下糟屋しもかすや

高部屋神社

  「高部屋(たかべや)神社」は『延喜式』の神名帳に記載されている相模国13座の1社で、市内の延喜式内社はこの他に大山の阿夫利神社と三ノ宮の比々多神社がある。もとはこの地より西方700mほどの小名「弥杉(いやすぎ)」(東海大学病院周辺)にあったのを、鎌倉時代に糟屋庄(かすやのしょう)の庄司(しょうじ)であった糟屋氏がみずからの館の近くに移したといわれる。『神祇志料』によると当社がもとこの弥杉にあったのを、のちに現在地に遷祀したものだと記しており、郷土史家の石野瑛氏などもこの説をとっているようである。創建年代は不詳であるが紀元前655年とも言われており、糟屋住吉の大神として又の名を「大住大明神」と呼ばれ、武門・武士を始め万民の崇敬を受けた古社である。文明18年(1486年)に上杉定正大般若経函修理等のことがある。江戸時代中期頃までは、別名「糟屋八幡宮」と呼ばれ名社の名を謳われた。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると下糟屋村の鎮守は「八幡宮」(現在の高部屋神社)で、その別当は「神宮寺(臨済宗)」で社僧として「円福寺(古義真言宗)」があった。そのほかの社として「若宮八幡宮」は仁寿元年(851年)に東三条左大臣の息子兵庫頭某が当地に下向し、その子の岩若丸が当村の能条氏を継ぎ、父の遺骨をここに納めて八幡宮を勧請したものと伝える。天正19年には社領一石五斗の朱印地が与えられた。「浅間社」には天正19年に社領二石の朱印状が与えられていたが、寛政2年(179年)正月の別当寺の火災で焼失してしまった。『風土記稿』によれば再発行はついでの時にと命じられたと記している。この他には「住吉社」があった。
  寺院には鎌倉建長寺の末寺「千秋山普済寺(臨済宗)」があり、慶安元年(1648年)8月に寺領十石の朱印状が与えられている。同じく建長寺の末寺「法雨山大慈寺(臨済宗)」があり、中興開基を大田道灌とする。この他には江戸芝(東京都港区)増上寺の末寺で東台山西光寺と号する「南蓮寺(浄土宗)」、日蓮宗で鎌倉比企谷妙本寺の末寺「学清山法眼寺」があった。村内の西部には大慈寺持の大田道灌の墓と伝わる一区があり、傍らには榎の大樹が繁っていた。上粕屋村にも墓があって胴塚とし、ここは首塚と称している。かつては槽屋荘の開発者糟屋氏系統の人物で源頼朝などに仕えた「糟屋左衛門尉有季」の居蹟なども残っており、旧家として亀井道怡家、山田亀吉、能条安左衛門家などが知られていた。鎌倉時代の御家人糟屋有季(かすやありすえ)の館は、高部屋神社の境内も含めて「東西百間余り(役180m)、南北百十間余(約200m)」にわたって広がっていたという。
  古社たる由縁には「汐汲みの神事」があり、更に雅楽3面の古面と、源朝臣・頼重施入の経巻・上杉定正が寄進の大般若経の写経の伝来があり、境内の釣鐘堂には至徳3年(1386年)に平秀憲が寄進した梵鐘(県重要文化財)が今でも時を刻んでいる。京都宇治にある黄檗山万福寺7世で、中国の福建省・泉州府・晋江県からの渡来僧、悦山道宗筆による「八幡宮」の扁額(元禄初期の作)がある。本殿前の狛犬を寄進した行按・行白も臨済宗・黄檗派の僧で、別当「糟屋山神宮寺」と共に黄檗派との関係が深かったと思われる。この神宮寺は鎌倉建長寺(臨済宗)の末寺で、金剛頂寺(古義真言宗)の末寺の「照林円福寺」が社僧をつとめた。この神宮寺と社僧の円福寺は明治維新の神仏分離により、明治10年(1877年)頃に廃寺となっている。
  高部屋神社があるこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が北条氏の滅亡まで社地の続きに存在が最近の調査で認められた。鎌倉時代に源頼朝の家人、藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭「糟屋藤太左兵衛尉有季)の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営した。室町時代に入ると、将軍・足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われている。糟屋氏・上杉氏と関わった武士達の興亡をのせてきた高部屋神社も、北条氏を迎え、相模国風土記稿に載る、天正9年(1581年)5月10日八幡宮境内の3ヶ条、松山城主・上田能登守長則の禁制(法度)が知られている。

