三ノ宮さんのみや

比々多神社

  「比々多(ひびた)神社」は延喜式内社の相模十三座の一つに数えられた「比比多神社」に比定され、伊勢原市内の延喜式内社はこの他に下糟屋の高部屋神社と大山の阿夫利神社がある。かつての相模国三之宮にあたるということからそうした地域神的性格にとどまらず、かなり広範囲からの崇敬を受けており、特に国府祭における神輿の巡行地域との結び付きは強く今でも金目に65件敬神講を持っている。呼称については比々多神社のほか「三宮比々多神社」、「三宮明神」などが使われているが、江戸期の資料では「三(之)宮明神」が一般的だったようである。
  三ノ宮地区に位置する当社は三之宮村・栗原村・神戸村の鎮守で、江戸時代までは白根村を加えた4ヶ村の鎮守であったが、白根村は明治6年(1873年)に離脱している。なお、隣の上糟屋村の子易明神(比比多神社)も式内であることを名乗っていたというが、『風土記稿』は両社とも確証に欠けるとして弁別を避けている。また、当社に大貫氏を名乗る神職が常在し、同書には大貫左近が神職とある。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると鎮守の「三宮明神社」の他に、龍泉寺持の「吾妻社」・「金山社」・「愛宕社」、村民持の「山王社」・「稲荷社(2社)」、「山神社」・「牛頭天王社」があった。寺院には御朱印寺領七石の臨済宗鎌倉建長寺末の「能満寺」、御朱印寺領五石の能満寺末の「高岳院」、古義真言宗大畑村金剛頂寺末の「龍泉寺」、黄檗宗江戸川深川海福寺末の「浄業寺」、また高岳院持ちの観音堂や村持の阿弥陀堂などがあった。塚も13の多くを数えている。

比々多神社鳥居
社号柱神社由緒
手水舎狛犬
鐘楼神楽殿
拝殿覆殿・幣殿
絵馬燈籠
秋葉神社金比羅神社
白山神社
弁天社
神明神社
東照宮権現社
稲荷神社
摂社・末社五社を左から
御神札授与所古札収所
社務所郷土博物館・御祈願者控室
御車祓所十二支
三之宮自治会館境内
神池招魂社・忠魂碑
三之宮三号墳化粧塚

  創建年代を確定できるような明確な資料は存在しないが、延喜式内比々多社に比定されること、三ノ宮として国府祭に関係していたこと等からかなり古い歴史を有するものと思われる。社伝によると現在地への鎮座は神武天皇6年(紀元前655年?)で大山を神体山とし、豊国主尊を日本国霊として祀ったことに始まるという。崇神天皇7年(紀元前91年)に勅願所として神地を奉られ(これが現在の神戸という地名の由来であると神社はいっている)、次いで持統天皇5年(691年)に当社を崇拝することが特に厚かった相模国司布施朝臣色布知(ふせあそんしこふち)によって社殿の改修が行われ一対の狛犬が奉納された。更にこの年には現在相殿に祀られる「大酒解神」、「小酒解神」の二神が合祀され、「うずらみか」と称する須恵器(すえき)が奉納されたという。なおこの狛犬とうずらみかはそれぞれ市と県の重要文化財に指定されている。
  更に天平15年(743年)には竹内宿弥(武内宿禰)の裔孫である紀朝臣益麿を初代宮司として迎え、聖武天皇から荘園を下賜され、天長9年(832年)には淳和天皇が相模の国司橘朝大臣峰継に命じ当社へ「相模国総社冠大明神」の神号を与えたという。この神号は『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が妻政子の実朝出産の際に、その安産を祈願して相模国内の社寺に神馬を奉納したが、その中に「三宮冠大明神」としてみえる。頼朝はこのほかにも社殿再建(1184年)や、国土泰平祈願のための願書奉納(1185年)を行ったとされる。
  当社の規模はかなり大きいものであったが、戦国の明応年間(1492〜1501年)の頃より度々兵火に遭い、神領を失い、社人・供僧なども離散して、社頭が大いに衰えるに至った。天正(1573〜1593年)の初めに至り社地を現在の地に移し、小社殿を造立して遷座した。旧社地は本殿の背後北方200mほどのところの丘陵の上にあって、この小名は埒面(らちめん)とよばれ、現在は学校の敷地となっているが、その広さは17000坪(56100平方メートル)と現在の社地の4倍ほども広かった。ついで天正19年(1591年)11月には江戸に入府した徳川家康により、社領十石を下付され朱印を賜ってからようやく復興し、以後は代々将軍により社領の寄進を受けたという。

