高根たかね



神社の紹介

  上高根の「岩戸分(いわとわけ)神社」が字の氏神で、創立年代は不詳である。寛永9年(1632年)6月に社殿を改造し、嘉永4年(1851年)に修繕をしている。また明治6年(1873年)7月30日に村社に列せられた。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると高根村の鎮守は「岩分明神社」で、本地佛不動を安じ、「神明天王」を相殿とし、末社として「天神」・「浅間社」があった。
  祭神は「手力男命」であるが、神仏混淆時代に別当「格山龍福院」の支配に属し、祭神を「不動明王」に祀り換えたことは鐘の記事によって推測でき、その後、神仏分離により元の祭神に復したと言われている。上高根にあった龍福院は「荘厳寺」の隠居寺といったが、戦争のときに空襲で焼けた。また、龍福院には薬師堂があったが、乞食が放火して焼けてしまった。
  境内鐘楼の鐘は正徳3年(1713年)9月鋳造のものであったが、昭和18年(1943年)に戦争の為に供出し現在のものは代替品である。

岩戸分神社社号柱
鳥居燈籠
鐘楼
拝殿覆殿・幣殿
神社由緒地神社・大日如來
石祠石祠
境内

  高根は「上」と「下」に分かれている。



例大祭

  祭礼日は『風土記稿』によると旧暦の6月15日であった。その後は4月3日であったが、現在は4月第1日曜日である。

太鼓

  



神輿

  昔は神輿がなかった。



セイネン

  15歳から40歳までの部落に住む男子はセイネンに加入していた。上・下高根で一組だった。昔は「龍福院」の部屋を借りて月見をやった。25歳までは「青年団」に加わった。



社人

  高麗神社には社人が10人いて、大磯の高麗(こま)に5人と高根に5人であった。高麗は諸星姓、お茶の木にいる青木姓、高橋悦太郎家、大門の青木姓、もう1軒の青木姓であった。一方高根は木島姓(下高根)、勝宮姓、比企野修身家(上高根)、真壁潔家(上高根)、山下の比企野さたろう家であった。このように社人は高麗山のぐるりにあったそうである。
  徳川時代は「社人前」という地位で、耕作は多い家で5・6反、少ない家で3反は作っていて、この土地は無税であった。高麗神社の祭礼にお神輿を出すときには、国道までは社人が担いで普通の人達には触らせなかった。前に4人と後ろに2人、輿台を持つ人が2人いたが、このようにして神輿を扱ったのは大正末年までであった。
  社人は元旦に山頂に上がって奉仕し、三ヶ日は社人2人ずつがゴクミズ(御供水)を担いで登り、それでご飯を炊いて神様にお供えをする。箸は茅を折って作り、社人達もそのご飯を食べてから山を降りた。正月の5日には翌日の七草の為に山頂で薪をこしらえ、7日は「アケガラスの札」を持って行って参詣人に売った。アケガラスの札と呼ぶのは烏の鳴くまでに売るからだという。この日は村の人が「六根洗浄」を唱えながら上がってきた。
  2月の1・2日にも仕事があり、高麗で1軒と高根で1軒とで勤めた。14日は「山掃除」といい、山を上から下まで掃除する。15日は「ごぜんばん」で水とご飯を供えに登る。ご飯は山の上にある「御膳番の小屋」という小屋で炊いた。箸は茅で作り、ご飯と味噌汁を上げる。4月14日・18日は「観音様」の日で、17日に「神輿出し」で山頂まで男坂を担ぎ上げる。18日のお祭りは「小祭」で、7月18日が「大祭」になる。この日は高麗神社の見える範囲の家は「くさのはなだんご」を作った。


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