下川入しもかわいり

神社の紹介

  「諏訪神社」の祭神は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」で、この神は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」であり、諏訪神社(長野県諏訪市)の祭神となったことが『古事記』にみられる。当所鈴木貞吉氏の家に伝えられる口碑によると、同家元の紀州藤氏郷士鈴木三郎家の次男重康が貞応年間(1222〜1223年)頃に川入郷へ移住した時、鬼門除として諏訪神社を祀ったが後にこの部落の鎮守となったという。
  寛政8年(1796年)7月に佐野氏が建立した石標の正面には「神祇免許社」と彫られ、裏面には「抑当社往昔六株の松の下に穂屋を営み鎮座し給ひしを延暦(782〜805年)終頃今の宮造りして川入野里田家の産神と仰ぎ氏子願ふに甲斐あり時に寛政八つのとし(1796年)天命下りて本朝神祗帳にいらせ給ふは神徳を後世に知らしめんと石図を記奉尊崇もの也」と由緒が示してある。そして右横面には「すはの浪こゝにもかよふ川入りの 名にたつ里は神のまにまに」とある。
  厚木市の重要文化財に指定されている本殿は所蔵棟札によって文化14年(1817年)の建立で、大工棟梁は八菅村(現愛川町)の「天野幸八」、彫刻師は八王子宿の「前田新蔵」であったことが明らかになっている。素木(しらき)造りや彫物による豊かな装飾は江戸時代後期の特徴を顕著に示すと同時に、県南の社殿には見られない禅宗様尾垂木付の組物を使うという地域的な特色も併せ持っている。寛政11年(1799年)には笹生家が「第六天神社」を、小宮家が「日枝神社」を寄進した。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「諏訪社(村持)」を鎮守とし、安永2年(1773年)再鋳の鐘を掛け、往古社地には六本松(一幹六本に分る)と呼ぶ老樹がったが中古枯槁したと記載されている。この他の神社・小祠には「五穀明神社(村持)」で末社に「一目連大神」があり、「第六天社(村民持)」が2社、「山王社(村民持)」がある。また、『皇国地誌』には「多度名神社」・「諏訪社」・「稲荷社」が記載されている。
  社殿は明治4年(1871年)11月に再建されており、当時は茅葺であったが、昭和32年(1957年)に亜鉛板葺きになり、拝殿を前方へ六尺引き出して幣殿を加え前巾三間奥行六間半となった。明治16年(1883年)には小宮家、明治24年(1891年)に笹生家が両神社の石宮を再建したが、近年になり崩壊寸前だったため平成4年(1992年)に両社を石碑に納めて改建した。昭和14年(1939年)4月に従来からの石鳥居を多度名神社へ移し、新たに鳥居を再建した。
  江戸末期に枯れた六本松の後継として若松の木を6本植えたことは明治3年(1870年)に山中役所へ上書しているが、この松も順次枯橋して大正時代には1本しか残っておらず、最後の1本も昭和になって枯橋した。しかしながら境内には他の樹木が繁茂しており、昔より目標となった「六本松」の面影は幾分残されている。昭和25年(1950年)8月には自然石の台上にこの六本松の石碑が建立され、昭和35年(1960年)には新たに御神木の碑が建てられている。

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諏訪神社
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社号柱
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鳥居手水舎
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鐘堂六本松の石碑
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燈籠燈籠
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拝殿幣殿・覆殿
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第六天神社・日枝神社境内
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神楽殿下川入第一自治会館

囃子

  



神輿

  昔は神輿がなかったが、今は子供会が神輿を担ぐ。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭は旧暦の7月27日で、文政年代には江戸芝居を三昼夜行うほどの盛況を極めていたという。現在は「諏訪の荒日(あれび)」といわれる8月27日に行う。下川入氏子の役員は一部・二部・三部から各3人づつ出ていたが、今は一部のみ4人の合計10人となっている。一部は下川入のうち根岸と上原(かみっぱら)、二部は多度名神社の付近、三部下原(しもっぱら)と中の坂から下(しも)の下段(しただん)の集落である。
  前日に提灯枠立てを老人会が行うが、現在は第二部の提灯枠のみで、昔は一部・二部・三部の三組を鳥居から拝殿の間に立てた。立てる位置は一年毎に変わり、鳥居から一部・二部というように順番をずらして立てた。三部の提灯枠は特に立派で、欅造りであった。また、神楽殿も開けて舞台の支度をする。
  大祭当日の9時に神官による式が行われ、子供会の神輿のお祓いをする。神官は八管(愛川町)の千葉氏であったが、昔は林(厚木市)の水島氏であったが。夜は踊りと歌が舞台で行われる。
  昔の諏訪神社は歌舞伎をやることで人気があり、多くの見物人が詰め掛けた。舞台の前は大きくしゃくれていて(凹んでいて)、現在公民館が建っている付近までしゃくれ、ここにムシロを敷いて見物した。歌舞伎は厚木の柿之助とか、座間のヨーチャンとかモッチャンを頼んだ。柿之助を頼んだ時は東京からも役者を呼んで、舞台の二重(中央の一段高い部分)とか、引戸などは小野(厚木)の舞台のものを借りるように言われたので、牛車を2台チャーターして小野から運んだ。また、第2次大戦中とか、食料不足の時代には米などを持参して歌舞伎を楽しんだこともあった。
  露店は昔ほど多くはなく、昔は夜のカーバイトの光で梨とかアイスクリームなどを売っていた。