元宮鳥居・祠
元宮のいわれ元宮からの眺望

  しかし、このような社伝の一方に全く内容を異にした縁起伝承が存在していたことも知られている。『風土記稿』によると天保当時社頭におかれていた延宝4年(1676年)撰の鐘(戦時中に供出されたものと考えられる)に「三宮大明神、本地慈悲不動明王霊場也、夫所謂宮地始者、聖武天王御宇、天平年中、当所占地、剏建玉宮安置鎌倉鎮将太郎太夫時忠尊影、奉崇敬三宮大明神云々、別当福智山能満寺住持、伝法沙門執翁宗払銘」とあったとされる。この銘が正しいとすれば江戸前期において江戸前期において比々多神社の組織に大きな変動があった可能性がある。江戸後期になると国府祭及びその神輿渡御に関する文書もいくつか残されており、比々多神社の姿はかなりはっきりしてくる。
  明治6年(1873年)には郷社となる。比々多神社は5月の「まが玉祭」や10月に行われる「慰霊祭」の開催地にもなっている。


比々多神社所管社 (2012年)
伊勢原市秦野市
1木下神社神戸5181落幡神社鶴巻756
2雷電神社串橋2642石座神社鶴巻2345
3神明神社笠窪5033地神社鶴巻1534
4八幡神社坪ノ内572平塚市
5神明社白根4271真田神社真田4
6五霊神社上粕屋7902北金目神社北金目1436
7十二柱神社田中7423南金目神社南金目2416
8御嶽神社伊勢原
3-21-8
4神明社南金目869
9神明神上平間東9395熊野神社千須谷203
10御嶽神社池端6636八剱神社上吉沢758
11日月神社沼目2-21-187八坂神社入野31
12稲荷神社下平間623合計 : 22社


祭神

  現在の祭神は主神を「豊斟野尊(とよくもぬのみこと)」とし、相殿に「稚日女命(わかひるめのみこと)」・「天櫛明玉命(あめのくしあかるだまのみこと)」・「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」・「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の四柱を祀る。ところが『風土記稿』をみると祭神は「豊国主尊(とよくにぬしのみこと)」・「天櫛明玉命」・「雅日女命」の三座にして、「大酒解神(おおさかとけのかみ)」と「小酒解神(こさかとけのかみ)」を祀ると記されいる。さらに伴信友によると『総国風土記』に、当社は「祭るところ大酒解神・小酒解神なり」と記してあるという。
  相模国の『総国風土記』は今は散逸して伝わっていないが、この古書は鎌倉ないし南北朝のころに編纂されたものと思われる。そのころの比々多神社の祭神は江戸期には相殿となっていた大酒解・小酒解の二神が主神であったと考えられ、また『特選神名牒』も当社の祭神としてこの二神をあげている。今も当社には社宝としてかつて神体であった2つの酒瓶が保存されており、高さはそれぞれ30cmほどで肩の張ったいかにも古風な須恵器である。ちなみに須恵器とは、古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた大陸系技術による素焼きの土器のことである。



