豊八幡神社例大祭とよはちまんじんじゃれいたいさい(簀子橋編)

  「稲荷社」と「天神社」があるが、祀ることは絶えている。

  簀子橋の集落は岡崎に近いが豊田本郷村の一部で、部落付き合いも元は西町の一部となっていたが、昭和42年(1967年)に西町から独立して新たに自治会を組織した(当時家数は約30軒)。この独立には西町から反対意見が出され、3年くらい掛かって実現した。簀子橋はもともと親村の西町とは離れていて、隣村の岡崎の矢崎や別名、北大縄との付き合いが強かった所であった。
  昔は野菜組合(共同出荷)、養蚕組合、大山講、伊勢講などを岡崎の家々と組んでおり、小学校も昭和2年(1927年)に豊田小の校区になったが、それ以前は岡崎小へ通っていた。簀子橋は明治の地籍図には6軒あり、それが戦後3軒になってしまった。昭和50年(1975年)頃に部落内の岡本氏が自分の田を分譲したのが家の増える始まりで、昭和55年(1980年)には43件となった。


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