東富岡ひがしとみおか

八幡神社

  「八幡神社」は東富岡の鎮守で、祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)を祀る。創建は建久2年(1191年)に源頼朝によると伝えられ、応安5年(1372年)に源義満が再興、永正17年(1520年)に北条氏綱が修造、弘治2年(1556年)に北条の家臣神保宮内修理。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によれば「八幡宮」と称し、天正19年(1591年)に社領として二石の朱印状が与えられた。八幡宮は愛甲郡三田村清源院の末寺「金鳳山龍散寺(曹洞宗)」持ちで、天正19年に寺領として三石の朱印状が与えられている。当寺はもとは了珊寺とも記し、弘治3年(1557年)の起立とし、開基を海珍了珊庵主と号した神保宮内輝広とする。神保氏は戦国時代に小田原北条氏に粟窪村の領主に名がみえ、その一族と考えられている。
  鎮守である八幡宮のほかには「御嶽社」・「天満宮」・「稲荷合社」・「天神社」なども祀られ、寺には修験で伊勢原村大覚院霞下の「大乗院」があった。また、「竹林寺」・「観音堂」・「十王堂」などの旧蹟や、由来は未詳だが塚が6ヵ所も存在していた。

鳥居手水舎
拝殿本殿
忠魂碑
神楽殿社務所
石碑境内


例大祭

  本祭の祭日は『風土記稿』によると旧暦の9月14日で、明治20年(1887年)の『下糟屋村外六ケ村地誌』によると4月15日になっている。ヨミヤに幟立てをして、若い衆は神社に泊まり込んでいた。その後は4月7日となり、現在は4月第1日曜日?。



青年会

  成瀬地区においては明治44年(1911年)5月に成瀬村統一青年会が成立する以前から各集落に若者の組織があり、ムラの生活の中でさまざまな役割を担ってきた。この青年会に統一される以前の若者の組織は集落個々に名称を持ち、東富岡では「燈明講」であった。  

太鼓

  青年会は15,16歳から25歳の男子によって組織されており、太鼓の組もヒトカラ(1組)ある。ヒトカラは大太鼓1つ、小太鼓(シメ太鼓ともいう)2つである。東富岡では西富岡田中の青年会との交流があり、祭りのときには行き来した。
  東富岡太鼓保存会は伊勢原観光道灌まつりに参加する。



神輿

  



東富岡の歴史

  東富岡村は愛甲台地の南端部にあたり、北側には津古久峠があり愛甲郡との境界をなしている。西部には歌川の水源があり村内を南下していた。永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』には「中郡富岡」とあり、もともとは西富岡村と一村をなしていた。天正19年(1591年)の朱印状では東富岡郷と記してあり、この頃はすでに分村していたことがわかる。
  江戸時代当初は直轄地で、寛永10年(1633年)の地方直しにより水野勝長・三井吉久領となる。明暦2年(1656年)に三井氏は金弥が家督を相続し、この時弟吉直に領地を分割して譲渡した。寛文2年(1662年)に金弥がが継嗣のないまま死去したため、吉直が本家を相続することになり、吉直の領地は幕府に収められて直轄地となった。寛文8年(1668年)にはその本家を継承した吉直も兄同様に継嗣がないまま死去したため、三井家は断絶して領地は幕府に没収されて直轄地となった。その直轄地は地方直しにより元禄10年(1697年)に安藤重玄領となり、以後、水野・安藤氏の二給の村として幕末まで続いた。検地は延宝6年(1678年)に成瀬長俊・八木信長により実施され、のちにここは安藤領になった。
  小名には「竹林寺谷戸(ちくりんじやと)」・「大福寺谷(だいふくじやと)」・「三間谷(みまやと)」・「杉戸谷(すぎどやど)」・「相原谷(あいはらやと)」・「建野谷(たてのやと)」・「田切谷(たぎりやと)」があり、高札場が2ヶ所あった。東富岡村は享保3年(1718年)に平塚宿の大助郷になるが、享保10年(1725年)に同宿の加助郷に変更されている。文政寄場(改革)組合では伊勢原村外二四ヶ村組合に属していた。
  村の南部を粟窪村から下糟屋村へ大山道が通り、八王子道が津古久峠から村内西部を通り西富岡村へ抜ける八王子道があった。村の西部より北部にかけて小高い山があり、切り通し1ヶ所、坂が9ヶ所「下馬場坂(しもばばざか)」・「額坂(ひたいざか)」・「谷口坂(たにぐちざか)」・「冨坂(とみざか)」・「庚申坂(こうしんざか)」・「道神坂(どうしんざか)」・「中丸坂(なかまるざか)」・「天神坂(てんじんざか)」・「五郎兵衛坂(ごろうべえざか)」などがあった。村内西部の字田切谷・相原谷を水源にする富岡川が幅九尺になって流れ、高森村で歌川に合流した。


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