大谷おおや

八幡宮

 「大谷八幡宮」の鎮座地は大谷字坊原で、『神社調査報告書』によれば、祭神は延宝元,2年(1673,74年)の頃に誉田別命(ほんだわけのみこと)に改められた。また、『社寺考』には創建は弘安5年(1282年)とある。別当寺は元文2年(1737年)以降は福寿院であった。『風土記稿』では本地仏に阿弥陀如来を祀り、境内には元禄7年(1694年)鋳造の鐘があったとされる。境内社として「第六天」、「稲荷社」が祀られている。
 社寺は『風土記稿』に神明社、福寿院、妙常寺、妙元寺などが載る。明治44年(1911年)8月に三峰神社を大谷の神明社末社稲荷神社に合併する願いが出され、9月に認可された。

八坂神社鳥居

神明社

 「神明社」は上大谷村の鎮守で、鎮在地は大谷字市場である。祭神は大日如来(天照大神)で、『風土記稿』によれば創建は大永8年(1528年)とある。また、『社寺孝』によると本地仏銅像の大日如来像が祀られていた。別当時は隣接する福寿院で、慶安2年(1649年)に社領地八石について年貢や課役が免除される「朱印地」とされた。境内社には「三峯社」・「須賀神社」・「稲荷社」・「住吉神社」・「東照宮」が祀られている。
 例祭日は元は4月1日であったが、現在は4月29日に近い日曜日となっている。


祭礼の歴史

 例祭は10月8日に近い日曜日。


大谷歌舞伎

 「大谷歌舞伎」は素人歌舞伎を継承するもので、昭和50年(1975年)3月19日に海老名市の重要無形文化財に指定されている。大谷芸能保存会は明治26年に市川又太郎氏を師匠として結成され、歌舞伎連、はやし連、舞踊連から成る。結成後に保存会は何度が中断したが、昭和23年(1948年)秋に青年団有志が集まり、昔から当地で盛んで有った地芝居(素人歌舞伎)をすることで意見がまとまり、柏ケ谷の中村時治氏を師匠に迎えて再び稽古に入った。安達原三段目・太功記十段目、寺子屋、熊谷陣屋などの大きな芸題をあげ、稽古を重ねたのち、昭和24年(1949年)3月10日に大谷八幡社の舞台で稽古仕舞を上演し、喝采を浴びた。
 その後、舞台の回数を重ね、昭和30年(1955年)には厚木の市川芳子氏を師匠に、昭和47年(1972年)には市川柿之助氏を師匠として、忠臣蔵、弁慶上使、扇屋熊谷などを芸題として稽古を続け、同年4月1日の祭典で上演して大好評を受けた。昭和56年(1981年)からは下今泉の蛭間定一氏を師匠とし、数々の舞台を重ねている。


「鍛冶返」の伝承

 相州伝を完成した鎌倉時代の刀匠岡崎五郎正宗の門下には、貞宗・村正ら正門十哲と呼ばれる名工がいた。刀を鍛える工程で最も神経を集中するのは焼き入れで、相州伝の秘法中の秘法とするところであった。十哲中の門弟某はある時、師の許しを受けずにこの秘法を盗み取ってしまった。これを素早く察知した正宗は怒りのあまり、即座にその弟子の片腕を斬り落として破門を申し渡した。それからは「てんぼ正宗」とさげすまれ、世間からは冷たい眼で見られるようになり、鎌倉にもいたたまれず、永年住み慣れた鎌倉を後に流浪の旅に出たのであった。
 そして相模の村々を巡り歩いているうちに、たまたまこの地の水質の良いのに心をひかれてここを永住の地と決め、細々ながら鍛冶屋で糊口をしのいでいたのである。後に正宗から前科を許すとの知らせを受けると、刀一振りずつを近隣の人々に贈って感謝の意を表し、再び師の下に帰って行った。この地には「鍔はてんぼの片手打ち」という言葉や、鍛冶屋特有の「金クソ」を拾って所有している人もいる。

