中野なかの

中野神社

 「中野神社」は旧中野村の鎮守で、旧称は「諏訪社」である。祭神は開拓殖産の神である御穂須々美命(みほすすみのみこと)、農業の神である豊宇気比売命(とようけひめのみこと)、機業、織物の神である𣑥幡千々姫命(たくはちぢひめのみこと)の三柱が主神として祀られている。境内面積は2,178㎡で、森戸地区の北面傾斜地を切り開いた地に位置し、老杉に囲まれている。由緒としては承和二乙卯年(835年)7月の勧請とあり、納められている棟札は下記の3つとなる。

・奉再建諏訪大明神一宇造立郷内安全之処 元亀二年(1571年)末天九月廿八日
・奉遷宮諏訪大明神一宇村中如意安全之処 明和三丙戌天(1766年)十一月十九日
・奉叙位中野神社正一位諏訪大明神尊爵 進退別当真蔵院 立合別当実相院 文久二壬戌年(1862年)

 文政5年(1822年)に火災により古文書等が焼失し、江戸時代に諏訪大明神として二石四斗が除地されている。三つ目の棟札にある神位正一位は白川資訓王により免許され、文久2年(1862年)より中野神社となった。文化10年(1812年)の文書に「諏訪明神 当村中の惣鎮守にて、祭礼毎年七月湯花神事候 天台修験真蔵院」とあり、相川家文書の明治4年(1871年)の中野神社明細帳に「末社、天照大神、八坂大神、厳島神社、御霊社、天神社、稲荷社」とあり、これらは明治42年に合祀されたと思われる。昭和27年12月22日に宗教法人の神社として登記される。
 扁額に正一位諏訪大明神と刻まれた木製の両部鳥居を潜り、十五段の石段を登ると阿形・吽形の狛犬が左右にある。右側に社務所と神楽殿、左側に神輿安置所、その後ろに庚申塔(年代不詳)、道祖神(明治30年(1897年)酉一月吉日)、諏訪大明神塔2基(寛政十一巳末年(1799年))がある。さらに石段を登ると左右に石灯籠があり、正面に北面して社殿が鎮座している。この平坦地の周りは奉納者名の刻まれた石柱が垣根状に並んでいる。右側に庚申塔(寛保二壬戌(1742年)天十一以下)、手水鉢、御大典記念塔(昭和三年(1928年)十一月十日)、長田神社と刻まれた塔(文久二年(1862年)歳次壬戌秋八月望日当村長田氏族中)が建立されている。さらに羽黒大権現の石灯籠があり、その奥に右から「天神社」「日神社」「御嶽社」が並んで鎮座している。
 左側に金毘羅大権現の石灯籠があり、その奥に「稲荷社」「八幡神社」が鎮座している。一段下がった東側に湧水地がある。大きな池となって、その中に島がつくられ、「厳島神社(祭神弁才天)」が鎮座している。東側の参道沿いにご神木の欅の大木がある。

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鳥井中野神社
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鳥居手水舎
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社号柱掲示板
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狛犬(吽)狛犬(阿)
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提灯掛おみくじ掛け
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社務所神楽殿
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石階段燈籠
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社殿幣殿・覆殿
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燈籠・石碑八幡神社
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稲荷社
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燈籠八坂神社
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おみくじ掛け石碑群
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相川績壽像境内
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厳島神社

 本殿は欅造、土台、柱、その他の総浮彫、漆塗りの雄大なものであり、拝殿正面上に竜、獅子、鳳凰の彫刻がある。明治44年(1911年)10月に拝殿、向拝殿、神楽殿の改築を行い、昭和45年(1970年)7月に社殿屋根を葺きかえる。以下に建造物を記載する。

本殿 権現造杮葺(こけらぶき) 2.7㎡
拝殿 入母屋造鉄板葺 57.8㎡
弊殿 鉄板葺 19.8㎡
覆殿 鉄板葺 19.8㎡
両部鳥居 木造 鳥居の扁額に正一位諏訪大明神とある。年代は不明。
鳥居 木造 鳥居の扁額に中野神社昭和十三年(1938年)七月一日奉納者相川績とある。
社務所 神楽殿 79.2㎡
神輿安置所所
狛犬 石造一対 昭和五年(1930年)七月吉日納主佐藤友作
手水鉢 文化三丙寅年(1806年)七月大吉佐藤重良兵衛
灯籠 石造一対 昭和六年(1931年)九月十五日相川績
   石造一基 金毘羅大権現文化五戌辰(1808年)六月日
   石造一基 羽黒山大権現慶応二丙寅(1866年)八月日

