四之宮しのみや

神社の紹介

  四之宮地区の夏祭りの神であり、疫神・農業神である「須佐之男命(すさのおのみこと)を祭祀する「八坂神社」が前鳥神社の境内にある。八坂神社は「天皇さん」とか「八坂さん」と呼ばれ、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には四ノ宮明神社の末社として「牛頭天王」とある。
  八坂神社は昔は北向観音のところにあったというが、昭和50年(1975年)代初頭に八坂神社は建て替えられ、新しく建った「神戸(ごうど)神社」に合祀されるようになった。

2007.10.20
神戸神社


例大祭

  昔の祭礼日は7月14日で、その5日前の7月9日から宵宮祭が始まり、9日にお仮屋(仮旅所)を作って14日まで神輿を出しておいた。その神輿を各地からお詣りに来て賑わっていたので、あべかわ餅が売られたという。神輿は前鳥神社の拝殿に奉安され、9日から14日の間は毎晩、神輿の守り役である氏子の堂番(どうばん)が付く。堂番は村の人が順番に勤め、正午まで、午後6時まで、夜と3交代で、昼間は2人ずつ、夜は3〜4人であった。八坂神社の祭りには各町内が年番制であたり、当番にあたっていることを「八坂番」ともいった。14日には神輿を担いで村の中を巡行するが、かつては八坂番にあたっている所が神輿を担いだという。
  現在の例祭日は7月の第2日曜日である。

太鼓

  



神輿

  八坂神社の神輿は明治23年(1890年)7月に大山の大工「手中明王太郎景元」によって建造された。神輿は前鳥神社の境内の八坂神社の社に安置されていたが、神戸神社が新しく建てられると、同じ時に神輿は新しい神輿舎に移った。昭和57年(1982年)7月に小田原市中村原の梅沢流御輿師により大修理が行われ、塗り直されて再び新しくなった。

●神輿の普請
  明治22年(1889年)3月に神輿普請の請負契約が結ばれ、神輿請負に至った経緯が『明王太郎日記』に記されている。内容は概ね次の通りであった。

「  ある日、四之宮の神輿世話人から明王太郎に神輿新造の話が持ち掛けられた。既に梅沢村大工と鎌倉大工にも、同じ神輿普請の話が持ち掛けられていた。3月10日に明王太郎が前鳥神社を訪れると、拝殿に世話人14〜15人が揃っていて、そこに古い神輿があった。古神輿を見分したのち、新造神輿の仕様を世話人一同と話し合った。
  その晩に、世話人代表の相原市郎兵衛宅にて、神社総代の上原重郎左衛門・相原勇次郎の4人で神輿談議し、酒盛りとなる。四之宮にはかつて明王太郎の造った前鳥神社神輿があり、話に熱が入ったのであった。
  2日後、世話人一同は大念寺に集まり、新造神輿の仕様書を検討し、明王太郎を交えて詰めの話をする。新神輿の寸法は古神輿より一寸ほど大きくすること、及び木地方請負代金一三〇円で話がまとまった。
  3月14日に世話人代表の相原市郎兵衛・新倉市兵衛と請負契約書を取りかわした。明王太郎は世話人に挨拶をして、前鳥神社及び大念寺の普請向きについて、百年来出入りしているように、神輿についても万事丹誠こめて造ると述べたのであった。  」

  その日、世話人は梅沢村大工および鎌倉大工に断りの遣いを送った。明治22年5月に契約どおり神輿の木地方・彫刻方が完成した。素木神輿の出来上がりである。このとき明王太郎は満49歳で、晩年ではあったが腕は円熟し、その後も前鳥神社の拝殿の建造をはじめ、腰掛神社の造営など大きな仕事を手がけている。長年の寺社建築で培った技術と確かな腕を使って、四之宮神輿の建造にあたったのである。
  同年5月に新たに塗師(ぬし)かたと錺金物の契約が結ばれ、塗師方代金が六十二円八十銭、及び錺金物代金が七十三円四十五銭で請け負われた。棟札によれば塗りが終わって錺金物が付き、最終的に神輿が完成したのは明治23年7月7日であった。その年の夏祭には新しい神輿が担がれ、その後神輿は長い歳月にわたって四之宮の氏子により担がれてきた。

