猿ヶ島さるがしま

神社の紹介

  「熊野神社」の祭神は「四方津解男命」・「伊弉冊命」・「速玉男命」を相殿として祀り、御神体は高さ約33cm程の彩色塗の木造像が安置されている。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると猿ヶ島村内の神社・小祠として、「本立寺」持ちの鎮守「熊野社」の他に、村持ちの「稲荷社」・「山王社」・「天神社」が記されている。境内には天神社の石祠が新旧2基あり、この内の1つが『風土記稿』記載の天神社と思われる。なお、稲荷社と山王社は集落地の北側はずれにある山王森に祀られている。当社がこの地に勧請されたのは天文年間(1532〜1554年)で、熊野三社権現を祀り鎮守社とした。江戸時代は村内本立寺が別当であった。
  社殿は木造流造の亜鉛鉄板葺で、本殿は間口1間奥行1間程、拝殿は間口3間奥行2間である。尚、神楽殿は木造で10坪である。江戸期寛延3年(1750年)に石灯篭1対と、同じく1対が昭和12年(1937年)に奉納されている。明治26年(1893年)に石造鳥居1基が、昭和3年(1928年)には浄水鉢が奉納されている。

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熊野神社鳥居
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手水舎燈籠
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燈籠拝殿
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天神社石祠
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神楽殿
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境内

囃子

  



神輿

  



例大祭

  



猿ヶ島の歴史

  旧猿ヶ島村は厚木市域の北部に位置し、村域は沖積地にあり平坦な土地で占められ、東側を相模川が流れている。周辺は、東側は相模川を隔てて高座郡新戸村・磯部村、南・西側は山際村、西・北側は上依知村に接している。旧集落は相模川沿いの自然堤防上にあったが、『風土記稿』には小名を載せず、伝承調査でも集落名は得られなかった。
  中世の頃の本村に関する現存資料はなく、近世の正保図絵図に村名を載せる。近世の支配は幕府・旗本領等の2給で、『風土記稿』によると幕末の戸数は38戸、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は33戸であった。明治22年(1889年)に金田村・下依知村・中依知村・関口村・山際村・上依知村と合併して依知村大字猿ヶ島となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字猿ヶ島となる。



猿ヶ島新開

  幕末から明治初期にかけて台地上の山際村地内に猿ヶ島村民が移住し、「猿ヶ島新開(さるがしましんかい)」と呼ばれる集落を成した。これは幕末期に猿ヶ島村の村民が度重なる水害を避けて、上段の中津原台地上に移転したものである。その位置は山際村の北西部の上依知村と下川入村に隣接する所である。伝承によると、当初は原野・芝地で作り手のない悪い土地で、見当をつけて開墾していったという。本村の32〜33戸全戸に土地の権利が与えられ、最初に4戸が入植して新開集落をなした。戸数はその後14戸に増え、この14戸の集落が長く続いた。本村の集落は「シマ」、新開の集落は「シンカイ」または「シマシンカイ」と呼ばれており、両集落は現在でも様々な付き合いを一緒に行っている。
  昭和62年(1987年)に建立された「新開発祥之碑」には次のように刻まれている。 「 新開由来記  度重なる相模川の流れに災害を受けた猿ヶ嶋村の住民は安政年代此地へ移住を計画、原野を開墾し新開と呼称す 万延元年申歳九月井戸一本を掘り移住以来128年 昭和初期14戸 現在氏子40戸を数へる 益々地域の発展と福祉安泰を祈願し 後世に伝える発祥の碑を建立する 」


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