下川入の歴史

  旧下川入村は厚木市域の北部に位置し、村域の東側は中津原台地に、西側は中津川沿いに沖積地にあり、ほぼ中央に台地西縁の段丘崖がある。台地西縁を信玄道が通り、中央北寄りを東西に大山道が通る。周辺は北側は上依知村と熊坂村・八菅村・半縄村(3村は現愛川町)、東側は山際村、南側は関口村、西側は棚沢村と中津川を隔てて三田村に接している。なお、中津川を越えた棚沢村と接するところに下川入村の飛び地があった。『風土記稿』に記載されている小名は「諏訪ノ原(諏訪社辺を云)」・「中村」・「山ノ根」・「関さし」・「根岸」・「中河原」・「下河原」・「吹上」である。
  中世文書には「河入郷」・「東郡河入郷」・「川入」の名称が見えるが、この頃は棚沢村や愛川町分も含んだ広い地域であったと考えられている。村名は正保と元禄の国絵図では「下川入」、天保の国絵図では「川入」となっている。『皇国地誌』では村名について次のように記している。「慶長・元和ノ頃中郡ノ称ヲ廃シ愛甲郡ニ復ス、下川入村後単ニ川入村ト称シ後又新戸村ト改称セシガ明治六年復下川入ニ改ム」。『神奈川県史資料所在目録』と『野だちの石造物』で当村の名称が記され、かつ年記のある資料を概観すると、宝永期の資料までは「下川入」で、それ以降の18世紀代は「下川入」・「川入」の両方を称している。「川入」の方がやや多く、その初見は享保3年(1718年)である。以後、幕末までの資料112点では「川入」が殆どで、「下川入」はわずか1点しか見られない。明治期は明治2年(1869年)までは「川入」が殆どであるが、明治3年(1870年)以降は「下川入」が上回り、殆どをしめるようになる。「河入」の名称は幕末から明治初年にごく僅かに見られる。なお、『皇国地誌』中の「新戸村」については、近世初期の中津川の洪水により「川入では渡船で新しく往来する所もできたので新渡村と言った」という伝承があり、「新渡村」と書いた古絵図があるという。
  旧集落は中央の段丘沿いと沖積地にあり、段丘上に「カミッパラ」・「シモッパラ」の2集落、段丘下には「ネギシ」・「ヤマノネ」の2集落がある。沖積地には中津川沿いの自然堤防に「ムカイムラ」・「ナカガワラ」・「ナカムラ」の3集落が点在している。台地上は畑地で、台地下の沖積地には広く水田が広がっており、この水田は川入用水で灌漑してきた。『風土起稿』によるとこの用水は当村の他、棚沢村・熊坂村・八菅村・半縄村の5村で利用していたものであり、八菅・半縄2村の入合地で中津川の水を堰入れて各村の水田を潤し、流末は善明川に合流している。なお、享保元年(1716年)の水害記録には中津川の洪水により、村内の家数86戸のうち2/3の58戸が畑地へ屋敷替えをしたことが記載されている。『風土記稿』によると幕末の戸数は90戸で、『皇国地誌』によると明治初期は108戸であった。
  近世の支配は、初期は幕府直轄領、以後旗本・藩領等の2〜4給。明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、「三田村」・「棚沢村」・「妻田村」・「及川村」・「林村」と「三田村外五ヵ村組合」を組織し、昭和21年(1946年)にこれら5村と合併して睦合村大字下川入となる。昭和30年(1955年)の合併後は厚木市大字下川入となる。


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