下大槻しもおおづき

健速神社

  「健速(たけはや)神社」の旧社名は「牛頭天王社」で、地元では古くから「お天王さん」の名前で親しまれてきた。祭神は「牛頭天王」と「須佐之男命」の二神を祀り、境内社には稲荷神社と御嶽神社がある。近年実施された秦野市教育委員会の調査によって、当社の本殿は市内に現存する最古の神社建築であることが明らかになり、平成15年(2003年)2月12日に秦野市の重要文化財に指定された。
  その創建時期は詳らかではないが、古老の言伝えによると人皇百七代正親天皇の御代、富永弥四郎が武運長久を祈願して、永禄2年(1559年)に社殿を新造したといわれる。当社には秦野市内最古の永禄2年(1559年)の棟札が残っており、本願定秀・地主富永・原土佐守重政等の名が見える。また、天正9年(1581年)の棟札には本願伊奈定秀とあり、永禄2年の棟札に見られる本願定秀が伊奈氏であったことが分かる。拝殿奥の覆殿に収蔵されている朱塗りの本殿は、寛永3年(1626年)に徳川第三代将軍家光公より社領の寄進をうけ、寛永13年(1636年)年に造立された。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では「下大槻村」の項において、「牛頭天王社」を村の鎮守とし、神体は八寸ぐらいの石としている。永禄2年の棟札には大導法師圓、當地主富永、原土佐守重政、本願主定秀、口藤但馬、禰宜新兵衞らの名を記し、裏には永祿二載己未二月廿七日とある。神木の松は一丈五寸で、神楽殿があった。牛頭天王社は土屋村大乘院塔中の金藏院持ちで、本地堂は薬師を安ず、末社には稲荷、観音堂の名が記載されている。下大槻村にはこの他に村民持ちの「御嶽社」と「石神社」も記載されている。明治元年(1868年)の神仏分離の際に社名を現在の健速神社に改称し、明治6年(1873年)に下大槻村の村社に列せられ、大正5年(1916年)12月26日には神饌幣帛供進指定神社となった。現在の社殿は平成15年(2003年)9月12日に起工し、翌平成16年(2004年)5月9日に竣工式が行われた。
  本殿は「一間社流造(いっけんしゃながれづくり)」で、地方の神社本殿では最も多い形式である。正面から見ると柱が2本しかなく(これを「一間という)、屋根は正面に葺きおろされて階段を雨から守る。こうした形式が「流造」で、背面を除く三方には廻り縁が付けられている。正面が約1.2m、奥行き約1mで、大きさは中規模だが、寛永13年(1636年)の棟札が残る市内最古の本殿である。そのため彫物などの装飾的な細部は比較的少なく、やや簡素な感があるが、よく見ると部分的に金が施されており、建立当初は大変華やかな社殿であったことがわかる。改造も少なく古い部分が多く残っており、建設当時の姿をよくとどめている。

健速神社鳥居
燈籠下大槻自治会館
鳥居手水舎
輿堂狛犬
拝殿幣殿・覆殿
本殿神社由緒
神社由緒境内
社殿大改修奉賛者記念碑庚申塔
石祠水鉢
境内明治末期の健速神社


祭礼の歴史

  『新編相模国風土記稿』によれば、毎年6月7日から17日までを祭礼としていた。北方の村境に仮屋を建て、7日に出輿して13日に本社へ帰座、17日まで祭事が施行されていた。明治6年(1873年)に健速神社が下大槻村の村社に列せられた折に、7月9日を例大祭日と定め、例大祭前日に金目川の「川場水掛神事」で清められた神輿は、翌9日の例大祭に家々の門口で焚く麦わらの火を渡りながら、下大槻全域を一日で渡御する事となった。
  祭礼は戦時中に休止されていたが、太平洋戦争後に復活した。その際、9月第1土曜日に「川場水掛神事」が行われ、翌日の日曜日を「例大祭日」と定められたが、現在でも7月9日に例祭の儀が執り行われる。なお、防災訓練や選挙が行われる場合は、例大祭日が第2周目にずらされる。健速神社では江戸時代から続く伝統の「火渡り神輿」の祭礼を今も受け継いでおり、下大槻の渡御を終えて境内に還御した神輿は燃え盛る麦藁の炎に迎えられ、人々の災厄を薙ぎ払う伝統神事「おおや」と呼ばれる勇壮な神輿ねりには、毎年多くの観客が訪れる。

渡御中の火渡りおおや


宵宮準備

  ここからは平成28年(2016年)9月3日の土曜日に行われた宵宮の様子を紹介する。宵宮では午前中から祭礼の準備が行われ、山車の組み立てや神輿の捩り掛け、幟立てや式典の準備などが行われる。

