西富岡にしとみおか

八幡神社

  西富岡の鎮守「八幡神社」の旧号は「八幡宮」で、旧社格は村社であった。祭神は「応神天皇(第15代、名は誉田別尊)」で、応神天皇誕生のおり弓具の靹に似た肉が腕に盛り上がっていたことや、誕生の喜びを沢山の旗を立てて表したことなどが八幡信仰と応神天皇との結びつきであり、武士にとっては「弓矢の神」、農民にとっては「生産の神」として全国に広がっていった。「本地垂迹説(中世、神の本地を仏菩薩に求める考え)」によると応神天皇の本地は阿弥陀如来であるとされ、その木像や画像が併祀されているところもある。
  八幡神社の創立は詳ではないが、当地草創に当り氏子庶民の天神を奉斎したに始まると言う。即ち当社の例祭に当り神事草分け祭りを奉行し、祖先の此の地を開いた功に報い生存の喜びを祝ったものである。時に班席というものあり、右一番増田長左ヱ門 二番青柳助右ヱ門 左一番足立八左ヱ門 二番堀江仁左ヱ門とあるは当時の氏子総代責任役員で、祭祀の際の位置を示すものであろう。
  文明年間(1469〜87年)に関東管領上杉定正の臣大田道灌が下総国葛飾郡の富岡八幡宮を此の地に遷座し、厚く尊信し、これより富岡村と呼び、元亀年間(1570〜73年)に西富岡村と呼ぶとも伝える。明応2年(1493年)に社頭を修理し当地代官分米を寄進する。永正5年(1508年)5月に地頭所より修理費を献上し武運長久を祈る。天文16年(1547年)に宮殿を修理し、地頭大草右近將監綱輔代官内野孫右ヱ門が寄進する。元亀3年(1572年)8月に社頭を造営し、地頭大草有幸松が費用を寄進する。文禄5年に社頭を修理し、足立主計 青八木助右ヱ門 青八木雅楽助願主となり、草分け祈願をする。徳川期に入り、地頭水野岩之丞が当地の産土神であることから、年々初穂米四斗を献上して武運長久と国土安穏を祈願する。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によるとかつての西富岡村は、東富岡村(成瀬地区)と一緒であったが中世末までには独立していた。西富岡村の鎮守は「八幡宮」で、別当は古義真言宗岡崎村金剛頂寺末の「宝蔵寺」であり、「飯綱社」も同じく宝蔵持であった。寺院にはこの他に三之宮村の臨済宗能満寺末の「満蔵寺」、同宗同末の「松山寺」、曹洞宗日向村の石雲寺末の「無量院」、下糟屋村の浄土宗南蓮寺末の「浄源寺」、身延久遠寺末で法華宗「一祥寺」があった。
  明治6年(1873年)7月に村社と定められる。明治23年(1890年)には本殿他全焼するが、明治27年(1894年)に本殿・幣殿・拝殿・境内社を、明治33年(1900年)には神楽殿を再建する。明治43年(1910年)に八幡谷戸の八幡神社(天文4年創立)を当社に合併合祀する。大正12年(1923年)に関東大震災の折に木造鳥居が倒壊したが、昭和2年(1927年)に本殿を造営し、屋根を亜鉛葺とし、人造御影鳥居を再建した。
  境内は「天王社」・「明神社」・「天神社」・「稲荷社」・「金比羅社」・「弁天社」・「疱瘡神」の各祭神を併祀している。

鳥居神楽殿
社務所
拝殿覆殿
境内社
境内神社由緒

太鼓

  



神輿

  昭和58年に「神輿舎」を造営した。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の8月17日であった。近年には4月4日になり、現在は4月第1日曜日となっている。
  大祭は午前10時頃から比比多神社の宮司の祝詞で始まり、続いて一家繁栄・家内安全・五穀豊穣の祈願を行う。境内入口には八幡神社の大幟が左右2本立てられ、境内には所狭しと露店が立ち並ぶ。花飾りで装飾された太鼓車が地域内を巡行すると祭りは一層盛り上がり、各戸に招待されていた親戚や知人は続々と境内に集まってきて祭りを楽しむ。夜になると境内左手に設置された舞台で毎年来ているという一座によって、歌や踊りによる演芸ショーが行われる。



西富岡の歴史

  西富岡村は糟屋庄、西富岡郷に属したと考えられ、『中郡勢誌』では大山東部の丘陵状の地形から「外傍岡(とみおか)」を村名の起こりとし、山の縁辺部の意としている。箱根権現別当であった北条早雲(1519没)の幼息菊寿丸(玄庵)の知行分として当所が権現領に寄進されていたこともあり、もとは東富岡村と一村であった。『北条氏所領役帳』では「富岡」とあり、天正19年(1591年)の東富岡村鎮守八幡宮宛の朱印状に「東富岡」とあることから、東西への分村の時期はこの間と考えられている。天保6年(1835年)の『西富岡村地誌書上帳』では田方二五町余、畑方五二町四反余とあり、やや畑方の多い土地柄であった。日向村に当村の飛地があった
  天正18年(1590年)の徳川家康関東入封後は直轄領で、寛永10年(1633年)の地方直しにより水野勝長と戸田政次の知行となった。この後、水野領は幕末まで継承、戸田領は寛文年中(1661〜72年)に政次の五男政道に分地され、以降政次家が幕末まで継承した。検地は慶長8年(1603年)に代官頭彦坂元正によって行われた。平塚宿大助郷四二ヶ村のひとつで、助郷高はニ〇三石、寄場組合は伊勢原村外ニ四ヶ村のうちに組み込まれた。
  山名のある山に諏訪山・飯綱山・向山、物見峠の小山があった。幅四尺の八幡谷川は後谷川に合し、幅四尺の後谷川が幅六尺の弓張川に合流していた。往還は幅九尺の津久井県道、荻野道、日向道が通り、この他に大山より荻野へ通じる道があった。
  小名には「駒渡堂(こまたてどう)」・「阿弥陀堂」・「実蒔原(さねまきばら)」・「外堀」・「打(内)見堂」・「宝池(ほうち)」・「長竹」・「久(九)沢」があり、高札場は2ヶ所であった。実蒔原は山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正の長享の乱(1487〜1505年)の合戦の場となったという。その時の戦死者の塚と伝える6、7基の古墳があった。堀江家は代々戸田領の名主を務めたが、伝来の文書は旗本領文書として質・量ともに豊かな「堀江文書」として知られ、今日まで一括保存されている。


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