下島しもじま



八幡神社

  「八幡神社」は下島の鎮守で、旧称は「八幡宮」である。社殿の建立は棟札によると安永5年(1776年)で、内部に間仕切はないが、向かって右が「八幡神「」、左が「若宮」である。下島の八幡神社は「正八幡」と「若宮八幡」を一緒に祀ったといい、下の高梨義治家で祀っていた八幡さんを出して一緒にし、下島の八幡にしたというが詳細は不明である。

八幡神社鳥居
水鉢下島自治会防災備蓄庫
拝殿本殿・幣殿
下島自治会館
石造物収納庫
幟支柱境内


例大祭

  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では例祭日が旧暦の9月13日であったが、その後は3月4日、3月13日となり、新しい住民が増えたこともあって、現在は3月13日近くの土曜日になっている。
  祭りは神社境内に幟を立て、神主を呼んで祝詞をあげてもらう。



淡島神社の祭り

  3月13日は小祠「淡島神社」の祭りで、これを「淡島待」ともいう。現在は行われていないが、かつては小祠の近くは歩けないほど人出が多かったという。戦前にはちょうどこの時期に奉公人が宿下がりをし、新しい奉公先に上がるまでの休み期間にあたっていた関係もあって、オトコシ(男衆)・オンナシ(女衆)の人出が多く、俗に「見合待」とも呼ばれていた。女の人はお針を持参して境内の針供養塔に納めて針の供養もした。安産のお札も出した。
  また、巳の年がご開帳で、その時には下島部落の人々が手分けして他部落の懇意な家々を回って、針供養の寄付を仰いで神社の修理をし、余ったお金でお神楽をしたという。お神楽は愛甲郡から招いた。なお、この淡島様の小祠は現在は霊山寺境内にあるが、かつては寺の本堂の中にあったもので、神仏分離の際に出して建物を別に建てたのだと伝えられている。

囃子

  青年達を主とする集団には青年会以外に「太鼓連」もあり、神社の祭礼に太鼓を叩く仲間であった。大正の頃に一時期禁止されたが、その後は太鼓を購入しなおした。
  下島には終戦直後に豊田打間木から譲り受けたと言い伝えられている(金目の説もあり)山車が現存しており、専用の小屋に保管されている。現在では使われることはないが、昭和40〜50年頃までは舞台に太鼓を載せて、下島地区を曳き回していた。現在はゴム製のタイヤが付いているが、当時は木製の車輪で、祭礼で使われないときは車輪の腐食を防ぐために、八幡神社の東側に流れる渋田川に沈めて保存していた。舞台の寸法は横幅約2.0m・奥行き約2.5mの長方形で、舞台の四隅にある穴に柱を差し込み、梁を渡して屋根を載せる構造になっているが、現在は屋根部は残されていない。この山車は下島地区での保管が困難になり、平成30年(2018年)に廃却予定になっている。

山車舞台上に並べられた柱と梁
柱を入れる穴山車小屋


神輿

  



テンノウサンとオオバレイ

  境内に「八坂社」があり、7月25日の祭礼(かつては7月9日であった)には昔から子供神輿(田村の古い神輿を買った)を担ぎ回った。子供神輿は部落全戸を巡り、笊の中にお賽銭を入れてもらう。結婚したばかりの人がついて回り、神輿の世話をすることになっていた。しかし、年に2回の祭りは大変だというので夏祭りは中止し、神主を呼んで祝詞をあげるだけにしている。この祭りは「テンノウサン(天王さん)」といい、後には虫送りやオオバレイも同じするようになった。しかし、オオバレイは耕地整理のあった大正3年(1914年)からやっていない。
  オオバレイは以前は7月18日と決まっており、この日は虫送りもし、ケップー(ホラ貝)を吹きながら太鼓を青竹で担ぎ、オオド(大きい鉦)・竹筒のカイを持って、お宮→四ッ家→小鍋島境→打間木境と村の耕地を西回りに一周し、南東隅の渋田川の土手に出た。各戸から1人ずつ出て、子供がお供をした。朝から昼間でかかったもので、最後に川に流してイネノムシを送った。このとき一服するのは四ッ家で、飯田清司家に頼んで子供達に菓子を出したし、最後の高梨喜重家にも菓子を頼んでおいたという。



青年会

  かつては「青年会」があり、15歳で加入し45歳まで入っていた。各村は支部になっていて、下島にも支部長がいた。加入したばかりの下っ端は「トウジセワニン」といい、使い走りさせられ、年上の元老がいて威張っていた。霊山寺のまわりに堀があり、青年達はそこに稲を植えておき、5俵くらい取れて青年達の費用になった。祭りなどは青年会が一切取り仕切り、会合はお宮の青年会所でもった。祭りの後の夜には青年会館に青年達が泊まったという。青年会所は婦人会も利用した。
  会員が結婚しシンショウを持つときには、必ず支部長を祝言に招待した。嫁が来るときは青年達が提灯を持って村境まで迎えに出て、嫁入り先の家まで送っていく。酒一升とつまみなどを出されて、青年達は青年会所で飲んだ。イセキの婚礼であるとミツメの後に青年達のためにひと座敷設けたが、今では式のあとに続けてひと座敷設けている。さらに男子が生まれるとその家に坐るので、青年会のやっかいになるからと5月の初節句を祝ってくれた。樽酒をすえ、2間と1間半位の大きなタコを夜なべで作って、子供の名前や家印を入れてあげてくれた。これは戦後しばらくまでやっていた。


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