7時半にお宮へやってきました既に掃除が始まっています
天候が心配されていますが午前中は大丈夫そうです
輿堂には大神輿が収納されている
集合時間の5分前青年会も到着し
輿堂の裏からベニアを運び出す
8時半になると大総代の挨拶で
祭礼の準備が始まる
輿堂から大神輿と神事に使う道具を取り出す
境内では砂利を掃き寄せる青年会は輿堂裏から
山車の屋根を取り出し
フェンス側へ移動
さらに山車の部材を取り出します
社殿裏でも作業が始まる山車の部材は
運び出して境内の西側へ移動
社殿裏からは長い幟竿を取り出す
氏子の方が協力して準備が進められます
こちらは山車のトラック砂利がなくなり土がむき出しに
山車の屋根裏から1年間の埃を取り除く
青年会は山車の組み立てに取り掛かる
社殿裏から取り出した幟竿は
裏から運び出しクレーン車へ積んでいく
山車のトラックを掃き掃除し柱を
横架材で繋ぎボルトで仮止め
掃除を終えた屋根は向きを合わせて
ひっくり返し持ち上げて
柱の上に上げるとホゾをホゾ穴へ差し込む
梯子を用意し屋根の上を掃き掃除
今度は土台の木材を荷台の上で組み立てる
山車の横架材を吹き掃除脚立を移動し
屋根の反対面も掃除していく椅子と破風も吹き掃除
鳳凰と紫の捩りが外される砂利がすっかり取り除かれる
掃除は念入りに
社殿裏からは大神輿の轅を運び出し
鳥居前を通って輿堂前へ移動
奥では子供会の山車が組み立てられています
神輿を輿堂側へ寄せ轅を
奥側の棒穴から挿入
今度は幟竿を担いで鳥居を潜ると
階段を降りて行く
踊り場の横には子供神輿が1基
幟竿は鳥居を潜って道路へ出る
飾りの彫刻や屋根幟が置いてあります
幟竿は鳥居前の道路脇におろす
階段を上がると社殿裏から
もう一本の轅を運び出し輿堂へ
手前側の棒穴へ轅を挿入
神輿は昭和60年に修復されています
青年会の山車では屋根の前後に
破風を取り付け昨年の写真で位置を確認
運転席側の柱には紅白の紙テープを巻く
境内の裏口からは麦藁を積んだ軽トラックが
荷台に溢れんばかりの藁社殿横のトラックにも大量の藁
鳥居付近には提灯枠を取り付けるようです
階段下から花飾りを運び
山車の近くのフェンスへ立てかける
山車を鳥居側へ下げトラックをバックで寄せる
物凄い数の花飾りです数本は軽トラで別の場所へ
鳥居前では提灯枠を立てる山車を持ち上げ
トラックの荷台へ載せ土台に固定すると
アオリを閉める正面の柱にも
紅白の紙テープを巻いていく荷台へはラッシングベルトで固定
屋根には花飾りを取り付ける
蕨手に小鳥を差し込む提灯枠はロープで釣り上げます
こちらは山車に巻く紅白幕
針金を切って花飾りを固定
山車とトラックは念入りに固定
なんという量でしょう提灯枠が設置完了
社殿前に飾る高張提灯花の先端には長い紙テープ
境内の裏からはまたもや大量の藁を積んだトラックが
どんな祭りになるのか想像が付きません
ここでお茶が配られ青年会もしばしの休憩
神輿では捩り掛けが始まる山車では紅白幕を巻き付ける
木陰では藁を使って何やら作業が始まります
紅白幕は山車を一周覆います
麦藁にはブルーシートを掛ける捩り掛けを終えた子供神輿
藁は束ねて人の背丈ほどに一体何に使われるのでしょうか
花飾りは運転席側にも謎は深まるばかりです
時刻は10時半準備はまだまだ続きます
神輿では轅を固定こちらの旗は神事で使う様です
階段下ではクレーン車を使って幟立てが行われる
2本の晒を撚って1本の綱にしていきます
縦の花飾りは今年初の試みドアが開く様に紅白幕を調整
クレーン車が幟竿を立てると
支柱へ貫を通して竿を固定
花は横にも通して高さ方向のバラツキを抑えます
こちらは配線の作業中場所は変わり倉庫では
太鼓の準備が始まるこちらは第一子供会の山車
境内下では西側の幟が立てられる
青年会の山車ではベニアの掲示板を設置
両サイドに取り付け昇降用の梯子を掛ける
こちらは第二子供会の山車子供神輿が2基あります
幟竿には可愛らしい彫刻が青年会は正面にも掲示板を
今度は綱を芯に晒を巻き付ける鳥居には注連縄を渡す
配線が終わり電球を取り付け青年会の提灯を取り付ける
神輿ではいよいよ捩り掛けが始まります
下大槻では鳳凰に掛けません青年会の締太鼓を増し締め


セイレイハジメ・祭礼始め (開始11:45)

  健速神社の祭礼では、幟が上がると「セイレイハジメ」とよばれる行事が行われ、境内に茣蓙を敷いて飲み会が開かれる。セイレイハジメの由来は定かではないが、「祭礼始め」が変化したという説があり、幟が上がると同時に健速神社の祭礼が始まるという意味合いで使われている呼称である。

お宮の入口には幟が2本上がりました
捩りは蕨手から轅へ山車には雨対策のビニールシート
社殿前では茣蓙を敷き
飲み物を用意してセイレイハジメの準備を進める
横方向からも晒で締め上げる拝殿には幕を垂らす
鳳凰は捩り掛け後に取り付け第一子供会の山車が
お宮に到着シートはいつでも下せるように
お宮の役員から声が掛かります青年会は正面にもビニールシート
瓶ビールの蓋を開けます式典の準備が整ってきました
神輿では横棒を縄で固定しカケヤで締め上げる
鳥居には榊の飾りつけ準備は続いていますが
準備を終えた人からセイレイハジメを開始
こちらは締太鼓の枠を運び青年会の山車に設置
締太鼓を竹で固定太鼓の準備が整いました
拝殿には椅子が並べられる13時頃にセイレイハジメが終了し
午後の行事まで一旦解散青年会は階段を降り
自治会館で昼食を取ります


川場神事 (開始14:00)