○中野神社本殿
 棟札によって文久2年(1862年)の建立が明らかで、幕末期の華やかな社殿である。彫物を多用し、軸部などの赤、彫物の極彩色、組物などの素木仕上げを組み合わせ、変化に富んだ豊かな表情を見せる。柱間に比してタチが高く、また軒唐破風も強く立ち上がる。
 桁行167cm(5.5尺)のやや大ぶりの一間社入母屋造社殿で、屋根は鉄板葺、軒唐破風が付く。向拝柱および水引虹梁は紗綾形(さやがた)の地紋彫に朱を施し、水引虹梁の根肘木(ねひじき)は水に鯉を篭彫にする。向拝の木鼻は正面獅子、側面獏である。向拝柱上は出三斗連三斗で、更に通肘木を二段に重ねる。唐破風の菖蒲桁は水引虹梁に置かれた組物の上部で受け、中備は龍、兎毛通は鳳凰の彫物で、唐破風の妻桁(つまげた)上には力神の彫物を置く。組物の拳鼻も龍である。打越垂木二軒で、繁虹梁はなく、計四組の牡丹の篭彫の手狭を用いる。黒漆塗りの幣軸と板唐戸に八双金具を打ち、小脇板には龍の透彫を入れる。母屋の組物は二本の禅宗様尾垂木を持つ三手先で、拳鼻は鳥の彫物である。中備は正面に三組、側面に二組の詰組を置く。木鼻はいずれも獅子である。亀腹状の切石に土台を廻し、廻縁は三手先拳鼻付きの腰組によって支え、擬宝珠高欄を廻す。柱の下部には力神を添わせる。彫物や絵様はのびやかで切れがよく、質の高い社殿である。

○八坂神社社殿
 中野神社本殿の右後方に位置する。一間社入母屋造で、軒唐破風が付く。現状は鉄板葺である。現在は素木だがもと朱塗で、禅宗様の組物を用いる。
 桁行100cm(3.3尺)の中規模社殿で、覆殿はない。四周に廻縁をめぐらす。向拝柱上部には拳鼻付きの出三斗を置き、上部の通肘木を受ける。中備は中央に蟇股、その両側に三斗を置く。詰組のような構成である。通肘木上には斗を並べ桁を受ける。この桁の中央に笈形付きの大瓶束を乗せ、軒唐破風の棟を受けるという珍しい構成である。向拝の木鼻は正面が獅子、側面が獏である。繋虹梁はなく、向拝柱上部と詰組の位置に計四個の絵様手狭を置く。軒は打越垂木二軒とする。母屋は台輪をめぐらし、禅宗様尾垂木(1本)を持つ二手先で、平側には三組の詰組を置く。絵様木鼻である。正面の扉は板唐戸である。廻縁には逆蓮柱を持つ高欄をめぐらす。脇障子は構えだけで、板は嵌められていない。亀腹状の基檀を持ち、腰組によって廻縁を受ける。腰組は縁下にめぐらした長押上に三手先の詰物である。以上のように、当社殿は津久井地方にみられる禅宗様を採り入れた社殿だが、平行垂木や板唐戸、和様の肘木など、和様を基本にして禅宗様の組物を採用した形式である。

○稲荷社社殿
 中野神社本殿の右後方に八坂神社と並んで鎮座する。一間社流造で桁行は94cm(3.1尺)。中野神社と同じく禅宗様の組物を持つ。現状は鉄板葺で素木造だが、もとは柿葺、彩色仕上げであったお思われる。二軒繋垂木で、向拝の木鼻は正面が獅子、側面が獏で、向拝柱上の組物は出三斗の上に長肘木と斗を重ねる。これによって広くあいた水引虹梁と桁の間の中備にはやや大きめの蟇股を乗せる。脚間を彫り抜かない板蟇股で、竹の浮彫を施す。繋虹梁はなく、牡丹の花葉を厚く彫りだした手狭を用いる。
 母屋の組物は禅宗様尾垂木一本を組み込んだ二手先で、詰組は桁行、梁行とも一組である。木鼻は絵様木鼻である。妻飾は二重虹梁大瓶束笈形付きで、正面扉口は板唐戸とする。拝むの懸魚は鰭付きの商懸魚である。石製基壇を乗せて土台を廻し、三手先の腰組(詰組)によって廻縁を支える。廻縁には和様の擬宝珠高欄をめぐらす。脇障子は枠組みだけで障子板はない。この社殿も八坂神社社殿と同じように全体の構成は和様を基本にしながら、組物だけに禅宗様を採り入れている。建立年時を示す資料はないが、細部の様式などから十八世紀後半の建築と推測される。


