東大竹ひがしおおたけ

八幡神社

  八幡台住居跡の南東隣には老松に囲まれた大竹の鎮守「八幡神社」があり、御神体は束帯、馬上の2体である。祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)を祀り、境内社には事平神社(大地主命)と八雲神社がある。創立は寛文年間と伝えられ、享保20年(1735年)に本殿を新築、寛保2年(1742年)に拝殿と幣殿を造営した。
  江戸時代後期天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では大竹村(現東大竹)の鎮守は「若宮八幡宮」であり、神照山台品寺と号し大山八大坊の末寺である古義真言宗の「光明院」が管理していた。この外に「神明社」・「山王社」などの小祠があり、伊勢原村との境界付近には「市神社」が祀られ、同書には伊勢原村に市開設以前にあった市の名残と記している。
  寺院には曹洞宗で上粕屋村の洞昌院の末寺で薬王山と号する「東前寺」があり、村内に住む田中一族の先祖らしい田中佐渡守を開基とする。また、浄土宗の寺院で伊勢原村大福寺の末院で、千手山慈眼院と号する浄土宗の「大宝寺」がある。大宝寺の境内には千手観音堂があり、ここに納められている千手観音は字千手窪より出土したものと伝えられている。この他には「自徳院(曹洞宗)」や地蔵堂などもあった。随喜山願成寺と号する「十王堂」もあり、ここには十王坂から出土したとされる石仏の十王が安置されている。
  かつて八幡神社の境内にあった鐘楼には、源頼朝が寄進したと言い伝えられる鐘がかけられていた。無銘のため来歴は定かではないが、鐘の形から推して少なくとも慶長年間(1596〜1615年)以前のものといわれる。現在目にすることができる鐘は昭和46年(1971年)の市制施行を記念して地域の人々が新たに奉納したもので、古鐘は大切に保管されている。当社は明治6年(年)7月30日に村社に列格され、大正8年(年)7月11日に神饌幣帛料供進の神社に指定された。

八幡神社鳥居
手水舎
鐘楼狛犬
神楽殿
拝殿幣殿・覆殿
金比羅神社
皇大神宮
八幡台集会所境内


東大竹の歴史

  現在の「東大竹(ひがしおおたけ)」は江戸時代に「大竹(おおたけ/おおだけ)村」と称したが、明治6年(1873年)7月に大蔵省の指令により「東大竹(ひがしおおたけ/ひがしおおだけ)」村に改称した。大竹村は秦野の大竹村とまぎらわしい為に改称したといい、一方の秦野の大竹村は「西大竹村」と改称している。隣村の伊勢原村は、もとは東大竹村の秣場(まぐさば)と伝える。
  永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』に「中郡(なかごおり)大竹」とみえ、天正18年(1590年)4月の豊臣秀吉禁制には「大竹之郷」と記している。村名の由来は、古代には当地が大山信仰に伴う馬継の場で、「大駄家(おおだけ)」と記したことによると『中郡勢誌』にあるが、詳細は不明である。明治初年には田は一七町八反余、畑は六七町余で、畑がちの村であった。
  江戸時代当初は直轄地であったが、寛永10年(1633年)の地方直しによって揖斐政軌・大久保忠正領になり二給の村になった。宝暦6年(1756年)に大久保氏は当主忠延が溺死したことにより、領地を幕府に没収されて直轄地になるが、同10年(1760年)に下総国佐倉藩主掘田正亮領に編入され、以後幕末まで揖斐氏と佐倉藩の支配が続いた。検地は寛永3年(1626年)に中原代官の依田信政・坪井長勝・守屋行広・成瀬重治により実施され、この検地で伊勢原村を分出した。平塚宿の大助郷となり、文政寄場(改革)組合では伊勢原村外二四ヶ村組合に属した。
  村内には往還4本が通過し、田村方面より幅二間(3.6m)、大磯・平塚より幅一丈(3m)、伊勢原道が幅一丈(3m)と、この三本の道はいずれも大山道である。残りの一本は小田原道で幅二間(3.6m)で通る。村内の小名には「千手窪」・「谷戸窪」・「下窪」があり、高札場は1ヶ所であった。小名谷戸窪には十王坂と呼ばれる長さ一町(109m)の坂があり、小名千手窪・下窪には3ヶ所の清水が湧き、矢羽根川・谷川の水源になっている。村内には塚が2ヶ所あり、山王塚とならひ塚がある。

太鼓

  神輿渡御と同時に太鼓を積んだ屋台が巡行し、この太鼓は「競合祭囃子屋台太鼓(せりあいまつりはやしやたいたいこ)」といわれ、その音の響きの良さを競い合った。この太鼓のヒトカラ(1組)は笛1・大胴(大太鼓)1・シメ太鼓2・与助(擦鉦)1で構成される5人囃子であったが、この太鼓連は現在途絶えてしまっている。昔は3月に入ると若い衆が集まって太鼓の稽古をしていたという。
  昔は「田中」・「板戸」・「池端」・「馬渡」・「平間」・「西沼目(原之宿を含む)」・「城所(現平塚市)」などがツキアイ村になっていた。