  セイレイハジメから昼食を挟み、14時からは健速神社特有の神事である「川場神事」が執り行われる。現在は神社境内の南側にある稲田で行われているが、かつては川場の文字通り、南平橋より上手の清水の場所で行われていたようで、神輿や奉仕者の祓(はらえ)であった。
  現在の川場神事は稲田前で神事を執り行い、稲田で抜き取った稲を社殿へ持ち帰るという内容である。稲は神前に供えられてから、神輿の鳳凰の嘴に銜えさせる稲穂飾りに使われる。太平洋戦争前の祭礼が7月9日であったことを考えると、当時はコメの収穫時期ではなく、現在とは異なる行事が行われていたことが想像できる。川場神事が何時ごろから始まったかは定かではないが、明治期には金目川で神輿が清められたといい、時代と共に神事の内容が変化してきた可能性が考えられる。古老の話では元服を迎えた者が川へ入って禊を行ったという。
  川場神事では南平と宿矢名も参加し、それぞれの山車が境内へ集合する。稲田での神事を終えた行列がお宮へ向けて出発すると同時に、三地区の太鼓の山車が一斉に太鼓を打ち鳴らす光景が印象的である。

13時20分頃に山車が一台お宮に到着
南平の山車です下大槻の奥へ止める
曾屋神社の宮司が到着南平も大太鼓が横に並ぶ
青年会員がお宮に集合南平が太鼓を止めると
山車がもう一台お宮に到着
今度は宿矢名です下大槻と南平の間にとめる
こちらの家族はお祓いを受けます
掲示板にはのし紙を貼っていく私のもこの中に入っています
社殿前では神事の準備が始まります
こちらは幣帛でしょうか小さめの馬
宮司も境内へおりてきました馬は幣帛の為の様です
五色旗は子供会の担当社殿からは小さい鳳凰
1年の埃を落とします何に使われるのでしょうか
一般的な神事ではなさそうです14時頃になると
健速神社の旗を先頭に一列に隊列を組んで
社殿前を出発私の個人的な気持ちですが
これから何が行われるのか非常に楽しみです
階段を下り鳥居を潜って右折
T字路で左折し南へ向かって進んでいく
神事中は私語が禁止されているので風の音しかしません
向かう先には八足台上には塩が置かれています
一行は十字路で右折
14時10分に八足台の置かれた場所に到着しました
台には鳳凰も置かれます準備が整うと
神事が始まる最初に祝詞奏上
続いて修祓鳳凰と幣帛
お清めの水桶もお祓い更に正面の田んぼもお祓い
最後に参列者を修祓
マスクをした氏子が水田へ向かい
稲を抜くと用水路で泥を落とす
もう一名が稲田へ向かい稲を抜いて泥を落とす
更に半纏を来た2名が稲を抜き
根に付いた泥を洗い落とす
稲の担当は主に青年会です稲田前での神事が終わると
神社旗を先頭に川場を出発お宮では太鼓が打ち鳴らされる
行きと同じ行列を組み十字路を左折
お宮へ向かって引き返す帰りも私語は厳禁です
太鼓が良く響きます一行は突き当りの
T字路を右折抜いた稲は持ち帰る
お宮の前まで来ると一の鳥居を潜る
境内では下大槻青年会宿矢名の諏訪会
南平青年会が太鼓の競り合い先頭の神社旗から
二の鳥居を潜っていく
宮司水桶
稲持ちが2名五色旗
鳳凰残り2名の稲持ち
行列が社殿前に到着宮司は神輿をお祓い
鳳凰は台に足を挿して固定これから社殿で神事が始まる


宵宮祭 (開始14:30)

  川場神事の行列がお宮に到着すると、社殿では宵宮祭が執り行われる。宵宮祭が終わると南平と宿矢名の山車はそれぞれの地区へ戻っていく。

川場神事の行列が到着すると太鼓は演奏を止める
宮司は5台の山車をお祓いして回ります
お祓いが終わると社殿へ入り
参列者も社殿へ上がる
太鼓の合図で14時30分に神事が開始
20分程で神事を終えると出席者は境内へ
抜いてきた稲は神輿の鳳凰に銜えさせるようです
宿矢名と南平は山車へ向かい
太鼓を叩いて南平から
お宮を出発続いて宿矢名がお宮を出発
それぞれの地区へ帰っていく宮司も曾屋神社へ戻ります


地回り (山車巡行)

●健速神社 (出発14:55)
  宵宮祭が終わると、下大槻青年会の山車は太鼓を叩きながら健速神社の氏子範囲(下大槻・南平・宿矢名)を巡行する。なお、下大槻の第一自治会と第二自治会のそれぞれの子供会の山車は、それぞれの自治会区域を巡行する。

青年会が山車の前に集合し乾杯して
山車に乗り込むとお宮を出発
宵宮は神輿渡御がありませんが山車は巡行します
山車に乗らなかった青年会員は階段を下りて先回り
山車は突き当りで右折しお宮の正面を通過
これから下大槻地区を巡行していきます

  
  ※地回り(山車巡行)の様子は下記のページを参照。

  地回り(山車巡行)


●健速神社 (到着19:10)
  地回りを終えた下大槻青年会の山車は境内の裏手から宮入りし、宿矢名と南平の山車も境内での神輿担ぎの為に健速神社にやってくる。

お宮の裏では子供会の山車が
先に宮入り2基の山車が並びます
続いて青年会の山車が宮入り
境内で太鼓が打ち鳴らされます
社殿横では刺身の準備宮入り後も続く太鼓の音
ここで雨が降りはじめ横のビニールシートもおろします
19時25分になると宿矢名の山車が到着
下大槻の奥へ止め太鼓を打ち鳴らす
続いて南平の山車もお宮に到着し
宿矢名の奥へ止め太鼓を打ち鳴らす


神輿担ぎ

  宵宮では神輿の渡御は行われないが、境内でのみ下大槻・南平・宿矢名の担ぎ手によって神輿が担がれる。なお、神輿担ぎ前には女神輿が宮入りし、境内で女神輿版の“おおや”が行われる。神輿担ぎを終えると南平と宿矢名の山車はそれぞれの地区へ戻る。