三ノ宮の歴史

  三之宮村はかつて糟屋庄、白根郷に属し、村名は三之宮明神の鎮座の地に因んでいるという。隣村の栗原村は当村の枝郷で分村し、神戸・白根村を隔てた所にある「狐橋(きつねばし)」も枝郷であって当村の飛地となっていた。「三ノ宮」という地名がいつごろから出来たかはわかっていないが、源頼朝(1147〜1199年)の重臣に三宮次郎という者があったことが『吾妻鏡』に記されており、彼はこの土地の出身であると思われ、鎌倉時代以前よりの地名であると考えられる。
  比々多神社の社殿ならびに『風土記稿』に記すところの「近隣の古老の言い伝え」によると、このあたりは往古「比比多郷」と唱えられたとされるが、『和名抄』の郷名の中には比比多郷というのは見当たらない。菱沼勇氏によると『和名抄』の「日田郷」がこれに該当するものとし、かつては比比多郷または比比多里といわれていたのが、元明天皇の和銅6年(713年)に「畿内七道 諸国の郡郷名は好字を著けよ。云々」との詔が下されてから、郷名は全国的に2字となり、しかも縁起のよい好ましい字に改められたために、比比多郷も日田郷と記されるようになったとしている。そして最初のうちは日田郷と書いてヒビタ郷と読まれていたのが、時の経つにつれていつしか古い読み方を忘れ、ヒダ郷と読むようになったものと考えられるとしている。
  三ノ宮付近はおびただしい古墳群があちらこちらにあり、かつては200基以上の古墳が数えられたが、今はその大部分は破壊されて畑地や宅地などになっている。これらの古墳はほとんどが円墳で形も小さいのが普通であるが、そのなかでも大きいものに登尾山(のぼりおやま)古墳がある。この古墳は三ノ宮の西隣りの栗原のなかで栗原川の西方の小高い丘の上にあり、直径20mにおよぶ円墳は発掘品などから推定すると6世紀のものであるといわれている。また、同じ栗原には尾根山(おねやま)古墳があり、並んでいる四基の円墳は年代的におそらく七世紀から八世紀にかけての古墳であるとされている。そのほか三ノ宮部落の下谷戸(しもやど)や原田にも古墳があり、かつて発掘調査が行われたが、いずれも八世紀のものであったという。これらの古墳の被葬者はいずれもこの地方の豪族であり、比比多神社をその氏神ないし共同神として、祭祀を怠らなかった人たちであったと思われる。
  いずれにしても、三ノ宮付近の古墳群はだいたいにおいて七世紀から八世紀にかけての比較的新しいものであり、その形も小規模な円墳に属するがその数の多いことからいって、この地には少なくとも古墳時代から相当大きな集落があったことが推定される。比々多神社はそれらの集落民がいつき祀ったと思われ、奈良朝前後にこのあたり一帯が相模の地方文化の一中心地であった可能性もある。
  当地ははじめ直轄領で、元和2年(1616年)に幕領の一部を除いて戸田政重の知行となったが、享保元年(1716年)の不始末により戸田氏領は没収された。元和2年の残余の幕領は寛永10年(1633年)に武島氏・山角氏・渡辺氏の所領となり、戸田氏領と幕領を合わせ五給となった。この後、安藤領、烏山藩領、幕領など目まぐるしく転じ、『旧高旧領取調書』では武島領・安藤領・烏山藩領の三給となっている。検地は慶長8年(1603年)の施行である。
  三之宮村の東方を幅六間の大山川が流れ、流末は鈴川と唱えていた。堰がいくつか設けられ用水に供された。往還は大山道が二条と荻野道一条が通っていた。山名のある山は猿子峯・丸山・高取山・聖峯・松尾・沢山・金山などがあった。小名の「伯母様(おばさま)」は後北条氏の臣布施氏が領していたことに因むといい、『北条氏所領役帳』に「布施弾正左衛門(康則)二十貫文、中郡白根ノ内、オバサマ分」とある。『風土記稿』は地頭布施氏の伯母の所領であったという村人の伝と、当村にある高岳院の梅林理香大姉が布施氏の伯母との伝を紹介している。小名はこのほかに「宮下」・「野首台」・「東入」・「中」・「下」がり、高札場は4ヶ所あった。