社号柱鳥居
神社由緒手水舎
八坂神社(神輿殿)神楽殿
鐘楼御?所
拝殿本殿
金刀比羅宮稲荷
水神庚申
境内下糟屋公会堂

  天文20年(1551年)に地頭・渡辺石見守が社領10石を寄進されて朱印状を頂き、同年に渡辺氏が社殿を造営したものとされる。天保4年(1647年)には元の社殿をそのまま活かして再建し、拝殿と幣殿は慶応元年(1865年)に再建され現在に至っている。草葺き屋根の拝殿(横三間・縦二間)の欄間(らんま)には大きな竜の彫刻などを施しており、正面の頭上に山岡鉄舟の筆による「高部屋神社」の社号額が揚げられている。銅葺きの流れ造りである本殿(五間・二間)は幣殿の北6mほど隔てたところに独立して建っており、地面より3mほどの高さの土台があり、三段に石垣を築いた上に設けられている。正面に向拝があり、周りに回廊をめぐらし、これを支える形のよい柱が四隅に立っており、扉は朱と黒の漆塗りで、木材は全て檜である。この本殿は大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊したので、昭和4年(1929年)に復興再建したものであるという。明治6年に村社に、大正6年7月には郷社となる。
  高部屋神社の本殿は地方の農村地帯のなかの神社としては、また当社の拝殿その他全体とのつりあいからいっても立派なものである。関東の神社一般においてはかなり規模の大きい神社でも、本殿と拝殿はほとんど相接して建てられており、その間を幣殿でつながれているのが普通であるが、当社の本殿は近畿地方のもののように拝殿よりだいぶ離れて独立して建てられている。また、関東の諸社では拝殿は大きくても本殿は一間四方の小さい殿宇(でんう)であるのが普通であるが、当社の本殿は五間二面と大きい。
  本殿と幣殿の間には享保12年(1727年)の作である一対の狛犬が石台の上に置かれ、拝殿の前にも天保11年(1840年)の狛犬一対が置かれている。また、『風土記稿』によれば当社に応永28年(1421年)に奉造された石灯籠のことが記されており、この灯籠は現存していないが同書によると次のような銘が記されてあったという。「奉彫造 相州糟屋惣社 正一位八幡大菩薩御廟前 石灯籠一基(中略) 応永二十八年九月下旬天 勧進主重光敬白」
  境内の東南隅近くには鐘楼があり、そこに掛かる古鐘の銘には「相州大住郡糟屋庄惣社 八幡宮鴻鐘銘 夫当社者瑞籬最久 威光森明 星霜甚旧(中略) 仰願者 天地長久 国家治世 信心檀那 家内繁昌 息災増福 志弘法界 一切群類 利益平等 願主平秀憲 至徳三年丙寅十二月 大工河内守国宗」と記されている。また、当社の社宝として古い伎楽面(ぎがくめん)が三面保存されており、これらは明治の中ごろまで雨乞いに使用されていた。神社近くに水神を祀った湧水池があり、早天が続くと神官が祝詞を奏上し、古面をかぶった2人が互いに水をかけあって雨乞いをしたと伝えている。