ここで女神輿がお宮の裏から宮入りし
轅を肩からおろして抱えながら社殿前を走り抜け
輿堂前で引き返し再び走り出す山車の前で止まると
東へ向いて再び走り出し鳥居前で左へ旋回して
社殿へ向う階段を上がり
差し上げる社殿を離れると
輿堂前へ移動し19時30分に宮付け
競り合いを続けていた3基の山車は太鼓を止め
3地区が境内へ集まり下大槻青年会長の挨拶
刺身と飲み物が配られ神輿担ぎ前に休憩が取られる
ここで雨脚が更に強くなり各地区の山車は雨対策
19時50分になると会長の挨拶で3地区の担ぎ手は
輿堂前へ向かい神輿を担ぎ上げる
社殿前を通過し境内を練り歩く
山車の前で引き返し
社殿前を通過して再び輿堂前へ
雨でも構わず担ぎます再び山車の前で引き返し
社殿前で旋回すると社殿へ向かって進んでいく
拝殿の手前で止まり神輿を差し上げると
社殿を離れて輿堂前へ
正面を南へ向けて輿をおろす
下大槻青年会長の挨拶で8分程の神輿担ぎを終え
3地区はそれぞれの山車へ移動下大槻
宿矢名南平が太鼓を叩く
中央の宿矢名がバックし競り合いを抜けると
健速神社を出発し宿矢名地区へ戻っていく
続いて南平の山車が移動し
お宮を出発して南平地区へ帰っていく


直会・宮番

  神輿担ぎで宵宮での行事はすべて終了し、下大槻では健速神社の社殿内で直会が開かれる。青年会は宮番があり、大祭の朝までお宮に泊まり込む。

社殿では直会の準備太鼓を叩き続ける青年会
拝殿にビニールシートを敷きさらに茣蓙を敷きます
宵宮では20時40分頃まで太鼓が叩かれ
その後は社殿に集まり始めに大総代の挨拶
続いて青年会長の挨拶で乾杯
直会は朝方まで続きます明日はいよいよ大祭です


                

囃子

●下大槻青年会
  下大槻に伝わっている曲目は「バカッパヤシ」と「ミヤショウデン(宮昇殿)」の2曲で、バカッパヤシは「ブッツケ」から始まり、祭礼中の殆どで叩かれる曲である。楽器の構成は締太鼓2個と大太鼓1個で、かつては笛が入っていたようであるが、現在は伝承されていない。
  下大槻では下大槻青年会の山車の他に、下大槻第一自治会の子供会の山車と、下大槻第二自治会の子供会の山車、計3台あり、健速神社の祭礼中は青年会の山車が下大槻・南平・宿矢名の三地区を移動するのに対し、子供会の山車はそれぞれの自治会区域のみを移動する。

囃子の構成は締太鼓2個と大太鼓1個が横に並ぶ
下大槻の青年会の山車
下大槻第一自治会の子供会の山車
下大槻第二自治会の子供会の山車

●南平青年会
  

●南矢名諏訪会
  囃子は「大太鼓1」・「締太鼓2」で構成され、曲目は「祭ばやし」・「みやしろでん」がある。2年に1度開催される諏訪明神の大祭(7月上旬の土・日曜日)には山車で巡行し、健速神社の大祭でも演奏される。



太鼓練習

  下大槻地区では健速神社の境内で太鼓の練習が行われ、下大槻青年会が子供たちの指導に当たっている。練習は8月の毎週土曜日と大祭前の月曜日から金曜日まで行われ、19時から20時までが子供の練習、休憩を挟んで21時までが青年会の練習となっている。以下に、平成28年(2016年)9月1日の木曜日に行われた練習の様子を紹介する。

下大槻の練習は健速神社の境内で行われる
祭礼に向けて提灯と幟が取り付けられています
青年会は太鼓の準備台を降ろし
太鼓を運び出すと階段を上がっていく
台に締太鼓をセットし大太鼓は
鳥居の柱に縛り付ける
境内には茣蓙が敷かれ子供たちが座ります
準備が整うと19時からは子供の練習
茣蓙では角棒を叩く締太鼓には
列を作って順番待ち子供が沢山参加します
30分ほど叩くと休憩を入れ
再び練習を再開
子供の練習は20時に終わり角棒を片付ける
茣蓙は移動して社殿前に敷いていく
子供達にはアイスを配り20時15分頃から
大人の練習が始まる
締太鼓の台は対面式です柱に縛るのは珍しいです
途中で休憩を入れ
再び練習を再開
21時になると太鼓を片付け
社殿前で宴会が始まりますこの日は23時前に解散


神輿

  健速神社の神輿の創作経歴は不明だが、天保3年(1832年)の塗師横山大輔銀長等、昭和3年(1928年)の秦野町石井佛具店修理の記録がある。昭和60年(1985年)には破損が甚しかったため改修を施行した。
  下大槻にはこの他に各自治会の子供神輿があり、若草子供会の神輿は団地関係の子供神輿である。なお、中型の神輿はもともと下大槻第二自治会の子供会で高学年用に使われていたが、少子化により担ぎ手が減少したため有志で修理を行い、現在は女神輿として宵宮にお宮の周辺で担がれる。

健速神社神輿捩り掛け後
提灯取り付け後S60年の修復前の神輿
下大槻第一自治会の子供神輿下大槻第二自治会の子供神輿
南平の子供神輿宿矢名の子供神輿
若草子供会の神輿中神輿(女神輿)