栗原の歴史

  栗原村は糟屋庄、白根郷に属し、三之宮村の枝村であったという。寛永10年(1633年)に分村したとの伝えもあるが、『風土記稿』は正保期(1645〜48年)以降の分村かとしている。もともと三之宮村と一村であったので、分村以前は三之宮村と同様に元和2年(1616年)に戸田氏領と幕領になっていた。分村は正保期以降であるので、三之宮村の一部戸田領と一部幕領はしばらく引き継がれていったが、幕領は元禄 10年(1697年)に酒井忠能が領し、以降幕末まで酒井氏が継承した。戸田領は享保元年(1716年)に不始末で没収され、享保13年(1728年)に烏山藩領となり幕末まで同藩領が継続した。検地は慶長8年(1603年)、慶安2年(1649年)、延宝3年(1675年)、元禄6年(1693年)に施行された。
  栗原村の小名には「福満ヶ谷(ふくまがやと)」・「谷戸岡沢」・「笈平(おいだいら)」・「仏坂」・「横町」・「二重堀」・「蔵屋鋪」・「尾崎谷戸」・「宮上」・「宮下」があった。山名のある山には「聖峯(ひじりみね)」・「沢山」・「高取山」・「丸山」・「猿子峯」などがあったが、これらは三之宮村と共通している。「栗原川」とも「沢山川」とも呼ぶ川は諸方の谷間から湧出した水を合流させ、その下流域の川名であり、田間の用水に供された。
  神社には本山派修験小田原玉瀧坊霞下の泉龍院が別当であった「神明宮」、村持・村民持の「稲荷社(3社)」、村民持の「八幡宮(2社)」・「(御)所明神社」・「牛頭天王社」、村持の「秋葉社」・「山神社(2社)」・「愛宕社」・「金毘羅社」などがあった。寺院には曹洞宗武州入間郡龍谷村龍穏寺末の「保国寺(地蔵銅像あり)」、慶安2年(1649年)に朱印寺領八石の寄進を受けた同宗同寺末の「万松寺」、法華宗身延久遠寺末の「法泉寺」があった。この他に「林昌寺」もあったが、文政11年(1828年)に廃寺となった。また、聖峯には「子聖権現」が祀られ、聖峯の頂上には石仏の不動明王を安置している堂があり、子の聖が聖峯の名の由来との伝説もある。八幡宮社殿背後の寛永19年(1614年)と刻す石碑は、後北条氏に仕えた石井某の墳墓との伝えがあった。また、塚は5ヵ所に散在していた。



例大祭

  例大祭を参照。

囃子

  



人形山車

  山車は三ノ宮・栗原・神戸の三地区で所有しており、境内での並び順は神戸が一番奥(社殿側)で、鳥居側の三ノ宮と栗原が一年おきに入れ替わる。行列での並び順は宮入りの順となっており、鳥居に一番近い順番で並び、社殿側の神戸が最後尾となる。現在はどれも人形を取り付けているが、明治初年以前は部落競争で山車の上に大きな御幣を思考をこらしてつけたものであったが、氏子の平和のためもあって人形をつけるようになった。
  山車は二層式で、先端に取り付けられた人形までおよそ高さ7.6mm、正面幅2.4mm、前後長さ2.7mmほどのもので、直径40cmほどの木の車輪が4つ付き、屋台の上には正面に大太鼓1つと小太鼓(締め太鼓)2つを据え付ける。移動は先頭にくくり付けた2本の綱を引いて行い、方向転換は木の丸太を使ったり、人が直接持ち上げて行う。

太鼓は正面に並べる(神戸)2本の綱で曳く(栗原)
丸太で方向転換(栗原)持ち上げて方向転換(栗原)

  各山車の上には各地区特有の武者人形が取り付けてあり、地区の象徴的表現となっている。人形はカラクリ人形であるが、操作は単純で囃子連が中段から一本の紐を引いて、各々人形の右手だけを上下させる。各山車の人形の下には「飾り波」と称する波をかたどった作り物と、「花」と呼ばれる造花の串が垂れ下がり、飾り物の「万燈岩形」が取り付けられる。