祭神

  現在の祭神は主神が「神倭伊波礼彦命(かむやまといわれひこのみこと)/神武天皇」で、相殿(あいどの)として「誉田別命(ほむだわけのみこと)/応神天皇」・「息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)/神功皇后」・「大鷦鷯命(おおささぎのみこと)/仁徳天皇」・「磐姫之命(いわのひめのみこと)/仁徳天皇の皇后」および「三筒男命(みつつおのみこと)/住吉大神」の五神(三筒男命を三神とすれば七神)を祀っている。ところが、『風土記稿』をみると江戸時代末期における当社の祭神は中央が「応神天皇」で、右に「若宮大神(仁徳天皇)」と「息長足姫大神」、左に「姫宮大神(大日?貴尊(おおひるめむちのみこと)・天照大神)」と「住吉大神(表筒男命(うわつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・底筒男命(そこつつのおのみこと))」となっている。従って現在のイワレヒコノミコトは祭神となっておらず、同神は明治以降において祭神に加えられたものと思われる。
  応神天皇を主神にしたことは、当社がその頃八幡宮と称していたことからも肯定される。なお、幕末の鈴鹿連胤(すずかよりたね)の著作にかかる『神社覈録(かくろく)』にも、高部屋神社の祭神は誉田別尊なりとしている。



糟屋氏

  糟屋庄の起源は平安中期にまでさかのぼる。左大臣藤原冬嗣五世の孫の如丘(ゆきたか)という者は相模の国司として下向したが、任期満了後も帰京せずに糟屋に居住し、合法非合法の手段を用いて私領の拡張を図った。その子の元方にいたって他からの侵略を防ぐため武器をとって武士となり、糟屋太郎元方と称し、その子孫は連綿として糟屋庄を領有した。糟屋氏の系図は次の通りである。

  冬嗣―良方―常興―輔相―如丘―元方(糟屋太郎)―盛季(糟屋庄司)―久季(糟屋次郎)―家季(十郎兵衛家忠と改む)―義忠(岡本太郎)―光綱(糟屋庄司小太郎)―盛久(従五位以下筑後守)―久綱(糟屋庄司)―有季

  糟屋元方より八世の孫の糟屋藤太兵衛尉有季は、祖父の業を継いで当庄の庄司となった。それとともに、新興武士の棟梁である源頼朝の家人となり、当地の地頭職に補せられ、頼朝・頼家の二代に仕えてしばしば功を立てたことが、『吾妻鏡』や『源平盛衰記』などに記されている。しかし、有季は比企官能員の女婿であったため、建仁3年(1203年)の乱に組して敗れ、比企一族とともに自害して滅びた。高部屋神社の境内を含めた一帯の地を「丸山」と称し、この地に糟屋有季の居蹟があったと伝えられている。ここは東西180m、南北200mほどで、今でもところどころに周囲の堀の遺形が残っており、この辺りの小名を「殿の窪」といっている。
  有季の没後の承久3年(1221年)に「承久の乱」が起こり、有季の子である左衛門尉有久は後鳥羽院の武者所に弟次郎長久とともに仕えていた関係から、後鳥羽上皇方に属して戦死した。しかし、三郎有近と弟の四郎久季は鎌倉幕府の軍中にあって功を立て、それぞれ上皇方の兵一名を討ち取っているので、有季の死後は2人のうちのいずれかが丸山の居館を維持していたと思われるが、もちろん糟屋庄司としての昔日の勢力は失われていたと考えられる。高部屋神社としてもその神威を誇っていた最盛期は糟屋有季のときまでであったと思われ、最盛期には当社は大住郡127ヶ村の総鎮守であったといわている。その範囲は大住郡のほとんど全域に及んでいたので「大住大明神」といわれ、また大住郡惣社とも称せられた。そのころには、毎月五と十の日に下糟屋において市が立ち、群集が集まって賑わったと伝えているが、おそらく当社を中心として市が立てられたと思われる。
  享徳年間(1452〜55年)になると扇谷上杉の憲忠が古河公方の足利成氏と戦って糟屋に陣しており、さらに文明18年(1486年)に上杉定正はその糟屋の居館に、功臣の大田道灌資長をあざむき招いてその風呂場で暗殺している。もっとも、そのときの定正の居館は下糟屋ではなく上糟屋にあったようで、石野瑛氏によれば定正の館址は上糟屋の中ほどの館原(やかたばら)というところにあり、東西四、五町(約430〜540m)ばかりで、四周に空濠をめぐらす一帯の台地で、東南に遠く相模平野を見下ろす形勝の地であるという。このように上杉定正の居館は上糟屋にあったが、これと隣接する下糟屋も当時は同じく糟屋と呼ばれ、上下の区別なく定正の支配下の領域となっていたと考えられることから、高部屋神社も前々から上杉家の庇護と崇敬を受けていたと思われる。しかし、定正が道灌を殺害した後は扇谷と山内の両上杉氏は不和となり、ついには互いに戦うに至った。上粕屋と西富岡の両部落にまたがって「実蒔原(さねまきばら)」とう高原があるが(現在の高部屋小学校の北方)、ここは両上杉の戦った古戦場であると伝えられている。そのころ、高部屋神社はおそらく戦火を受けてその社殿はまったくなくなったように思われる。その理由として道灌の死後60年余を経た天文20年(1551年)に、時の地頭渡辺石見守なるものが当社の社殿を再建造営したことが、そのときの棟札によって判明していることがあげられる。
  江戸時代になると上下の糟屋村は何人もの徳川氏の御家人の分領するところとなって、高部屋神社としても勢力のある保護者を持つに至らなかったと思われる。明治以降においては郷社となり、下糟屋の鎮守として現在に至っている。



