中新田なかしんでん

諏訪神社

 「諏訪神社」は中新田の鎮守で鎮座地は中新田字西屋敷、祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)と八坂比売命(やさかひめのみこと)である。『鷹倉社寺孝』によれば「諏訪明神」は当村の鎮守で社地は1,122坪とあり、年月は不詳であるが永享年中(1429〜1444年)には既に鎮座していたと古志見られたとある。また、明応年間(1492〜1500年)に大守の大嶋豊後守正時公が当社を造営したとが東興寺所蔵の棟札に見られ、元和年中(1615〜1624年)に地頭高木主水正当神殿造立の棟札があると記載している。
 社殿の再建および修理については明暦元年(1655年)、貞享3年(1686年)、享保13年(1728年)の棟札が残り、慶応2年(1866年)の銘が向拝殿の装飾彫刻の裏にある。
 天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「諏訪社」が村の鎮守で、祭祀は9月28日、高木主水正正次が造立した棟札があり、その文に「奉造立阿波諏訪大明神、當村守護所、大旦那本願、地頭高木主水正、別當東興寺、現佳宗虎、元和六年(1620年)」とある。末社には「疱瘡神」があり、鐘楼の鐘は元禄15年(1702年)に地頭秋元小左衛門成朝が寄進した。別当は曹洞宗の河原口村宗珪寺末「東興寺」で諏訪山と号し、本尊は釈迦、開山は眞良紋達であった。
 明治元年(1868年)の神仏分離令により諏訪神社は東興寺と分離し、明治6年(1873年)11月に村社に列せられた。明治15年(1882年)に社殿を再建し、明治42年(1909年)にその設備を完成させた。明治43年(1910年)に中神殿の無各社であった日枝神社と太神宮を村社の諏訪社へ合併する許可が出ていたが、未だ届が出ていないとの督促が翌明治44年(1911年)9月に郡役所から出されている。大正4年(1915年)9月に神饌幣帛料供進社に指定され、大正12年(1923年)の関東大震災により社殿をはじめ悉く倒壊したが、翌年には社殿と鳥居が再建された。
 第二次世界大戦後は宗教法人となって神社本庁に所属し、境内に祀られていた末社の「疱瘡神(ほうそうのかみ)」は、終戦後の小学校の分校児童の増加により、境内地まで仮の小学校舎(啓蒙小学校)が建設される状態になったため、約100m離れた南町稲荷社付近に移転した。昭和28年(1593年)7月に境内を西側に拡張して神楽殿を建築し、平成8年(1996年)に社務所の再建、平成16年(2004年)に社殿の修理および幟竿と狛犬の整備、平成17年(2005年)に神楽殿の再建など、境内の整備が行われた。

諏訪神社社号柱(諏訪神社)
関東大震災で倒壊の鳥居基礎鳥居
燈籠燈籠
幟竿手水舎
社務所
掲示板諏訪神社由緒
狛犬(吽)狛犬(阿)
拝殿覆殿(本殿)・幣殿
旧鳥居など旧狛犬
倉庫境内
境内稲荷

その他の神社

●伊勢宮大神宮
 天照大神を祭神とし、延宝6年(1678年)8月の創建以来、諏訪神社への一時の合祀を除いて、中新田の伊勢宮下に鎮座する。

伊勢宮大神宮鳥居
幟支柱物置
拝殿幣殿・覆殿(本殿)
倉庫境内

●川寿稲荷
 倉稲魂(うかのみたまのかみ)を祭神とし、文政8年(1825年)に京都の伏見稲荷神社の神霊を勧請し、中新田の河原宿のとうかの森に鎮座する。川は河原、寿は長寿に由来する。

川寿稲荷鳥居
石造物石碑
社殿神額(川寿稲荷大明神)
物置境内

●山王日枝社・稲荷社
 日枝神社は大山咋命(おおやまくいのみこと)を祭神とし、宝永5年(1708年)の創建以来、諏訪神社への一時の合祀を除いて、稲荷社と共に中新田の山王原に鎮座する。