大波(栗原)小波(栗原)
大輪と小輪(栗原)岩(栗原)
花を付けた大輪(三ノ宮)波飾りを付けた小輪(栗原)

  山車の人形は下記の様になっている。


●三ノ宮・・・加藤清正(槍が動く)
  加藤清正は朝鮮での虎退治で名高く、朝鮮再征の際に浅野幸長を援けて蔚山に籠城したときの雄姿「片鎌槍を小脇にかかえ仁王立に突立って四方を睨まえる時は、威風凛々四辺を払い只々鬼神の降臨し給う如し」を写し取ったものといわれている。墨書は「鳥」、「象」である。
●栗原・・・熊谷次郎直美(扇で招く)
  熊谷次郎直美は歌舞伎「一谷嫩葉軍記」の登場人物で、一の谷の戦で平敦盛を討った。人形は右手に日の丸の扇で敦盛を呼び返している姿をかたどったもので、この扇を持った右手は動く仕掛けとなっている。墨書は正面に「建石」、向かって右手に「松蝶」、左手に「挿花」、背面に「起雲」が記されている。

栗原の人形山車万灯
熊谷次郎直実扇で招く

●神戸・・・「加羅先代萩」の男之助(鉄扇で打つ)
  神戸は歌舞伎「加羅先代萩」の男之助で、巻物を咥えた鼠に化けた「仁木弾生」を踏みつけ、「ただの鼠じゃあんめい」と睨みつけている姿をかたどったものである。墨書は正面に赤地に「天」と書かれている。かつて神戸の人形は中国の三国志の「張飛」だったそうだが、日本の祭りということから変更したといわれている。

  これらの山車は鳥居を通り抜けられないため、社務所手前を通って進む。かつては他の行列同様の経路を進んだが、昭和44年(1969年)に東名高速道路が開通したため、その後は高速道路高架手前で止めることになった。この結果人形山車の代わりに太鼓をのせたトラックが出されるようになっている。巡行の際は東名高速道路手前より化粧塚を経て神社まで同行する。



神輿

  三之宮神輿は江戸時代末期の慶応3年(1867年)4月24日に大山の大工「手中明王太郎景元」によって造られた。古例にならい寸法も仕様も旧来通りの神輿を新造し、それまでの神輿は寺田縄村に譲渡された。三之宮神輿は暴れ神輿として有名であり、その暴れぶりといえば神輿を田畑に放り投げたり、川に投げ入れたりすることが一昔前まで行われていた。一度放り投げて壊れてしまうようでは暴れ神輿は勤まらないので、落としても壊れぬ特殊な造りになっている。
  この神輿の特色は古い様式を受け継いだ造りにできていることである。軒は反りのない直線的な造りであり、四方の隅木の先には一木造の太蕨手(ふとわらびて)が付いている。その軒は出組によって支えられ、組物を支えている平台輪と頭貫の木鼻は繰形に拵えてある。神輿の胴は正面のみ古和戸造で、他の三面には扉がなく胴羽目となっている。彫刻がほとんどないが、これは頑丈さを第一とし、壊れやすいものを省いたからであろう。屋根の菊花と桐の神紋を始め、錺(かざり)金物はすべて赤銅(しゃくどう)で作られているのも特徴的である。他の明王太郎作の神輿が真鍮製や金滅金(めっき)の錺金物を使っているのに対して、この神輿のみ赤銅の錺金物を用いている。
  神輿はその後、大きな修理が3度行われ、いずれも明王太郎が手がけた。明治19年(1886年)10月1日に大山にて屋根一式を造り替える修理を行った。明治30年(1897年)4月15日には金七十五円にて同じく屋根を新造する大修理を行い、そのときの請負証文が伝わっている。昭和2年(1927年)4月に3度目の大修理が行われ、その棟札の写しが残っている。平成6年(1994年)4月に小田原市中村原の梅沢流神輿師により、今までの神輿と同じ形・同じ構造のものが新規に造られ、旧神輿は保存されることになった。