例大祭

  本祭の祭日は天保12年(1841年)完成の『新編相模風土記稿』によると旧暦の7月7日で、明治20年(1887年)の『下糟屋村外六ケ村地誌』によると10月10日になっている。祭日は第二次大戦後も4月になったり10月になったりその時々で変更されてきたが、昭和50年(1975年)代以降は9月15日に定着した。大祭のほか正月、2月、11月、12月に小祭を営む。
  祭礼は9月13日の幟立てから始まったが、昭和30年(1955年)代の前半頃から幟は立てられなくなっている。幟は2枚を1組としそれぞれに「高部屋神社」と「八幡大菩薩」と書かれており、神社前、中宿と下宿の境、宮坂、弥杉の4ヵ所に矢倉沢往還を挟んで立てられた。
  翌9月14日には「汐汲み」または「汐汲みの儀」と呼ばれる神事が行われ、6つの町内が年番で務める宮当番が大磯町の照ケ崎海岸へ出向き、シオ(海水)一升、海藻のホンダワラと砂を採ってくる。汲んできた海水は一升瓶に入れたまま「鎮火水」と書いた紙を張って神前に供え、ホンダワラは注連縄につけて拝殿の入り口と鳥居の2ヵ所に飾り付け、砂は拝殿に保管しておく。昭和23年(1948年)頃まではこの汐汲みの役は青年会が担当していたという。古老の言い伝えでは、明治初年頃まで汐汲みの儀は宮当番が神主を伴って照ケ崎海岸まで出向き、「受け取りの儀」を執り行っていたという。そして汲んできた海水で赤飯を蒸して神饌とし、砂は本祭の前に祭場となる社殿とヤドから拝殿までの通路を清めるために一部を撒いていたという。また、高部屋神社の旧社地だといわれるところに住吉様(住吉大明神)の石祠が祀られているが、住吉様に採ってきた海水・ホンダワラ・砂を供えて「仮祭り」をしていたとも伝えられている。
  戦前までは14日のヨミヤに神楽や芝居を厚木の方から呼んでいた。カカリ(費用)を出すとツボ(桟敷)がとれ、さらにハナ(寄附)を掛けると前の方の良いツボがとれたという。カカリアツメ(費用集め)は宮総代がする建前であったが、役者と交渉や段取りなどはすべて若い衆にまかされていたという。
  9月15日の本祭には高部屋神社の隣に建つ公会堂へ午前9時30分頃までに関係者が集まり、砂も拝殿より公会堂へ移しておく。10時に公会堂から砂まき(1名)を先頭にして、錫杖(2名)、宮総代(1名)、宮司(1名)、神官(2名)、役員の順で行列を作り神社の拝殿まで行進する。砂まきは盆に盛った砂を撒いて道を浄めながらゆっくりとした足取りで進む。かつては出発前に関係者が公会堂に一座してお茶が出されており、また公会堂ができる前はヤドを務める宮当番の家から出発していた。行列が拝殿入り口に着くと御祓いをうけてから昇殿して式典が執り行われる。神前には鎮火水とともにスルメ・コブ・オソナエ(カガミモチ)・赤飯・尾頭付き(魚を2尾腹合わせにして供える)・野菜(ショウガ・ネギ・ナス・サツマイモなど)・御神酒が供えられる。式典終了後は公会堂に関係者一同が会して直会が行われる。

