戸室とむろ

子神社

  「子神社」を天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』でみると当社は戸室村の鎮守で、石一顆を神体とし、末社に「山王社」・「牛頭天王社」・「稲荷社」があった。祭神は「大己貴命」である。別当は神社南側にあった安楽院であったが、明治初期に廃寺となった。戸室村にはこの他に村民持ちの「御岳社」と「第六天社」があった。
  本殿の棟札によると当社本殿は元文4年(1739年)に領主の旗本興津忠道(おきつただみち)が再建を命じ、大山の大工棟梁明王太郎(みょうおうたろう)が造立した。この完成に際して納められた略縁起には、古くからあった小社を慶長12年(1607年)に忠道の曽祖父である地頭興津内記忠能(ただよし)が田地を寄附し、神社を造営させた由緒が書かれている。その後は子孫によって度々修造が加えられた。
  古来「子之神社(ねのかみしゃ)」は現在地の下段にあったが、大正12年(1923年)の関東大震災により潰滅的大被害を受けた。復旧には西片高所の隣接地農地651m2を氏子の4名が、また、全73戸の寄付金や労力奉仕等により社殿と境内の模様替えが完成した。境内には「御嶽社」・「稲荷社」・「道祖神等」があり、崖下の湧水地には「水神社」が祀られている。

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子之神社
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鳥居戸室公民館
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狛犬狛犬
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拝殿本殿・幣殿
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御嶽社
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末社境内
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御輿殿

囃子

  囃子の山車は神輿と同じ順路で巡行する。



神輿

  子供神輿は12時に宮立ちし、町内を渡御したのち17時に宮入りする。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦10月15日であった。昔の大祭日は10月10日だったが、戦後は5月の節句と一緒になった。昭和50年頃から4月の第4土曜日に行うようになった。
  豊作・家内安全・無病息災を祈願し、今年も無事過ごせたたので氏子が神様に神楽や余興をあげてお礼をするのが本来の目的という。
  大祭前日には神前の飾り付け、舞台の設営、参道への提灯の飾り付け、鳥居への国旗掲揚などを行う。夕方には囃子の山車が町内を巡行する。関東大震災前までは幟立てを行った。
  大祭当日は10時から神事が行われ、本殿と境内の御嶽社、そして第六天社と水神社の祈願を行う。その後は子供神輿の御霊入れを行う。昔の余興は神楽や歌舞伎芝居(戦後数年)であったが、昭和30年頃から現在のような余興になった。露天は今も昔も、神社周辺の道路に出る。



戸室の歴史

  旧戸室村は厚木市域の中央部に位置し、村域は尼寺原台地東縁とその東に続く沖積平野にある。台地東縁の段丘崖が縦断しているが、概して平坦な土地が占めている。北東境を小鮎川が流れていたが、現在は改修されて旧河川敷は住宅団地になっている。段丘上の村域ほぼ中央を糟屋道が南北に縦断し、北境には西に向かう道(丹沢御林道か)があった。周辺は、東は妻田村・厚木村、南側は恩名村、西側は温水村、北側は林村に接している。
  中世資料では天文20年(1551年)の「道者売券写」の「とむろのかう」が所見で、永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「戸室」と記載されている。旧集落は段丘の縁辺部と崖下の沖積平野微高地にあり、集落東側の沖積平野は水田で、台地上は広く畑であった。『風土記稿』では小名として「上村」・「中村」・「下村」・「北ノ海戸」・「久保」を載せ、伝承調査では「カミ」・「ナカムラ」・「シモ」が確認されている。『風土記稿』によると幕末の戸数は41戸で、『皇国地誌』によると明治初期の戸数は50戸であった。
  近世の支配は、前期は旗本の2給で、のち一部は幕領となり、後期頃は旗本3氏の知行地であった。明治22年(1889年)に恩名村・温水村・長谷村・船子村・愛名村・愛甲村と合併して南毛利村大字戸室となり、昭和30年(1955年)の合併により厚木市大字戸室となる。昭和37年(1962年)に西側の台地上の一部は尼寺原工業団地と、これに隣接する緑ヶ丘住宅団地が造成され、昭和40年(1965年)に「緑ヶ丘」の住居表示が実施された。また、東側の平野部も厚木市中心部からの都市化の進行に伴って「水引」の住居表示が実施されている。明治38年に台地上に県立第三中学校(現厚木高校)が開校したが、近年はこの台地上は工業団地・住宅地として開発が進み耕地はほとんどなくなってきている。水田地帯も戸室団地の造成を始め、住宅団地が造成されている。


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