合祀社

 御嶽社に納められている棟札に「享保、宝暦、寛政年代の御嶽権現に関するもの。川和の市の安全と繁営を祈願した市守神社明治十二年(1879年)七月。奉再建日枝神社一宇明治二十一年(1879年)。奉改遷正一位長田神社明治七戌(1874年)十月一日」が蔵されている。津久井湖建設により水没した不津倉地区は長田姓と佐藤姓があり、長田姓は長田神社(祭神大物忌命/おおものいみのみこと)、佐藤姓は御嶽神社を祀っていたが、中野神社に合祀されたことや、川和の市が開かれた年代も証明される。
 相川家文書の明治4年(1871年)中野神社明細帳に「境外末社として不津倉長田神社 百姓持地之内、字不津倉御嶽神社 百姓持地之内、字上町日枝大社(山王)百姓持地之内、字森戸稲荷明神 百姓持地之内、境外別社として八幡大神 社地長二十間、横四十間余御除地九斗七升、宝寿庵にて進退致し来候処御一新に付離社仕候」とある。これらの神社が中野神社に合祀されたものと考えられる。

囃子

 山車は森戸、上町、中町、奈良井、大沢の各地区に各1台あり、各町内を巡行している。


神輿

 神輿は大人用1基、子供用は森戸、上町、中町、大沢、川板に各1基、奈良井に2基の計7基ある。大人用の宮神輿は浅草田原町岡田屋で昭和29年(1954年)に製作された。


祭礼の歴史

 明治3年(1870年)の文書に毎年7月27日に、あやつり人形、鹿島踊、湯花神事を行うとある。現在の例祭日は7月最終土・日曜日または7月27日に最も近い土・日曜日とし、平成28年(2016年)のように土・日が30日・31日に当たる年には1週間前の23・24日になる。また、本来の例祭日である28日の午前10時からは毎年、氏子総代と本部役員が参列して神事が行われる。この時に自治会関係者は出ないが、その年と次年の当番の自治会長は参列する。


氏子地区

 中野地区には6自治会があり、中野神社の祭礼はこの6自治会が参加して行われる。祭礼の役職として氏子総代や本部(総行司・行司・会計・総運行責任者・参与)があり、このほかに各自治会の自治会長・祭典委員長・運行(山車)責任者などが祭りに当たる。


中野地区の6自治会
自治会囃子子供神輿備考
1森戸(もりど)森戸囃子1
2仲町(なかちょう)川和囃子1
3上町(かみちょう)築井囃子1
4奈良井(ならい)稲城囃子2
5川坂(かわさか)川坂囃子1
6大沢(おおさわ)大澤囃子1

例大祭

 土曜日は午前中に中野神社で神幸祭が行われ、午後から各自治会の子供神輿と共に各地区を回る。大神輿発輿祭で社殿から御神体を神輿に遷し、お守りの頒布式(宮司から氏子総代、祭典本部総行司に渡す。祭りに関わる者が首に掛ける)の後に14時に宮出しとなる。各自治会ごとに色違いの半纏を着ており、茶色の半纏を着た氏子が神輿を担ぐ。
 神輿のお浜降りは渡御中の午後6時40分頃に水が用意され、総行司が担ぎ棒四方と最後に上から水を撒き浜降神事が行われる。最後の宮入りの際には神様に一番近い前列中央の担ぎ棒の取り合いとなり、神輿の宮入りは9時過ぎで、境内でしばらく揉んだ後に木遣りと三本締めがあり、御神体を社殿に戻す。宮出しの際とお浜降りから宮入れまでの間は高張提灯が神輿に付く。神輿が各町内の本部に来ると、本部に置かれた山車が出迎えと送りの囃子を奏でる。夜は歌謡ショーが行われる。
 日曜日の午後には山車の巡行を行う。各町内の山車の集合場所は森戸地区と大沢地区の所で隔年で交代し、山車の順路も反対になる。集合場所での神事の後、山車に付ける神籬が渡され、6基の山車による囃子の叩き合いとなる。その後、各自治会本部を6基の山車が巡るが、昼間の叩き合いは平成28年(2016年)は出発前の森戸と川坂・大沢地区の三か所で行われた。そして夕方に大沢で叩き合いを行ったあと、一度解散して各町内に戻り、18時に再度集合して9時まで各所で叩き合いをした。夜は昼のコースと異なり、叩き合いの場所も増える。この時、仲町や上町での叩き合いでは、仲町の山車が前に舞台や梯子を出して狐や獅子が山車から出て踊る”せり出し”をする。


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