伊勢原いせはら

伊勢原大神宮

  「伊勢原大神宮(いせはらだいじんぐう)」は昭和61年(1986年)に変更された社名で、それ以前は伊勢神宮の祭神を勧請した「神明社」であった。創建は江戸時代初期の元和5年(1619年)または6年(1620年)と伝えられ、伊勢神宮の神々を祀る神社の一般称号であるため、「伊勢原」の地名の起源となったという説もある。江戸時代には神明社の境内に照見山と号する普化宗の「神宮寺」があり、当寺は武蔵国多摩郡新町村(現青梅市)の鈴法寺の末寺で、明治維新の神仏分離までは神明社の社僧をつとめた。
  正徳2年(1712年)に社殿を造営、享保16年(1731年)に大鐘を鋳造した。明治6年7月30日に村社に列せられ、明治40年(年)4月30日に神饌幣帛料供進神社に指定された。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると伊勢原村の鎮守は神明社で、内宮・外宮両社が並祀されていた。このほかに愛岩・虚空蔵・不動の合祀されたものや、稲荷、三峰、恵比寿その他の諸社があった。寺院には上記の社僧神宮寺(普化禅宗)のほか、村の南西端に浄土宗「大福寺」があり、田広山最勝院と号し、江戸芝増上寺の末寺で、開村当時の創建と伝えている。この他には当山修験の「大覚院」があり、知水山と号し、江戸青山鳳閣寺の配下とされる。また、飛地の字「城願寺」は入野村(現平塚市)に移転した寺の名称とされ、その寺跡が残されている。
  伊勢原大神宮は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」と「豊受姫大神(とようけひめおおかみ)」を祭神としており、天照大神が「内宮(ないくう)」に、豊受姫大神が「外宮(げくう)」にそれぞれ祀られている。これは伊勢神宮にならい両大神を両宮別々に祀ったもので、伊勢の内宮・外宮の神々を祀る神社は多く存在するが、伊勢と同様に内宮・外宮の二つに分けて社殿を設けている例は珍しい。

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伊勢原大神宮社号柱
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鳥居稲荷総社
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狛犬由緒
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手水舎神楽殿
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社務所参集所
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おみくじ結び燈籠
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内宮外宮
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旧内宮跡旧外宮跡
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春日神社御神砂
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車おはらい所


宵宮祭

  17時より宵宮祭が行われる。

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境内に設置された神籬式典に集まる関係者
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水で手を洗い清める紙で手を拭く
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式典が始まる境内を回り・・・
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神籬の前に到着神事が始まる
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内宮に向かい・・・お祓い
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宮司をお祓い巫女をお祓い
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役員をお祓い内宮での神事に向かう

  

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参道の露店境内の露店

  18時から20時までは日本舞踊会「葉月流」により日本舞踊が披露される。

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華麗な舞小さな子も踊ります
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多くの観客

太鼓

  「伊勢原大神宮子供太鼓連」による囃子は昭和43年(1968年)から奉納されるようになり、演奏曲目には「子供祭りばやし」、「子供昇殿くずし」、「子供伊勢原ばやし」の3曲があり、神輿が境内を出発した後は神楽殿と山車に別れそれぞれ演奏を続ける。
  また、「神奈川県青少年協会伊勢原太鼓部」は平成 年( 年)から参加し、伊勢原地方に古くから伝わる祭囃子で祭りを盛り上げる。伊勢原地方では数少ない「笛」・「鉦」もあり、また「オカメ」と「ヒョットコ」の滑稽な踊りが人々の目を楽しませてくれる。

伊勢原大神宮子供太鼓連神楽殿での居囃子
山車でも演奏青少年協会
祭囃子に笛が入るオカメとヒョットコの踊り


神輿

  昔は御祭神が女神と言うことで神輿はなく、山車の巡行のみが行われたようであるが、一時期東京にあったという神輿を担いだという。祭りに際し、氏子地域内十箇所にある山車が神社に集合し行列を組み、山車の上では娘達による華やかな日本舞踊が踊られたという。
  現在は全部で5基の神輿御業が行われる。