慶応3年完成の旧神輿平成6年完成の現神輿
神輿殿神輿解説

●あばれ神輿の構造
  一般に神輿の屋根は内陣の中心に通っている真柱で支えられているが、三ノ宮神輿は真柱を用いずに四隅の丸柱で屋根を支え、次に内陣の中心軸の位置に丈夫な麻縄を張って屋根と箱台輪の間をしっかりと引き付け、両者が離れないように結び付けてある。三ノ宮の祭礼では近年に至るまで神輿を横にして大地に倒していたが、こうすることによって神輿を横に倒しても屋根はしっかりと胴に付いていて離れない。寺田縄村の日枝神社に移った旧神輿も、やはり真柱のない構造になっている。神輿を丈夫にする構造上の工夫が他の部位にも随所に見られ、主なものとして次の4つがあげられる。
    @軒の出を少なくする
    A従って組物の手先の数も少ない出組とした
    B屋根の隅木に太材を用いている
    C一体形の一木造太蕨手を採用した
  神輿の請負仕様書には「わらび手壱本木作り出し」と書き記されており、「壱本木作り出し」は1本の木を使ってそのまま一体形に仕上げる作り方で、いわゆる一木造である。一般に蕨手は付け根から先へ進むにつれて材が渦状に巻かれていくが、三ノ宮神輿の蕨手は概観上は渦状に見えるような装飾金物を取り付けているものの、実は中の材に渦状の切れ込みはなく一体形の丈夫な厚板のままに仕上げてある。

●江戸末期の神輿請負仕様書
  三ノ宮神輿の建造は慶応2年(1866年)7月4日に金一〇四両三朱で大工明王太郎が請け負った。幕末の社会情勢が激変し物価が急騰したときのことであり、神輿普請注文の話し合いが長引いた間に神輿の価格も変更された。神輿は翌年の慶応3年(1867年)4月24日に完成し、その時の請負仕様書は今も伝わっている。
  請負仕様書の冒頭に「御神輿一棟、但し寸法先造の通り」とあり、新しい神輿はそれまでの旧神輿と同一寸法に作ることをうたっている。神輿を造るときに一番費用がかかるのが錺金物で、鳳凰を始めとして屋根大紋・箱台輪隅貝折(かいおれ)・化粧垂木鼻金物等々、合計100個以上に及ぶ大量の錺金物が必要である。この神輿は赤銅の地金を使っており、仕様書には金物のことを「諸金物色上げ代、但し垂木鼻初め小金物不足の分は、地赤銅とも出来申す可く候」と簡単に触れている。この文章からすると三ノ宮は旧神輿の金物を取り外し、色上げして、欠けているものは新調追加し、新造神輿に使ったようである。旧神輿の錺金物を流用するのは費用工面の知恵ともいえる。
  神輿を丈夫に造る工夫が仕様の中からも読み取れ、「鳥居かし材」などと書き記されている。他の明王太郎神輿では鳥居に槻(けやき)材が使われているのに対し、この神輿はより丈夫な樫(かし)材を使った。

●神輿の完成
  『比々多神社冠大神御輿扣』に神輿完成時の様子が記されており、以下はその抜粋である。

「   慶応三年卯四月二十四日御天気
    神輿総新造弥(いよいよ)皆出来、二十四日昼四ツ時神主始め供一人、役人三之宮村上下四人並に若者十五人、世話人四人、栗原村役人二人、若者十人並に世話人二人、伯母様村役人一人、世話人二人、神戸村役人一人、若者十人、世話人二人、〆五十五人、内世話人十人。
  神主・役人・世話人とも二ツ物にて酒出し、次に昼食出す。しるに皿むすび。一同しるを出す。昼飯持参にあい成り申し候。
  氏子中、神酒三升、金五両也祝儀明王太郎、金二両也祝儀大工小方・金物屋・塗師、外に神輿残金〆金二十四両三朱、一匁五分請け取る。」

  同日に神主を始めとして、三之宮村・栗原村・伯母様村・神戸村の四ヶ村の役人と世話人や若者などの55人の大勢が、完成した神輿を引き取りに大山の大工の所に来たとある。そして酒が出され、祝儀がとりかわされたあと、若者35人に担がれて神神輿は大山から三ノ宮へと運ばれていった。