●建造時の棟札
  神輿の真柱の上部に今も建造当時の棟札が付いており、次に棟札の銘文を見てみる。主文に「奉新造建八坂大神輿(おおかみこし)」とあり、古い神輿の修理ではなく新しい神輿の建造であることを示す。左手には「雨降山住棟梁手中明王太郎忌部景元」の名前が見える。
  棟札の裏面に総代や世話人の名前が並んでいて、世話人筆頭の相原文右衛門は請負契約時の世話人代表の相原市郎兵衛の子息であり、市郎兵衛は神輿の完成を待ちつつ長逝した。議員の新倉杢左衛門は幕末時に村の名主で、猪俣房太郎は明治29年(1896年)の前鳥神社拝殿造営の棟札に村長として名が載っている。同様に上原重郎左衛門が拝殿棟札に神社総代の筆頭として名があがっていることから、前鳥神社の世話役の重鎮であったことがわかる。

●新しい試み
  明治初期から中期にかけて明王太郎の神輿製作の技術はあまり変化はなかったが、明治22年の四之宮八坂神輿のときに、今までには見られなかった新しい試みを始めた。作風に変化が現れた。おそらく明王太郎にとって難事業であった大山寺本堂造営が明治17年(1884年)に完成し、余裕ができたからであろうか。それは、@丸柱の回転巻龍、A四足付獅子木鼻彫刻、B新しいモチーフの彫刻である。
  丸柱の回転巻龍は神輿の胴の4本の丸柱に巻龍の彫刻が付いたものであり、その彫物が丸柱を軸として手で押すと回転するようになっている。一般の神輿では丸柱と唐戸の間に小壁があって、普段はそこに彫物がはめてあるが、この神輿では小壁を取り外して丸柱の周囲に空間を作り、巻龍が柱を軸に回転できるように工夫した。巻龍は珍しい細工であり、明王太郎はこの細工を初めて四之宮八坂神輿に試みたのであった。
  頭貫木鼻は1本の柱につき2つ付いており、普通はその木鼻に獅子頭や象頭などの彫刻を付けるため、1本の柱に2つの獅子頭や象頭の彫刻が付くのが一般的である。ところがこの神輿では2つの木鼻を別々にせず、1つの彫刻が両木鼻に掛かるように1体に作った。その彫刻は頭から尾までの獅子の体全体が彫ってある四足付獅子の像であり、「四足付獅子木鼻」と呼ばれる。この方法は彫刻をする空間が2〜3倍広くなり、モチーフを自由に選ぶことができるという特徴がある。その結果として従来の木鼻彫刻とは異なる、全く新しい木鼻の彫刻を作り出すことができるようになった。
  四之宮の神輿には新しいモチーフの彫刻が見られ、露盤に飛熊の彫刻、組物間に十二支の彫刻など、これまでにはなかった題材を選んで彫っている。ことに露盤の4側面に彫ってある飛熊の彫刻は翼の付いた熊で、この飛熊彫刻は珍しくあまり見かけない。

●神輿請負仕様書
  請負契約に先立ち神輿の仕様書が大工により認(したた)められ、神輿世話人に提出された。四之宮では関係者が大勢して大念寺に集まり、その仕様書を念入りに調べて神輿発注の是非を検討した。結論は発注と決まり、そのときの仕様書がある。
  仕様書の冒頭には神輿の寸法が「箱台輪外法三尺八寸四分」と記されており、明王太郎の手控えに旧神輿の寸法が三尺七寸二分と記されているので、台輪寸法が一寸余り大きくなったことになる。神輿を造る上で大事なのは仕口(しぐち)で、これをおろそかにすると神輿はじきにがたついてくる。この仕様書は仕口や留め方を克明に書き記しており、例えば須弥(しゅみ)台輪の仕口は「須弥留車知(しゃち)二本打ち」と書き記し、頭貫や平台輪の仕口についてはそれぞれ「頭貫、丸柱へ腰蟻(こしあり)にて差入れ」、「平台輪、台輪留めに出来、下バ頭貫に入れる」などの表記が見られる。
  不思議なのは新しい試みである回転巻龍や四足付獅子木鼻の記述が、仕様書の中に見出せないことである。「戸脇 雲水龍 八ツ」と書かれているが、これは普通の戸脇(とわき)の雲水龍彫刻であり回転巻龍ではない。また、「木鼻 獅子頭 八ツ」の記述も四足付獅子木鼻とは異なる。おそらく請負契約を結んだあとに新しい試みを思い付き、実際に造る段階になってそれを実施したと思われる。



神輿渡御

  祭礼の当日になると、氏子は農作物などの供物を神前に捧げ五穀豊饒などを祈り、いよいよ神輿は氏子年番に担がれて宮を立つ。四之宮町内の各小字に神酒所が設けられ、神輿は囃子連をお供に途中から車で書く神酒所を巡行する。神酒所では神主が氏子中の健康と家内安全を祈願する。町内をくまなく神幸したあと、再び氏子が神輿を担ぎ宮入をする。


戻る(平塚市の祭礼)