神輿

  戦前まで神輿渡御の行列は剣−榊−神官−神輿の順に並んでいた。剣は木製のもので小学校1年生の子供1人が持ち、大人2人が介護として付き添い、榊には麻のシデ(垂)を付け小学校6年生の子供1人が持った。神官は7名位いたが、中心となる神主1名のみに従者が長柄の傘をさしかけた。現在は剣と榊の役はなく神官3名が乗車に乗り、神輿も自動車に載せて巡行し町内の要所で担ぐようになっている。
  神輿担ぎの中心となるのは15〜25歳までの青年会と26〜45歳の誠徳会で、いずれも男子結社であるが、誠徳会の方は光明院の3代目の住職であった森本本源氏の指導によって大正8年(1919年)に結成されたといわれる。また、近年に入り子供神輿も出るようになった。



例大祭

  『風土記稿』によると若宮八幡宮の例祭は旧暦の9月19日であったが、その後は4月4日(宵宮は3日で幟返し・ハチハライが5日)になり、平成の時代になって4月第1土曜日に変わった。宵宮には宮世話人が中心となり幟立てや鳥居の大注連縄張り、万燈の飾り付けや境内の整備などを行い、神輿が町内を巡幸する途中で休憩をとる「神輿行在所(あんざいしょ)」の設営や各町内の国旗掲揚などを実施する。
  昭和40年(1965年)頃までは茅ヶ崎から芝居をよび、昭和50年(1975年)代頃まで4月4日の例大祭に愛甲の神楽師をよんでいた。芝居の方が神楽よりも費用が倍以上もかかったので、芝居をよぶのは5年に1回位の割合であり、芝居の演目は「忠臣蔵」などであった。近年では歌手をよんで歌謡ショーやカラオケ大会を行うようになったという。
  戦前の例祭では草競馬が盛んに行われ、年寄りの伝承によると八幡神社の馬場は3回移動しているといわれる。『風土記稿』には若宮八幡社の例祭9月19日(旧暦)に「境外の馬場にて近村の民乗馬す」という記載がみられ、その後この草競馬は大正8年(1919年)頃まで続いた模様である。また、昭和63年(1988年)春に86歳で他界した葛?貫靜蔵氏が生前に「八幡神社に就いて思出」という一文を謄写版刷して関係者に配布した資料には、馬場の様子を「現在高圧線の通っている所を中心とし鳥居近くがスタート 山王塚前から谷戸へ行く道あたりが決勝線で大体三百m位で馬が六・七頭位竝んだかと思ふ 全面的に芝が植えられて平素は子供の遊び場で絶好の処であった」と記されている。
  昭和62年(1987年)の本祭の日程は午前9時30分から神社で式典を執行(神主は平塚八幡宮)し、その後は10時に宮発(みやだち)となり19時の宮着(みやづき)まで神輿1基の渡御が行われる。巡行途中で神輿を止めて供物を供えて式を行う行在所は「大原児童館」・「厚木信用金庫前」・「中央児童館」の3ヵ所であった。宮着の後には「昇殿儀」が19時30分に執り行われる。以下に町内の巡行経路と予定時刻を記す。

神輿巡行の予定時刻(昭和62年)
場所到着出発
神社(宮発)10:00
大原児童館12:3013:30
中央児童館15:0015:30
千津公会堂16:30
谷戸集会所17:30
八幡谷戸
稲荷久保
神社(宮着)19:00分

  東大竹の八幡神社の例大祭で注目されるのは、若い衆によってチマキ餅をまく行事が行われることである。チマキ餅は4月3日の宵宮に若い衆が神社でついた餅をちぎった白餅で、このとき神社と神輿行在所で用いるオソナエ餅も用意する。現在は機械で餅をつくようになっている。チマキ餅を3つの小さな目の俵に詰め、神輿が神社を出発する前に拝殿正面の屋根に大黒積みにして載せておき、これは神輿が無事に帰ってくるように祈願する意味があるという。そして夕方近くに神輿が還御して昇殿儀が終わると、若い衆は拝殿の屋根に上がって3つの俵を破り、チマキ餅を取り出して境内に集まっている人々にむかってまくのである。このチマキ餅を拾って食べると、風邪をひいたり夏病みをしないという。拝殿の屋根を銅板にしてからは俵を下に降ろして、拝殿前で若い衆が取り囲んで気勢をあげながらまくようになっている。
  このチマキ餅をまく行事は三ノ宮の比々多神社でも行われており、共通する行事であるといえよう。比々多神社では例大祭に行うだけではなく、5月5日の大磯町での国府祭のときに、神揃山の力石のところで「餅まき」の行事を行っている。


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