境内に並ぶ神輿宮神輿(氏子神輿保存会)
大神輿(相模睦会)子供神輿
子供神輿樽神輿


例大祭

  伊勢原大神宮の例祭は天保12年(1841年)の『新編相模国風土記稿』によれば、旧暦の6月15,16日に行われていたが、近代以降9月21,22日に変更され現在では21日前後の日曜や祝日となっている。かつては神楽および歌舞伎や相撲が奉納され、山車の上では日本舞踊が上演され大変にぎやかでったといわれており、近代以降も神楽は盛んで神楽師「萩原詳太郎」という人を招き奉納したといわれている。また、相撲奉納も盛んで大祭の22日に取り組みが行われていたそうで、子供相撲をはじめ本職の相撲取りを迎えたり、近郷近在の力自慢が出場していたという。仕事師に棧敷の組み立てを頼んで会場の設営を行い、9月21日にチョウヨウ(町用)が中心になって棧敷を1ツボごとにクジ引きで決め、棧敷は土俵の周りに4段位あった。奉納相撲には大相撲の十両クラスの力士数人を呼んで行う取組と、周辺の村々から参加する「地相撲」とがあった。地相撲の力士としてよく知られていたのは、平塚の「八幡山(やはたやま)」とか小田原の「日之出山」などで、平塚方面からは沢山の人が見物に来たという。9月21日の夕方には翌日相撲が行われることを知らせるフレ太鼓が町内を回っていた。この相撲奉納も大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で境内の土俵の4本柱や棧敷の材料が壊れてから中止となった。
  例祭の1日目の夕方から「宵宮祭」が行われ、2日目の午前中から「外宮例大祭」と「内宮例大祭」が順番に執り行われ、午後には「神幸祭(じんこうさい)(宮出し)」が行われ神輿渡御が始まる。途中には「日産バス停」と「こみや料亭」2箇所で「御旅所祭」が行われ、夕方に「還幸祭(宮入)」と「餅撒き」が行われる。その後は芸能人による歌謡ショーが行われる。



神幸祭と還幸祭(神輿渡御)

  

神幸祭宮出しが始まる
鳥居付近は台車で移動再び神輿を担ぐ
神輿渡御が始まる御旅所祭(日産バス停)
宮入り神輿を台車に載せる


伊勢原の歴史

  伝承によれば当地は大竹村(現東大竹)の秣場(牛や馬の飼料とする草を刈り取る草地)で、「千手原(せんじゅはら)」と呼ばれていたが、元和5年(1619年)または翌6年(1620年)に伊勢国の人が来て開墾した江戸時代の新田村であった。故郷の伊勢をなつかしんで伊勢神宮ゆかりの神明社を勧請・建立したことから、「伊勢原(いせはら)」と名付けられたとされる。江戸時代までは「いせばら」と呼ばれ、次第に村としての体裁を整えていったという。江戸時代後期の伊勢原村は大山街道の両側に軒を連ね、その多くは商店と旅籠やであった。人馬の継立も行い、毎月三・八の日には市もたって賑わうという商業の中心地であった。
  寛永3年(1626年)の検地により大竹村と分村し、その際の検地帳表紙に記す伊勢原が地名の初出となる。明暦2年(1656年)の検地帳では面積が一七町九反余りで、この内一六町三反余が畑地で、残りの一町六反は屋敷地で田地はなかった。また、大竹村に飛地1ヶ所があった。小名として「上」・「中」・「下」の3つに分れており、これらに宿を付して呼ぶことが多く、「町用(ちょうよう)」といわれる役があり、伊勢原大神宮祭も取り仕切っていたという。
  開村当初は直轄地であったが、寛永10年(1633年)の地方直しにより飯河盛政領になり、以後幕末まで飯河氏領として続いた。検地は寛永3年(1626年)に中原代官の依田信政・坪井長勝・守屋行広・成瀬重治により行われ、明暦2年(1656)に領主の飯河盛政によって再度実施された。『風土記稿』には正保2年(1645年)に検地が行われたと記すが、その形跡はない。伊勢原村は平塚宿の大助郷となり、文政寄場(改革)組合では伊勢原村外二四ヶ村組合の寄場(親村)を勤めた。
  村内には東海道辻堂村四ツ谷(現藤沢市)、大磯宿(現大磯町)と平塚宿(現平塚市)、下糟屋村より、3本の大山道が共に幅三間(5.4m)で村の南東部に入って合流した。そして村内を貫通して板戸村と田中村との境界へ抜けて小山方向に向かった。。また、村の西側の板戸村との境界には金目観音道が幅一丈(3m)で通った。当地は高台の頂部に開かれた村で、周辺に生活水を得る湧水点などはなく井戸水のみに頼っていた。
  村内に高さ三尺(90.9cm)の石神(しゃぐじ)塚があり、塚の上に大国主神を祀る。ここは検地に使用した縄などを埋めた所とする。また、飛地には牛塚という臥牛に似た塚もあり、伝承は残されていないが形状からこの呼び名になったとされる。神明社境内には大蔵石、御倉石と呼ぶ奇石がある。村内の湯浅家と山田家は村の草分けと伝え、旧家の加藤宗兵衛家は江戸時代より茶屋を営み、もとは甲斐国武田氏の遺臣で上野原城主(現山梨県上野原氏)の末裔と伝えられている。また、村内には神事舞太夫(しんじまいたゆう)の小林市太夫がいたことを、『風土記稿』では記している。


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