囃子

 中新田の囃子は「下町囃子系」で、祭り囃子がなかったので、昭和54年(1979年)に保存会が発足し、その後、神輿の有志の会が発足するとともに国分囃子保存会から指導を受け現在に至る。現在は「中新田はやし連」により伝承され、曲目は「岡崎」、「屋台(屋庭)のぶっつけ」、「仕丁目」、「鎌倉」、「大切」があり、付属芸能として獅子舞とひょっとこがある。演奏中に叩き方をずらし「音を絡める」ところが聴きどころである。諏訪神社の例大祭や市民まつり、自治会の行事や福祉施設への慰問などの活動を行っている。


神輿

 

神輿殿

祭礼の歴史

 例祭日は7月27日


中新田の歴史

 中新田(なかしんでん)は海老名市の中西部に位置し、相模川左岸の低地で対岸は厚木市に接している。かつては海老名郷五か村の一つで、東は大谷、南東は今里、南は社家、北は河原口の各地区に隣接する。南流する相模川は古くからその沿岸に自然堤防をつくり、後背湿地は豊かな水田地帯となっている。
 新田とは江戸時代に本田に対して新しく開発した耕地を指すことから、中新田とは海老名上郷と海老名下郷の間に新しく開拓された田を持つ村の意ということか。鎮守諏訪神社の棟札に「海老名郷大縄崎村」とあり、江戸初期には大縄崎村と称したようである。古代開拓したといわれる海老名耕地の条里制の名残り地名に一大縄〜五大縄があり、当地の旧名はきちんと区画されたその先に位置する新田というのがこの地名の起源であろう。
 相模川流域の自然堤防上の人跡は早くから認められ、無文の小破片や土師器片などがわずかながら散布し、特に中・近世の陶磁器の出土が確認されている。後背湿地内の島状の自然堤防では中世の板碑が集中していること、その地名が字西屋敷・東屋敷というなど、中世あるいはそれ以前からの関わりを示すものである。『風土記稿』に「旧家彦三郎」の伝承を記す。当村は天正18年から幕末まで一給地、最初の旗本高木氏が鎮守諏訪社を造立し、別当東興寺の開山は弘治3年(1557年)卒した紋達という。高木氏天封の後に、家来6人が当村に土着して六軒百姓と称した。
 耕地面積は畑地より水田が多く、相模川流路の関係からか河原地が多く、江戸期を通じ流作場(河川敷)の検地がしばしば行われた。村の中央を南北に八王子道が通じ、大谷から大山道が西へ向かい厚木の渡しへと通じている。厚木の渡しは厚木・河原口・当村の共有であった。社寺は『風土記稿』に諏訪社、東興寺、海源寺、増全寺などが載る。


さつき町の歴史

 さつき町(ちょう)は海老名市の中央部西側にあたり、JR相模線と小田急小田原線の交差点から北へ台形状に広がる地域である。河原口地域の自然堤防が後背湿地にかかる低地に位置する。古い条里の遺構の地名をもつ三〜五大縄の水田の中央部に造成された区域で、中央を南北に用水路が貫く。昭和46〜48年(1971〜73年)にかけて東急不動産が開発した団地で、市の花である「さつき」を町名とした。


家康と主水屋敷

 天正18年(1590年)に小田原北条が滅びると、徳川家康は秀吉から関八州を与えられた。家康はそれまで駿府城(静岡)に居たが、この年の8月に江戸城に入った。そして家臣団も江戸に移転させ、それぞれに土地を分与した。この時、高木主水助清秀という老臣は海老名郷と呼ばれる上郷・河原口・中新田・社家・中野の五か村、石高にして五千石の地を給わった。
 家康は士気を鼓舞するためと、民情視察のために中原御殿(現平塚市)を足だまりとして、しばしば鷹狩りを催したが、その都度、中新田に隠居していた清秀の屋敷を訪れた。そして狩りの獲物や時服といってその時期に相応する服を清秀に与え、かつての功に報いたのであった。家康が何回も中新田を訪れた史実と、主水屋敷という地名は後世に伝えたいものである。


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