下大槻の歴史

  下大槻(しもおおづき)は秦野市の南東の端に位置し、旧小田原道に沿って西から峰・宮下・岩井戸・欠ノ上の集落が並んでいる。南平はこの並びとは金目川を隔てた南側に位置し、南隣の平塚市と接している。下大槻の地形は矢名に接する台地から南側の田の地帯と、川向こうの台地からなっている。田場所に接する台地の側面には岩井戸横穴群、欠ノ上横穴群、そして台地には広畑古墳群、二子塚古墳群と古墳時代の遺跡が多く、古くから人が居住していたことを示している。
  元弘3年(1333年)や明徳4年(1393年)の鎌倉浄光明寺の記録によると、同寺領として「大槻村」が記載されている。応永27年(1420年)12月21日の『関東公方足利持氏御教書』には「波多野庄内平澤村、大槻村」、さらに享徳2年(1453年)12月15日の『関東公方足利成氏御教書』にも「波多野庄内大槻村」がみえる。いつ頃に上大槻と下大槻の二村に分かれたのかは不明であるが、永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』には「中郡 大槻上下」という記載があることから、この頃には既に分村していたと思われる。また、正保国絵図には「下大月」とあり、健速神社の庚申塔の銘にも下大月とある。
  近世初期には幕府直轄領で、寛永10年(1633年)に旗本多門・川勝領の二給による相給知行、明治初年の旧高旧領取調帳では旗本多門・安藤・岡部領の三給となっている。享保19年(1734年)の『東海道小田原宿助郷帳』によれば助郷高347石、大麦・甘藷・越瓜・西瓜など畑作が中心で、『風土記稿』には特に大麦は佳品なりと記している。『風土記稿』にある小名は「欠ノ上」・「岩井戸」・「峯」であり、天保5年(1834年)の戸数は109であった。中央を金目川が西から東へ流れ、東は南金目村(現平塚市)、北は南矢名村、西は上大槻村と曽屋村に接していた。金目川右岸の南平を波多野道が東西に、南矢名村境を大磯道が東西に通っていた。
  昭和16年(1941年)の戸数は142戸で、集落の規模はそれほど変わっておらず、昭和40年(1965年)頃でも8割以上は農家であったという。自治会名簿によると昭和60年頃の戸数は367戸となり、職業欄に農家とある家は僅か39戸と全体の約一割となった。近年までは水田耕作や野菜栽培などが中心の純農村地帯であったが、昭和47年(1972年)に日本住宅公団下大槻団地が完成したのをはじめ、東海大学湘南校舎の開校にともなう学生寮などが立ち並ぶなど、この20年で集落の規模や構成が大きく変化していった。現在では新興住宅地と旧来の農家が混在する農村携形態を呈している。
  南平地区は本村とは金目川で隔てられた南側大地上にあり、温室園芸や野菜栽培が主流となっている。古くから戸数の変化が少なく、新世帯の家も二・三男の分家といったものが大部分であった。



下大槻の社会組織

  下大槻は近世の幕制村である。大根村に合併してからは大字となったが、健速神社の祭礼をはじめとしてムラとしてのまとまりを持っている。下大槻には「大峰」・「中峰」・「宮下」・「岩井戸」・「欠の上」・「南平」の集落があり、これらはブラクと呼ばれていた。南平は40戸くらいあったが、他は十数戸の集落であった。下大槻の中の町内会は「下大槻第一」・「下大槻第二」・「南平」の3つがあり、それぞれ次のようになっていた。
    下大槻第一・・・大峰・中峰
    下大槻第二・・・宮下・岩井戸・欠の上
    南平・・・南平
  町内会は昭和16年(1941年)の『神奈川県中郡大根村勢要覧』には「部落会区」という名称で書かれている。大峰・中峰といった集落も、下大槻第一のような集まりも、場合によってはブラクと呼ぶこともあったようである。しかし、普段の生活の中でブラクという時は大峰・中峰といった集落をさしていることが多い。町内会には会長と役員がいて、町内会の運営にあたっている。かつては大根村の農業委員や土木委員などが町内ごとに選ばれていた。町内会は昭和50年代に自治会というようになっており、下大槻第一自治会と下大槻第二自治会、南平自治会というようになっている。
  南平以外のブラクでは講や葬式の手伝いなどをブラクごとに行っており、ブラクより小さな区分に組があるが、家数の変化によって組分けが変わってきた。昭和60年(1985年)頃の自治会の組は次のようになっていた。
    下大槻第一・・・一組から十五組まで
    下大槻第二・・・宮上・宮下上・宮下下・岩井戸・欠ノ上一組
              欠ノ上二組・夕日ヶ丘・広畑
    南平・・・関口・大東・東・中東・中西・大西第一・大西第二



青年団と青年会

  青年団は大根村青年団(昭和16年からは大根村青少年団、戦後は大根村青年会)の下大槻支部があった。会員は15歳から25歳までの男子であるが、入会の時期は15歳と決まっていたわけではなく、高等科2年を終了してから入会することが多かったようである。入会の資格は特になく、長男以外でも地元に残っている者は加わったが、長男以外は小学校を終えると奉公に出ることが多かったので、どうしても長男が多かったという。大根村青年団では年会費二十銭(昭和初期頃)を集め、年に一度の総会をした。
  青年団の行事はスポーツ大会・月見・勤労奉仕などがあった。スポーツ大会は陸上競技を競うもので、大根村の大会を勝ち抜くと西部大会、郡大会、県大会と進むことができた。娯楽の少ない時代であったので青年団以外の者も集まり、村をあげての行事であったという。月見は十五夜のころに月見会と称して飲食を楽しむもので、このときに天神社の石を持ち上げて力比べをした。
  嫁入り行列がブラクに入ると青年団が太鼓をたたいたり、提灯を持ったりして県道まで出迎えた。昔はいやがらせやいたずらがあったという言い伝えから警護の意味があり、行列の最後について無事に婿の家まで送り届けた。隣の家を借りてお神酒と煮しめを届けて労をねぎらった。青年たちは12時、1時まで歌をうたって騒いでいた。何かことがあれば直ぐに駆けつけられるように、隣家で待機していたようである。
  下大槻では青年団と平行して青年会があり、青年会は35歳までであった。下大槻の青年は25歳で青年団を抜けても、35歳まで青年会に残った。青年会の役目は健速神社の祭礼で神輿を担ぐことで、35歳になるとコシセワニン(輿世話人)として神輿の指導をした。下大槻では青年団と青年会が合同で、年一回の総会を行った。また、女性が入る処女会というものもあり、15歳から嫁に行く25歳くらいまでの娘が入っていた。