●比々多神社の祭礼(取材後は例大祭部へ移行)
  4月22日の祭礼の日、神輿の出御に先立ち、神輿供奉者は清めの儀式を行う。まず御神酒の杯をあけ、続いて藁束に火をつけて御火焚(おひたき)をし、供奉者は燃える火を渡って穢を焼き祓う。身を清めた供奉者は拝殿にふみ入り神輿を外へと担ぎ出し、出御した神輿は化粧塚を経て御旅所へ向かう。祭り半天姿の青年らが「ヤートーサッセ(弥遠に栄え給え)、ヨイトコラサッセ」の掛け声とともに神輿を担いでいく、昔は「明日はねーぞ」と言う掛け声もあったが現在は聞く事はない。また、かつては三ノ宮で2回、神戸で2回神輿を人家の庭前に倒し込んだが、現在は壁ができたりして行っていない。神戸では持田博司、吉川薫の両氏宅であった。途中村境近くにて神戸の青年衆との神輿の渡し継ぎ場の手前にさしかかると、担ぎ手は神輿を頭上に持ち上げて走り出す。そして神戸村へと神輿は引き継がれる。
  かつては近郷の村々が参加し、各村に渡された神輿は村内の農耕地を隅々まで巡幸し、人々は五穀豊饒を祈念した。神霊を田畑に迎えようと神輿を大地に倒すこともあった。御旅所に着くと儀式が行われ休息し、御旅所から宮へ還御するときも神輿の渡し継ぎが行われ、再び化粧塚を経て宮入を迎える。そのあと恒例のちまき行事として参拝者に餅が撒かれ、人々は拾った餅をお供えとして無病息災を祈るのであった。