太鼓

  下糟屋では青年会の内部に神社の祭礼や盆踊りまた普済寺の4月19日の「半僧坊」の祭礼に、「大太鼓」・「小太鼓」・「横笛」・「擦り鉦」からなる楽器で音曲を披露する太鼓連の組織が古くから伝えられてきた。太鼓連は下糟屋のほか、成瀬村の周辺では伊勢原の池端東大竹などに伝承されている。下粕屋の太鼓連は青年会存続当時は会員全員がメンバーに入るのではなく、内部で関心・興味をもつ者の任意参加となっていた。太鼓の技術や音曲をいつの時代にどこから受け入れたかは今日明らかではない。しかし、奏楽順に「まもの」・「神田丸」・「下がり藤」・「鎌倉」・「仕丁舞」・「にんば」というそれぞれ曲調の異なる6曲が伝えられてきた。
  青年会が成立していた当時、太鼓連は毎月1日と15日のモノビ(農休みの日)の昼間や、神社や寺の祭礼の前には連日夜中まで神社の境内や公会堂に集まって練習に励んだ。そして、とくに神社の祭礼では太鼓連が宵宮で太鼓を披露するほか、当日は神輿の巡行に従い山車に乗ってムラ中を練り歩いた。明治期には山車が2台あり、1台は太鼓を叩くためのもの、また1台は仮面を被った若者達が「ひょっとこ踊り」などを踊りながら巡行するためのものであった。また、昭和20年(1945年)代まで下糟屋周辺のほかのムラの青年会とのあいだに「祭りづきあい」という付き合いがあった。他地区の祭日に太鼓連を中心とする青年会員が月番の準備する弁当を持ち太鼓を担いで行き、神社で太鼓を競争してナハを得てきたのである。この付き合いは成瀬村内では東富岡と行われたことがあるが、下糟屋と同様に太鼓連が組織された旧伊勢原町池端とはもっと親密な関係にあった。
  こうした伝統を持った太鼓連も、昭和30年(1955年)頃の青年会の解散に伴って一旦組織を解体した。しかし、その後14、5年を経た昭和45年(1970年)頃から、若い人々の親睦団体が何もない下糟屋で親睦団体を作ろうという動きが特に30歳前後の青年層の間から現れ始め、その手段のひとつとして太鼓連の復活の声が徐々に持ち上がったのである。しかし、太鼓連を復活されるにも太鼓は既に傷みが激しく、法被(はっぴ)などの衣装もなく、さらに以前から伝わってきた太鼓、横笛などの曲調を十分に記憶している人もほとんどなかった。そのため復活は一時頓挫しがちになったが、橋本幸男氏を中心に青年層の相談役にあたった人々がリーダーとなって自治会の役員たちに話をもちかけ、昭和52年(1977年)の春からようやく復活した。その太鼓連は旧来のような青年層だけによるものではなく自治会の有志により組織され、初めは顧問11名、賛助会員1名、会員30名で再出発した。傷んだ太鼓の張り替えや衣装作り、また山車の修復などに要した金額は100万円近くに上がったが、一部自治会からの支出があったとはいえ大部分は「お前たちがやるのなら」と届けられた寄付金によっている。また再発足当時、横笛の曲調を伝承するのは亀井正男氏1名だけで、池端の人の指導も受けたのである。
  再発足当時から太鼓連では太鼓・横笛・鉦などを小学生に習わせようという計画があったが、勉強を強いられる子供たちに太鼓連への参加を誘うことも難しかった。青年・中年層が昔からの音曲をマスターし得た頃にようやく7〜8人の高学年児童が太鼓連に参加し、すでに太鼓の叩き方だけは習得した。こうした児童を含めて太鼓連は約50名で組織されるようになり、会員は年額3000円の会費を納め、その会費と祭礼などであがるハナにより楽器などの維持と会の運営が賄われるようになった。