大槻東陽(大槻誠之)

  下大槻で使われている幟と社殿内に掛けれられている社号額は、旧下大槻村の生まれである大槻東陽(とうよう)の書であると言われている。※以下の文書は『谷中・桜木・上野公園 路地裏徹底ツアー』に記載されている説明文をそのまま載せています。今後は大槻東陽について独自に調査をしていく予定です。

大幟社号額

  大槻東陽(おおつきとうよう)/大槻誠之(おおつきせいし)  文政5年〜明治36年5月20日(1822-1903)  儒者。名、籟次のち誠之。号、泰嶺・東陽。父、相模国大住郡下大槻村の名主原幸右衛門政房。天保のはじめころ(1830-)江戸に出て、巻菱湖の弟子牧野天嶺(まきのてんれい)に書を習うが、ここで旧友依田学海と再会する。明治に入り、東陽と改名。明治11年(1878)小石川区より東京府会議員となるが、1年余りで辞職する。明治13年(1880)加藤桜老と東洋的学校「大同館」を創建。続いて活動のPRのため「大同新報」を創刊。明治17年(1884)桜老没後は、一人で運営したものと思われる。出版:「訓蒙 日本外史 全七冊」解釈者・「啓蒙国史略」編輯・「皇朝歴代沿革図解」編輯・「入蜀記註釈. 巻第1-6」 陸游 著:大槻東陽 註釈・「国字分類 古今歴史集覧」編集・「暦代日本伝 六巻」著。82歳。妻、矢野多津子。  墓は、谷中霊園 乙3号11側。南端。正面「大槻家之墓」。墓域は荒れている。



光西寺と金毘羅堂

  下大槻にある寺院は南平の曹洞宗大槻山「光西寺」の一寺のみで、『風土記稿』によれば真田村(現平塚市)の天徳寺末寺で、文禄年間(1592〜96年)に創建されたと伝える。地元南平に旧来からある家は全て光西寺の檀家であった。檀家としては下大槻の他のブラクや秦野に南平から出た家があるほか、遠藤原(中井町)にも広がっている。

曹洞宗大槻山光西寺寺号塔
結界石(不許葷酒入山門)六地蔵
本堂墓地

  光西寺の墓地脇に一軒半・二間ほどの金毘羅大権現の扁額が掛けられた堂がある。昭和10年代までは10月10日が金比羅さんの縁日となっており、光西寺の境内に舞台を設置して地芝居が開催されていた。地芝居は村の若衆がやったり、厚木から神楽衆を呼んだこともあったという。地芝居がかかると光西寺の参道には露店が軒を並べ、下大槻だけでなく近郷からも多くの参拝者があったという。この10月10日の大祭には光西寺の本寺である平塚市真田の天徳寺や、同寺の末寺である極楽寺(秦野市落幡?)の住職が手伝いに来ていた。これに対して光西寺からは8月23日に行われる天徳寺の大祭(真田尊)と、7月9日の真田天王祭に住職が使僧として参加していた。
  戦後、この金毘羅大権現祭は行われなくなったが、毎月1日と10日には参加者も南平地区の人たちだけで、少人数ながら光西寺住職のもと御祈祷が行われるようになった。金毘羅大権現堂は六畳間ほどの広さがあり、寺及び年寄連の会合などに使用されていた。昭和50年代になって改築されたが、年寄連が中心となって寄進されたものである。また、金毘羅大権現堂前の十坪ほどの空き地には、明和4年(1767年)に造立された大乗妙典供養塔がある。

金毘羅(大権現)堂お堂
大乗妙典供養塔石碑

  健速神社の祭礼において金毘羅堂は南平での「盗み神輿」で利用されるお堂で、下大槻・南平・宿矢名の3地区の青年会がここに集合してから、神輿が安置されている南平自治会館へ向けて出発する。

金毘羅堂に集まる青年会南平自治会館での盗み神輿


一番太鼓 (開始5:00)

  ここからは平成28年(2016年)9月4日の日曜日に行われた大祭の様子を紹介する。宵宮から宮番のためにお宮へ泊まり込んだ青年会は山車に太鼓をセットし、大祭の早朝5時丁度にバカッパヤシを3周だけ打ち鳴らす。

早朝4時26分にお宮へ到着青年会は直会の後片付けや
祭礼の準備をしています山車では締太鼓の調整
私は2時間ほど仮眠しましたが青年会は勿論殆ど寝ていません
社殿は綺麗に片付いています枠に締太鼓をセット
花を持ち出し向拝の屋根に梯子を掛け
軒裏に花を取り付ける準備を終えた山車は消灯
青年会は神輿へ向かい掛けてあった
ブルーシートを外して折り畳む
5時5分前です山車の照明をつけ
叩き手が山車に乗り込みスマホで時刻を確認します
5時丁度になるとブッツケから
バカッパヤシを演奏気持明るくなってきました
下大槻に響き渡る太鼓の音
3周で切り上げ太鼓を外して
スパナで緩めます引き継ぎで来たお宮の役員は
式典の準備を始めます大分明るくなってきました
頑張って来た甲斐がありましたテーブルを片付ける青年会
5時15分になると青年会長の挨拶があり
青年会は一旦解散僅かな睡眠を取りに帰ります