青年集団

  市域においては近世から近代初期までの間、各集落の中で若者集団の果たす役割は小さいものではなかった。昭和40年(1965年)代以降、大山など一部の集落を除けば青年会活動も低調となり、現在では若者集団については種々の回想を聴取できるのみである。
  江戸時代後半期、天明7年(1787)年の三ノ宮の若者組の規約によると、当時からにぎわったと思われる比々多神社の5月5日の国府祭における祭りの取り決めの一端や、若者たちの祭礼におけるいわば乱痴気騒ぎを戒め、宮元の指示に従って秩序正しく祭礼を執り行うべきことの申し合わせなどが記されている。こうした、特に祭礼の主催母体としての若者の伝統はその後も長く持続され、現にも伝承として伝えられるばかりでなく一部では形を変えつつも伝承されている。
  伝承から窺うことのできる明治以降、比々多神社地区では各集落とも「若者連」へは、小学校卒業後の男子が長男・二男・三男の差なく14,5歳から加入し、35歳をもって退会した。大正期には国家的対策から全国で以前の若者組や若者連を改編し、全国ほぼ画一的な「青年会」の組織化が進み、旧来からの若者組織はところによって解散したり大きな改編を余儀なくされた。しかし、比々多地区の場合には青年会は若者連の中に取り込まれ、青年会は25歳までの加入である一方、若者連は35歳までそのまま継続された。栗原ではこの二重構成について青年会を第1部、青年会を退会した35歳までを第2部、別名「お祭り青年」ともよんでいた。若者連のころにはその代表を「若者頭」とよんでいたようであるが、青年会の組織後の代表は「支部長」とよばれるようになった。
  この組織への加入は建前上は強制的というものではなかったが、加入の年齢に達すると先輩や代表者が勧誘に周り、結果的に該当年齢で加入しない者はほとんどなかった。また、35歳までであるため婿養子に来た者も加入した。新しく加入するのはどの集落でも春の氏神の前で、集落の青年会場(集会所を当時はこうようんでいた)で青年の集まりが持たれ、加入者は個々に酒2升とか金銭を持参して会合に参集した。加入に際して何を出すかは決まっていたわけではなく、あくまでも自分の(家の)気持ち次第であったが、あまりみっともないことはできないという気持ちは誰にでもあり、それぞれの地位なども考慮して酒や金を出した。大地主の子弟のなかには酒を一斗出したという人もある。
  当時青年は仲間の経費を捻出するために農作業の手のあく冬場に種々の作業を請け負い、茅刈りや薪炭作り、バラス(砂利)上げなどを行った。栗原は坪ノ内では集落の共有山の一部(共に7,8反歩)を「青年会山」としてその維持・管理を青年会に任せ、秋から冬の時期になると青年たちは屋根材の茅や燃料の粗朶を切り、集落の内外で売って活動資金の一部とした。また当時の比々多村から青年会で土木事業を請け負い、鈴川から砂利を上げて道路に敷き詰めるなどの作業にあたった。こうした作業はおのずから青年会の地域生活への貢献的活動を示すものであるが、戦前において青年会活動がもっとも華やかであったのは氏神の祭礼にかかわる活動であった。
  祭礼においては比々多神社の神輿のある三ノ宮では、宮世話人の采配のものでその氏子圏の栗原・三ノ宮・神戸の青年がその渡御を運行するほか、祭礼の準備一切に大きな働きを持った。また、神輿渡御の行われないその他の地域を含め、当時は祭礼のときに若者が中心となって主に相模原の興行師から芝居を買い、それを奉納した。芝居を開催する年には比々多地区内の各青年会が呼び・呼ばれの関係を持ち、その際に「ハナを掛ける(祝儀を出す)」と枡切りした升席が割り当てられ、若者たちは酒・肴を手にしてその場を訪れた。芝居を買うには相当の金が必要で、青年会山からの収入などを蓄えただけでは4〜5年に一度とはいえ青年会の金だけで芝居を買うことは難しかった。そこで坪ノ内ではまず青年会が興行師に内金を支払ってしまい、春先の集落の総集会の席で当時存在した2軒の大地主をはじめ、集落からの協力を仰いだ。当時の大地主は経済力を背景に集落の決め事に絶対的ともいえるような大きな発言権を有したので、最終的には地主が承諾しなければ芝居を遂行することはできなった。
  また、白根と坪ノ内を除く各集落には若者連・青年会に付随して「太鼓連」が組織され、祭礼のときには「祭り付き合い」として周辺集落の太鼓連を尋ね合い、境内に立てた櫓の上で太鼓を競い合った。太鼓を維持するにはそれなりに金も掛かり、太鼓連は太鼓に関心を持つ者である程度の経済力のある家の子弟によって担われた。
  こうした一連の祭礼が済むと青年によるハチアライが行われ、祭礼に上がった祝儀を数えて収支決算をして一杯飲んだ。比々多地区では湯河原などへ旅行に出てハチアライをすることを伝統としてきた大山などとは違い、青年会場でこれを執り行った。もっとも、栗原では近年においても一泊旅行に出てハチアライを開く習慣が定着している。
  集落によっては青年会独自の講を開催したところもある。戦前坪ノ内では年1回、秋に青年の「巳待講」が開かれ、年下の者が3人当番となって各戸から米1升と10銭ずつを集め、集会所で米を炊いて1人が1升の飯を食べた。当時の若者でも1升飯はなかなか食べられるものではなく、とくに仲間に入りたての者には無理強いに食べさせ、それでこそ「一人前になった」といわれたものという。
  以上のような若者の習俗は、戦時体制に入り夜開催された「青年学校」に軍事教練の意味合いが強くなり始めた昭和の初期から大きく変質し始めた。そしてその後昭和30年(1955年)代に至るまで、青年会の活動の主体は農業研修会、比々多村の運動会や各集落の盆踊りなどの開催、武道・書道その他さまざまないわゆるサークル活動に注がれるようになった。現在は三ノ宮のように神輿や山車の出る祭礼でこそ、青年会はそれを支える重要な集団としての地位を保ち続けるが、祭礼とはほとんど無縁となり活動自体すたれた集落もある。


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