神輿

  下糟屋に現在ある神輿は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で以前の神輿が潰れ、それ以降に作られたものである。その神輿再建の中心を担ったのは当時の青年会である。青年会で当時の部落総代に神輿の再建を何回も願い出たが聞き入れられなかったので、米の販売などで貯えた青年会の資金と有志の家から募った寄付金で再建したのである。
  昭和30年(1955年)代の前半頃まで神輿の渡御が行われていて、青年会の35歳くらいまでの若い衆30人で担いだが、90貫という重い神輿なので50人くらいが交代で担いだ。渡御の行列は太鼓3名(担ぎ手2名、打ち手1名)、猿田彦1名(矛を持ち面をつけて足駄を履く)、榊2名(白木の枠に横木を渡し、中央に榊を飾り付けたものを前後で担ぐ)、神輿40〜50名、神主の順であった。渡御の順路は神社→宮坂→弥杉→宮坂→神社→中宿→本宿→下宿→菖蒲田→下宿→中宿→神社の順で、途中で神輿を降ろして休むところは弥杉、久保、丸山と中宿の境、本宿と下宿の境の4ヵ所くらいであった。近年では山車と子供神輿が出るようになっている。
  太鼓連の復活の声が上がった当時から、一部の人たちのあいだで神輿の巡行も復活させようという意見があった。しかし、神輿の修復に相当の金額が必要なこと、また昭和52年(1977年)に山車を復活させた時でさえ巡行には小田急線と国道246号線を横断するため警察の許可が簡単には下りず、折衝の末ようやく昔からの習慣だからということで承認された経緯から、神輿の巡行となるとその折衝も容易ではないことなどを理由に、まだ神輿の復活は自治会で公的な話題にはなっていない。



