中新田
諏訪神社
「諏訪神社」は中新田の鎮守で鎮座地は中新田字西屋敷、祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)と八坂比売命(やさかひめのみこと)である。創建時期は不明だが、『社寺孝』によれば明応年間(1492〜1500年)に海老名の支配者大嶋豊後守正時が造営したとある。末社には村の守護や七難則滅、七福則主を願った「疱瘡神(ほうそうのかみ)」があった。
明治43年(1910年)に中神殿の無各社であった日枝神社と太神宮を村社の諏訪社へ合併する許可が出ていたが、未だ届が出ていないとの督促が翌明治44年(1911年)9月に郡役所から出されている。
| 八坂神社 | 鳥居 |
祭礼の歴史
例祭日は7月27日
家康と主水屋敷
天正18年(1590年)に小田原北条が滅びると、徳川家康は秀吉から関八州を与えられた。家康はそれまで駿府城(静岡)に居たが、この年の8月に江戸城に入った。そして家臣団も江戸に移転させ、それぞれに土地を分与した。この時、高木主水助清秀という老臣は海老名郷と呼ばれる上郷・河原口・中新田・社家・中野の五か村、石高にして五千石の地を給わった。
家康は士気を鼓舞するためと、民情視察のために中原御殿(現平塚市)を足だまりとして、しばしば鷹狩りを催したが、その都度、中新田に隠居していた清秀の屋敷を訪れた。そして狩りの獲物や時服といってその時期に相応する服を清秀に与え、かつての功に報いたのであった。家康が何回も中新田を訪れた史実と、主水屋敷という地名は後世に伝えたいものである。
囃子
中新田の囃子は「下町囃子系」である。「中新田はやし連」
神輿
中新田の歴史
中新田(なかしんでん)は海老名市の中西部に位置し、相模川左岸の低地で対岸は厚木市に接している。かつては海老名郷五か村の一つで、東は大谷、南東は今里、南は社家、北は河原口の各地区に隣接する。南流する相模川は古くからその沿岸に自然堤防をつくり、後背湿地は豊かな水田地帯となっている。
新田とは江戸時代に本田に対して新しく開発した耕地を指すことから、中新田とは海老名上郷と海老名下郷の間に新しく開拓された田を持つ村の意ということか。鎮守諏訪神社の棟札に「海老名郷大縄崎村」とあり、江戸初期には大縄崎村と称したようである。古代開拓したといわれる海老名耕地の条里制の名残り地名に一大縄〜五大縄があり、当地の旧名はきちんと区画されたその先に位置する新田というのがこの地名の起源であろう。
相模川流域の自然堤防上の人跡は早くから認められ、無文の小破片や土師器片などがわずかながら散布し、特に中・近世の陶磁器の出土が確認されている。後背湿地内の島状の自然堤防では中世の板碑が集中していること、その地名が字西屋敷・東屋敷というなど、中世あるいはそれ以前からの関わりを示すものである。『風土記稿』に「旧家彦三郎」の伝承を記す。当村は天正18年から幕末まで一給地、最初の旗本高木氏が鎮守諏訪社を造立し、別当東興寺の開山は弘治3年(1557年)卒した紋達という。高木氏天封の後に、家来6人が当村に土着して六軒百姓と称した。
耕地面積は畑地より水田が多く、相模川流路の関係からか河原地が多く、江戸期を通じ流作場(河川敷)の検地がしばしば行われた。村の中央を南北に八王子道が通じ、大谷から大山道が西へ向かい厚木の渡しへと通じている。厚木の渡しは厚木・河原口・当村の共有であった。社寺は『風土記稿』に諏訪社、東興寺、海源寺、増全寺などが載る。
さつき町の歴史
さつき町(ちょう)は海老名市の中央部西側にあたり、JR相模線と小田急小田原線の交差点から北へ台形状に広がる地域である。河原口地域の自然堤防が後背湿地にかかる低地に位置する。古い条里の遺構の地名をもつ三〜五大縄の水田の中央部に造成された区域で、中央を南北に用水路が貫く。昭和46〜48年(1971〜73年)にかけて東急不動産が開発した団地で、市の花である「さつき」を町名とした。
戻る(海老名市の祭礼)