大祭準備

  宮番をした青年会は5時過ぎにお宮の役員と宮番を交代し、8時30分まで各自仮眠を取りに自宅へ帰っていく。大祭の準備は朝から順次進められ、お宮では式典の準備、3台の山車では神輿渡御に向けて出発の準備を進めていく。
  8時20分頃からは三地区の子供神輿がお宮に集まり始め、輿堂前に置かれた宮神輿の周辺に並べられていく。また、8時40分頃には南平と宿矢名の山車がお宮に到着する。

椅子が並べられますこのあと一時雨が降ってきます
境内では掃き掃除そろそろ8時になります
五色旗は大祭でも使われます境内に止めてあった
クレーン車がお宮を出発氏子が増えて来ました
第1子供会の山車では雨除けのビニールシートを上げて行く
青年会の山車もシートを上げる明け方の雨から一変
今日は晴れそうですここで軽トラックが現れ
境内に入ってきました子供神輿をのせています
荷台からおろし輿堂近くにおろす
階段下からも子供神輿が登場
鳥居を潜り輿堂付近へ
第二子供会の山車も準備開始式典に向け
子供神輿が続々と登場どの地区か区別が付きませんが
小さい神輿は3基目です第一子供会は太鼓を設置
青年会は山車の四隅に提灯を取り付ける
8時半に曽屋神社の神職が到着
階段下からと境内裏から
1台ずつ子供神輿が登場
子供神輿はこれで最後全部で5基あります
第二子供会は大太鼓を設置南の方から太鼓の音が
南平の山車の様です宮本青年会が挨拶に来ました
南平の山車が境内裏から到着
境内の一番南フェンス側に止まる
雨の心配はなさそうなので正面のシートを上げます
時刻は8時40分東の方から
宿矢名の山車が到着南平と下大槻の間に入る
子供が大勢乗っています第二子供会の方も太鼓をセット
時刻は8時45分青年会は締太鼓を増し締め
山車の掲示板にのし紙を貼るこちらは帯を巻きます


発輿祭 (開始8:55)

  8時55分からは社殿内で曾屋神社の宮司により発輿の儀が執り行われ、宮神輿と子供神輿に御霊が遷される。

8時55分になると太鼓の合図で発輿祭が始まります
下大槻・南平・宿矢名3地区の担ぎ手は
輿堂前へ移動し子供神輿を移動させると
大神輿に肩を入れ担ぎ上げる
そのまま鳥居方向へ移動し旋回して社殿へ向き
位置を整えて輿をおろす
社殿内での神事を終えると青と白の幕を出し
神輿の東側を覆う更にもう1枚は
神輿の西側を覆い神輿へ御霊が遷されると
幕が外され宮司が社殿へ戻ります
神輿の唐戸を閉める社殿ではお神酒の準備
神職が子供神輿を
1基づつ順番にお祓い
続いて子供神輿に御霊を入れて行く


神輿渡御

●宮立ち (出発9:45)
  神輿への御霊入れが終わるといよいよ宮立ちとなり、子供神輿から順番に正面の階段を下りて神輿渡御が始まる。

青年会は襷を受け取り宮立ちまで待機
9時半になると大総代から挨拶があり
お神酒を順番に受け取って飲みながら奥へ進んでいく
続いて神輿委員長の挨拶私もお神酒を頂きました
挨拶が終わると青年会は社殿前に集まり
会長の挨拶もう直ぐ神輿渡御です
五色旗が配られ最初に子供神輿からお立ち
お清めの塩係も出発階段を下りて行く
続いて高張提灯がお宮を出発
子供神輿が次々と
階段を下りて宮立ち
4基目の子供神輿が出発
続いて神社旗
子供神輿はこれで5基目
中神輿は輿堂横へ移動させる子供神輿の次は五色旗
青年会は轅に肩を入れ
神輿を担ぎ上げる山車では太鼓が打ち鳴らされる
西へ向く神輿太鼓を打つ青年会
神輿は山車の前で引き返し
東へ向かって練り歩くと輿堂前で旋回
社殿前を通過し山車の方へ移動
境内一杯に大きく回り
2往復すると輿堂前で引き返して
鳥居前で南を向く
鳥居と提灯枠を潜り
階段を慎重に下りて踊場へ
再び階段を下りる下では旗係が神輿を待ちます
階段を下りると鳥居前で一旦止まり
肩からおろして鳥居を潜って健速神社をお立ち
右折して西へ向かい先導の神社旗と五色旗が出発
道脇には何故か麦藁がどんな渡御になるのでしょうか

  
  ※神輿渡御(午前)の様子は下記のページを参照

  神輿渡御(午前)


●盗み神輿 (開始14:00)
  午後の神輿渡御は南平自治会館から始まるが、お立ち前に健速神社特有の行事である「盗み神輿」が行われる。盗み神輿は南平青年会が中心となって行われる行事で、三地区の青年会が光西寺の金毘羅堂に集合し、そこから神輿が安置されている南平自治会館へ移動し、文字通り神輿を盗むように運び出す行事である。この行事の由来はわかっていないが、御霊の入った神輿を南平の氏子が夜中に盗み出したという説がある。

青年会は歩道に集まり西へ向かって移動
総代や旗係も西へ向かって歩いていく
光西寺の金毘羅堂に青年会が集合します
総代と旗係は正面の通りで待機
下大槻と南平の両青年会と宿矢名諏訪会がお神酒を頂く
これから何が始まるのか非常に楽しみです
14時丁度に南平の青年会長が走り出し、その後を三地区の
担ぎ手が無言で続き南平自治会館へ向かっていく
太鼓も南平青年会が担当です青年会員らは
神輿の周りに集まり轅を抱えると
南平の青年会長の合図で無言で神輿を抱え上げ
文字通り神輿を盗むように運んでいく
暫くすると神輿を担ぎ上げ
掛け声も入り午後の神輿渡御が始まる

