域は荻野台地最北部と中津川沿いの沖積地にあり、概して平坦な土地が占めている。村域中央部には南北に段丘崖があり、台地の北部には小段丘があって上下2段の段丘面が認められる。北境から東境を中津川が南流し、段丘崖下南部では湧水が集まってひたし川(干無川)となって南に流れている。村域の北側から西側境を大山道が通っている。周辺は、東側は中津川を隔てて「関口村」・「中依知村」・「下依知村」、南側は「妻田村」・「金田村」、西側は「下荻野村」、北側は「棚沢村」・「下川入村飛地」に接している。
  中世の頃の三田村に関する資料は多く、初見は観応3年(1352年)の「将軍足利尊氏禁制写」の「相模国毛利庄内散田郷」であり、永正9年(1512年)の「伊勢宗瑞判物」にも「中郡之内散田郷」と記されている。天文24年(1555年)の「北条家朱印状写」から「三田郷」の表記となり、以後は「讃多村」の1例を除き「三田」の字が使われている。近世、正保国絵図には「三田村」、元禄国絵図では「上三田村・中三田村・下三田村」の3村を載せ、天保国絵図では再び「三田村」1村の記載になっている。近世の支配に関しては、前期は幕府・旗本領の3給、以後は大久保氏(荻野山中藩)領であった。明治22年(1889年)の町村制施行に伴い「下川入村」・「棚沢村」・「妻田村」・「及川村」・「林村」と「三田村外五ヶ村組合」を組織し、昭和21年(1946年)にこれら5村と合併して睦合村大字三田となった。昭和30年(1955年)に睦合村が近隣の町村と合併して厚木市大字三田となったが、最南部の一部の土地が「妻田西」・「妻田北」の新町名に含まれている。
  三田村の集落は台地縁と中津川の自然堤防にあり、東側の沖積地一帯は広く水田で、台地上は畑であった。江戸中期には西側のところで三田村他5村により開墾が行われ、原地新田と呼ばれたが入植者はなかった。村内は「カミサンダ」・「ナカサンダ」・「シモサンダ」の3つに総称されている。カミサンダは「サイド」・「ナカモヨリ」・「ジッケンムラ」の3集落で、サイド・ナカモヨリは台地北部の低位の段丘面にあり、ジッケンムラ段丘崖下の沖積地にある。ナカサンダは「ミヤムラ」・「ムカイヒラ」・「ヒガシムラ」・「ヤマノネ」の4集落で、段丘崖下の沖積地、あるいは自然堤防性の微高地にある。シモサンダは「ネギシ」・「トオカイチバ」の2集落で、ネギシは台地縁に、トオカイチバは中津川に沿う自然堤防に立地している。『風土記稿』では三田村の小名として「才戸」・「十軒村」・「宮村」・「山ノ根」・「川原村」・「蟹淵」・「稲荷市場」・「根岸」を載せており、幕末の戸数は163戸であった。


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