青年会

  成瀬地区においては明治44年(1911年)5月に成瀬村統一青年会が成立する以前から各集落に若者の組織があり、ムラの生活の中でさまざまな役割を担ってきた。この青年会に統一される以前の若者の組織は集落個々に名称を持ち、下糟屋では明治初期には一時「国民義勇軍」とも称したというが、明治40年(1907年)代には「若連」とよばれた。
  下粕屋の青年会は長男、二男を問わず15〜35歳の男子によって構成された。昭和30年(1955年)頃に解散するまでこの年齢幅は守られ、戦後の教育制度の改革後は中学2年生を終えると青年会に加入した。加入・脱退するのは1月15日の戦前には「お日待ち」とよんだ集会の席であり、この集会は昭和12,13(1937,1938)年に公会堂が完成する以前には多人数が入れる大きな家を借りてカミとシモに分かれて行われた。この集会で役員の改選やその年の事業計画を話し合い、そのあとに新入りの者を会場の上座に据え、卒倒するまで酒を無理強いに飲ませて無礼講を開いた。青年会に加入すると「一人前」とみなされ、ムラの各種の共同労働で家を代表することができた。青年会の定期的な集会はこの1月15日のほか、5月5日(成瀬村青年会の創立記念日)、そして高部屋神社の祭礼の前後であった。
  青年会の役員には会長・副会長・幹事の三役があり選挙で選ばれ、通常は役員には34,5歳の年長者が選ばれた。青年会の内部では例えば集会などでの席順は年齢順が守られ、年が上であることがひとつの権威となった。しかし、神奈川県の沿岸地方に見られるような年齢層によって幾つかの段階に区別される内部の名称区分はない。青年会では1月の集会の時に全員が籤(くじ)をひいて「月番」を定め、当番の月には種々の役割を努めることになっていたが、15〜35歳までと構成員に年齢幅があるため、若い者、とくに新入りの者は年長者に何かと指示され下働きに追い回された。また35歳までは婿養子にきた者も加入し、年少者と同様の扱いを受けた。
  青年会の会費の多くは青年会内部に組織された太鼓連に祭礼などであがるハナ(御祝儀)で賄われ、大正期から昭和の初期にかけては下糟屋字域内の田へ水を引く堀の土地を地主から借り、そこに会員が自宅から持ち寄った稲苗を植えて収穫し、その米を稲束のまま字内の家に買い取ってもらいこの金を会費に充てたこともあった。通常は8表、多い年には10表収穫でき、昭和初期の安いときで1表13円で売れた。
  青年会の役割の中心は祭礼の準備と後片付け、そして祭礼の花形である神輿や山車の運行、余興の開催である。大正期までは若連ないし青年会に入ると義太夫を習い、祭礼の余興として披露し、またその頃には現在の厚木市愛甲から師匠を招き「三番叟」から始まる神楽や芝居を習って披露したこともある。昭和30年(1955年)頃に青年会が解散したひとつの要因は、下糟屋内の道路に車の通行量が増し、高部屋神社の祭礼の時に青年会により長年立てられてきたカミ、シモ2ヶ所の幟が立てられなくなり、また神輿と山車の運行ができなくなったことという。現在、山車の運行だけは太鼓連の人たちにより復活したが、重量があり担ぎ手に少なくとも40〜50人を要する神輿の運行は、また逆に青年会の解散により不可能になった。
  これら祭礼の準備や遂行には青年会の成員がすべて参加し、祭礼の翌日に後片付けが済むと「ハチハライ」とよんで祭礼にあがったハナを計算し、祭礼の経費を差し引いた金と会費を出し合って、多くは伊勢原の料亭「伊勢作」を会場に慰労会をもった。ところで、明治の末まで下糟屋には旧宿場町の名残りとして「フカワ」・「イツツヤ」(屋号)など2、3軒の料亭が残っており、若者達は夜になるとこれら料亭の前の家に集まり、料亭の女中たちを冷やかしては主人に叱られた。時には水を掛けられたこともあり、そのような主人のところには祭礼の時に神輿を練り込ませ、憂さ晴らしをしたのだという。当時は休日に平塚などへ出て遊郭に足を運ぶ若者もあった。
  青年会は祭礼に関する役割のほかに、例えば成瀬村の連合運動会など村や集落の各種の全体的な行事での活動の中心となった。また、成瀬村青年会の下部組織として文集作りやスポーツ活動など自主的な活動も盛んであった。



糟屋地区

  高部屋神社は『延喜式』の神名帳に載せられた官社であるから、平安初期はもとより、それよりずっと以前から霊験あらたかなりと知られた神社であったと思われる。そして著名になった一つの理由としては当社が古代の交通路に面していたからであったと考えられる。相模の下流の相模平野の大部分がまだ沼沢であったころ、交通路の幹線としては箱根の足柄峠を超え、松田から音無川の渓谷を経て秦野に入り、それより善波峠を越えて笠窪串橋を通って糟屋に至り、東北に進んで相模川を渡ったものと思われる。高部屋神社は糟屋の往還に直接面して鎮座しており、旅人はいずれもその前を通って当社に参拝して旅の安全を祈ったことから、その名もおのずから遠方に聞こえたと考えられる。
  しかし、高部屋神社が神社としてもっとも勢力を持ち、広い信仰圏を保持した時期は、この付近が糟屋庄の中心地となり、当社が実力者であった糟屋庄司の厚い崇敬と庇護を受けるようになってからであろうと考えられる。当社はそのころには糟屋庄の惣社または大住大明神として、大住郡の代表的神社となっていたと思われる。
  平安末期から鎌倉時代にわたって「糟屋庄」という大きな荘園(中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態)があり、その範囲は大住郡の大部分におよぶほどで、相模国ではきわめて勢力のある荘園であったが、その中心地が「下糟屋」であった。この糟屋一帯の地域が『和名抄』に記載された相模国大住郡の諸郷のうちどの郷に属するかについては、村岡良弼氏の『日本地理志料』によると「日田郷」であるとしている。「三ノ宮、日向(ひなた)、糟屋、東富岡、上子安、下子安、坂本、大山の諸邑に亘って、糟屋ノ荘と称す。是れその地(日田郷)なり。」と記している。
  