  ※神輿渡御(午後)の様子は下記のページを参照

  神輿渡御(午後)


●宮入り (到着20:00)
  健速神社の氏子地区を渡御し、お宮前で最後の休憩を終えた神輿は、お宮の裏から宮入りとなる。最後の休憩場所からは小さい鳳凰と健速神社の提灯を手にした青年会員が神輿を先導する。

お宮の前を練る神輿
お宮の前でも火渡りが続きます
鳳凰が神輿を先導田中屋の前でも火がつけられ
火を渡ると左折
入り口に置かれた火を渡り
坂を上って突き当りを左折
お宮まで最後の直線道でも火をつけた麦藁が
待ち受けています火を渡り切り
裏の入口まで来ると麦藁が横に並べられています
T字路を利用して方向転換麦藁に火がつけられますが
火柱というよりも殆ど火の壁です
本日最大の炎の前に流石に担ぎ手も怯みます
神輿役員に促されようやく神輿が
宮入り・・・なんですがなんでしょうこの火は
思わず絶句してしまいました社殿の屋根位の高さがあります
ゆっくりと斜面をおりる神輿バカッパヤシで迎える太鼓山車
これからいよいよ最大の見せ場“おおや”が始まります


おおや (開始20:05、終了20:15)

  神輿が宮入りすると健速神社の祭礼で一番の目玉となる行事である「おおや」が始まる。境内には多くの観客が集まり、秦野市以外から来る人も年々増えているという。社殿横には大量の麦藁が燃やされ、その炎の高さは社殿の屋根程の高さに達する。

昨日作っていたムギッカラの先端に火を付けると
神輿を抱えて境内へおり反対側へ向かって走り出す
“おおや”の始まりです神輿の前後に付くムギッカラ
境内の東端まで来ると担ぎ手は向きを変えて反対側に走り出す
山車の前まで来て境内を1往復
神輿の向きは変えずに再び社殿方向へ走り出す
輿堂前で引き返し西へ向かって走っていく
“おおや”は担ぎ手にとって非常にハードな神事です
青の誘導棒で合図を出すと
おおやは3周目に突入輿堂前まで一気に走り抜ける
太鼓の音が鳴り響く中3基の山車の前まで引き返し
担ぎ手が輿堂の方へ方向転換火力が少し弱まってきました
担ぎ手は体制を整え4往復目に突入
社殿前では神社役員や神輿役員などが待機
この鳳凰には諸説ありますが鳳凰を目指して
神輿が追い掛ける設定です神輿は5往復目に突入します
途中でフラッシュ撮影に切り替えましたが
灰が舞っているのがよく確認できます
おおやは6周目に入る低い姿勢で駆け抜ける担ぎ手
担ぎ手の皆さんは汗でびっしょりになります
ムギッカラが燃えて短くなると新しいものに変えて火をつける
神輿は7周目に入るようですムギッカラを振り回しながら
鳳凰より更に前に出て神輿を誘導します
神輿を抱えての移動は腰に負担が掛かりそうです
輿堂前で引き返す
7往復目を終えると神輿は社殿へ向かい
旋回して正面を社殿へ向けると社殿へ押し寄せ
前方の轅を向拝の下へ入れ神輿を差し上げる
神輿を後退させ馬の上におろすと
青と白の幕で覆い御霊が神輿から本殿へ遷される


還御祭と直会

  おおやが終わると神輿から御霊が抜かれ、社殿内では還御の儀が執り行われる。神輿から提灯と轅を外して輿堂へしまうと、社殿前に茣蓙を敷いて直会が開かれる。

担ぎ手はぐったりです境内での火の管理は
地元の消防団が担当灰になるまで燃やしていく
神輿では青年会により提灯が外される
麦藁はなかなか燃え尽きません社殿では還御祭が執り行われる
青年会は応援団体をお見送りようやく火が弱まってきました
おおやが終わり観客は帰路に着きます
火が弱まると消防団はホースを出し
水を掛けて火を消していく
神輿では捩りを緩め横棒を外していく
社殿では還御の儀を終え宮総代が挨拶
輿堂の中を整理してから神輿を抱えて
社殿前から移動台車の上におろし
輿堂側へ寄せると轅を抜き取り
社殿側へ移動火の消えた境内を進み
社殿裏にしまいます社殿では戸締りを始める
台車に載せたまま神輿を輿堂へ納めると
下大槻青年会の会長が三地区の青年会を集めて挨拶
20時45分頃に下大槻宿矢名
南平の山車に乗り込みそろそろお別れの時間です
中央の宿矢名が最初に移動し
お宮を出発宿矢名地区へ帰って行きます
太鼓を打ち鳴らす下大槻の叩き手
続いて南平の山車が出発し南平地区へ戻っていく
下大槻の山車はお宮に残り最後の叩き納め
社殿前では茣蓙を敷き直会の準備が始まる
太鼓は21時丁度に終わり
締太鼓を枠から外し
大太鼓もロープを緩めて柱から外していく
ボルトを緩める締太鼓大太鼓は毛布で包みます
青年会の提灯を外し花の竹に掛けて行く
山車の照明を消して青年会は社殿前の
直会に参加風情があっていいですね
青年会会長の挨拶で乾杯
直会は21時40分頃に終わり青年会は帰路に付きます
下大槻そして南平・宿矢の皆様お疲れ様でした

  翌5日の月曜日には片付けが行われ、幟がおろされると「セイレイジマイ(祭礼終い)」と称し、「セイレイハジメ(祭礼始め)」と同様に境内で直会が開かれる。


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