囃子

 大谷の囃子は「新囃子系」で、明治時代に行われていたという言い伝えがある。「大谷はやし連」


神輿

 


大谷の歴史

 大谷(おおや)は海老名市の中央東部に位置し、東は早川・吉岡(綾瀬市)に、西は今里・中新田・河原口に、南は杉久保・今里、北は国分に隣接する。南北に延びる座間丘陵の南端にあたり、標高約5mの台地が連なる。台地の東側は目久尻川を見下ろす急崖となり、丘陵を頂点として西側には階段状の平坦面があり、その先は海老名耕地の水田面が広がっている。
 丘陵上は古代から中世にかけてのこの地域の要地であり、今に継がれる「浜田」の地名は古代東海道の浜田駅との関連を想起させるものである。大谷はこの地の東部の台地部〜やや高みの平坦部〜海老名耕地へと開く「大きな谷」ということに由来する。大谷向原・真鯨の遺跡から出土した「高坐官」「大宅」の9世紀中頃とみられる墨書土器中の「大宅」が「大谷」に繋がるとの推測も注目されるところである。『風土記稿』には大永2年(1522年)の大谷神明社の棟札に「渋谷庄大谷郷」とあるが、『所領役帳』には「東郷大屋郷」と記載されている。
 南北に延びる座間丘陵の台地上は古代の国分寺や、それ以前からの遺跡など、先土器・縄文から近世の遺構が各期にわたって検出されている。特に「浜田」は『延喜式』の「相模国駅馬・・・浜田各十二疋」の記載に比定され、古代東海道の幹道にある駅家の地名がそのまま現在に生きていると考えられるのである。台地上の出土異物により13世紀中〜15世紀の村落、居館跡など中世の姿を推測することができる。
 小田原北条氏の時代は「御家中衆 松井法眼」の管轄、天正18年(1590)に徳川入国以来は幕領となり、後一給支配地、宝永7年(1710年)より二給所領地、正徳元年(1711年)に二つの旗本領幕領の三給地となる。旗本領を上大谷、幕領を下大谷と称し、西側の段丘を降りた低地には鳩廻り・流・六ツ沼など深田の地名が続くが、田地より畑地のやや多い地域である。東側の台地上はかつての雑木山などが造成され、昭和49年(1974年)には住宅地国分寺台一〜五丁目となり、昭和50年(1975年)には浜田町が起立された。


浜田町の歴史

 浜田町(はまだちょう)は海老名市の中部東寄り、座間丘陵の南端台地上の小地域である。東は昭和37年(1962年)より造成された国分台一〜三丁目、西と南は大谷、北は勝瀬・国分南三丁目に隣接する。座間丘陵の通称大谷峰との間の低地を挟んで立地する。この地の北側は三塚、太鼓塚、縄文時代の墓壙、奈良〜平安時代の竪穴住居跡、鎌倉〜室町の屋敷跡など、重層した遺構群の地区であり、中央低地を挟んで集落をつくるの農営地域である。浜田町の名称の由来については、「ハマ」は水辺、海岸の意味と共に、かぎり、はて、せまる、の意味があり、この地の地形をあらわしているかは不詳であるが、延喜式兵部省に相模国の駅家として記載されて以来、現在まで消滅することなく生きてきた地名として重みがある。
 この台地上の地は古東海道の相模国駅家との関連、先土器から縄文時代の遺跡では土壙墓と出土品、奈良〜平安時代ではその集落の変遷と構成、中世建築遺跡郡にみる、在地富農層以上の複数構成の建物と出土遺物等々、古代から近世にいたる遺跡の良好な資料の提供など、その歴史的重要性は計り知れない。人々の生活の場が低地へ移るが、15世紀中葉には妙常寺(法華宗)が創建され、江戸中期大鐘が造られ現在に続いている。
 昭和53〜55年(1978〜1980年)の3年間にわたり街区の開発が、大谷地域の字上浜田と上打越地区を中心に行われた。組合施行によって四〇八区造成、同55年(1980年)に市住居表示整備事業実施により、浜田町となった。


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