下糟屋の歴史

  下糟屋は糟谷・粕屋(谷)とも記すが、明治前期には下糟屋村が正式に表記となる。古くは上粕屋村と一村をなし、室町時代の僧万里(ばんり)の著わした『梅花無尽蔵』によると「文明十七年(1485年)九月晦日、関本を出でて糟屋に宿す」とあり、そのころには上下糟屋の区別はなかったようである。それから百余年を経た天正19年(1591年)に村内の神社に下付された朱印状には「上粕屋郷」と記されてあるので、その中間の時期に始めて上下の区分ができたと考えられる。古くは毎月五・十の日に市が立てられたが、江戸時代の初頭には廃絶している。
  江戸時代当初は直轄地で、寛永10年(1633年)の地方直しにより旗本中川忠次・若林包盛・宇都野正長に分地され、残余は直轄地として残された。明暦2年(1656年)に直轄地を分割して旗本御手洗定重量となったが、元禄4年(1691年)にその子の四兵衛某は失心により職を解かれ、領地を没収されて直轄地に戻された。元禄10年(1697年)の地方直しにより直轄地の一部が岡部直好領となり、享保13年(1728年)に残りの直轄地が下野国烏山藩主大久保常春領となった。以後、旗本中川・若林・宇都野・岡部と烏山藩領の五給の村として幕末まで続いた。なお、若林氏領は天明年間(1781〜89年)頃に一旦上知された後、同氏に返還されている。検地は貞享2年(1685年)に直轄地のみを、成瀬五左衛門重頼・八木仁兵衛長信によって実施されている。
  下糟屋村は平塚大助郷になり、矢倉沢道の馬継がなされ、北は愛甲郡愛甲村へ一里、南は伊勢原村へ一八町の継ぎ立てをし、大山道では西側の上粕屋村へ一里、東側の戸田村へ一里の継ぎ立てをなした。文政寄場組合は伊勢原村外二四ヶ村組合に属した。高森村より矢倉沢道が村内に入り、集落の中央を東西に幅二間で通り田中村へと向かった。集落の西部で矢倉沢道が分かれる伊勢原道が幅二間で南に向った。また村の東部で戸田村から下落合村を経て通る大山道と、上谷村を経て通る田村道が矢倉沢道に合流し、共に道幅は二間とされる。集落の南側の淵を渋田川が幅五間で東西に流れ、ここにせきと橋と横町橋が掛かり、高さ九尺の堤を設けていた。集落の台地の北側を歌川が幅二間で流れ、ほかに筒川が幅二間で流れていた。村内の小名には「横町(よこちょう)」・「宮坂(みやさか)」・「琵琶久保(びわくぼ)」があり、高札場は一ヶ所であった。
  明治22年(1889年)に成瀬村ができると下糟屋は成瀬村に属したが、下糟屋の西方に隣接して「高部屋村」という一村があり、上粕屋などはこの高部屋村に属していた。これはむかし、この辺りが「高部屋郷」と呼ばれたことがあったとの故事に基づいてその地名を復活したものと思われるが、下糟屋は高部屋村ではなく成瀬村の方に編入された。

  
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