板戸いたど

八雲神社

  「八雲(やぐも)神社」は板戸の鎮守で須佐之男命(すさのおのみこと)・天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)・豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)を祭神とする。当社は八坂神社と同一系統の神社である。八雲の名は、尊がよまれたという「八雲立つ出雲八重垣つまごめに八重垣つくるその八重垣を」にちなんでつけられたものである。元来、板戸村の鎮守は安永(1772年)以前から「毘沙門社」とよばれ、毘沙門天(二尺余の木像 恵心作)を勧請した池畔の小祠であた。その池は毘沙門池として現存し、用水源として珍重され四季水が絶えず、流れて板戸川を造っている。
  江戸時代後期天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると板戸村の鎮守は「毘沙門社」で、このほかには「神明社」・「八大童子社」・「御嶽社」・「第六天社」なども祀られた。古老の言い伝えでは明治維新の神仏分離の際、毘沙門天は鎮守社の位置をはずされ、その代わりに村内の「稲荷社」・「牛頭天王社」・「神明社」の3社を合祀して「八雲神社」として現地に祀ったといわれる。そして、毘沙門社は八雲神社の境内に「毘沙門堂」として残されることになった。なお、板戸の毘沙門様に祈願すると流行病にならないといわれている。明治6年(年)7月30日に村社に列せられ、昭和4年(年)4月4日に神饌幣帛料供進の神社に指定された。
  寺院には古義真言宗で岡崎村金剛頂寺の末寺で摩尼山延命寺と号する「宝珠院」と、上粕屋村洞昌院の末寺で板戸山と号する曹洞宗の「浄泉寺」があった。この他に古義真言宗で金剛頂寺の末寺である「延命寺」があったが、寛永年間(1624〜44年)以降に廃寺となり、一説では宝珠院に合併したとも伝えられその跡が残されている。

社号柱鳥居
燈籠手水舎
拝殿本殿
毘沙門天鐘楼
国道246に面した境内


例大祭

  毘沙門社の例祭は『風土記稿』によると旧暦の6月22日であったが、八雲神社の例祭日は4月1日になり、現在は4月・・・。
  3月31日の宵宮には神社前の道路に幟が立てられ、この幟立ては板戸の小地域区分である「上ニワ」・「中ニワ」・「下ニワ」・「東ニワ」・「大塚戸」の5つの地区が年番で務めていたが、昭和61年(1986年)度からは固定した幟竿をつくったので当番制は解消されることになった。4月1日の本祭りは午前中に八雲神社で氏子総代や自治会長らが集まって伊勢原大神宮の神主により式典を執行したあと、午前10時頃に神輿1基が出発し町内を巡行して午後3時頃に還御となる。板戸の神輿は昭和40年(1965年)頃から出るようになった樽神輿で、同じ頃から山車も1台出るようになっている。4月2日はハチハライで、幟を取り外してから関係者は神社で御神酒を頂いて直会となる。
  以前は、厚木市内から神楽社中が来てお神楽を上演したり、神輿を担いだりして大変賑やかであったが、最近ではお神楽のやり手もなく、準備等に要する人手も不足したことなどから祭典のみが行われている。

太鼓

  板戸では昭和15年頃まで「ツキアイ村」といって、各神社の例祭に相互に往来して太鼓を競い合い、「東大竹」・「田中」・「池端」・「三ノ宮」などがツキアイ村となっていた。以前は「太鼓連」であったが、現在は「太鼓保存会」というかたちで継承されている。
  板戸太鼓保存会は伊勢原観光道灌まつりに参加する。



板戸の歴史

  永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』に中郡板戸とみえる。『中郡勢誌』によると村名は毘沙門池に由来し、ここに毘沙門天が祀られるとその祭祀用の供米を作る斎田(いみた)が設けられ、そこを斎田所(いみたどころ)と呼んだのが次第に訛って村名になったと伝えるが、詳細は不明である。明治初年には田は二四町二反余、畑は四四町一反余で、畑がちの村であった。小名には「片町」・「殿村」・「池ノ谷戸」・「東庭」・「二ツ谷」・「稲荷殿」・「稲荷前」・「中庭」があり、高札場は2ヶ所であった。
  江戸時代当初は直轄地であったが、寛永10年(1633年)の地方直しにより大岡直利と戸田政次領になり、残余は直轄地になり山給支配となる。なお、戸田氏分は西富岡村との越石分で高七石で、寛文年中(1661〜72年)に戸田氏領は分知され戸田政道に譲られた。元禄10年(1697年)の元禄の地方直しにより直轄地が旗本安藤重玄領となり、この山給支配が幕末まで続く。検地は延宝6年(1678年)に直轄地が成瀬五左衛門重頼・八木仁兵衛長信によって実施された。助郷は平塚宿の大助郷になる。また、鷹匠通行の際には伊勢原村へ人馬を出し善波村まで継いだが、これを助村と呼んだ。文政寄場(改革)組合は伊勢原村外二四ヶ村組合に属した。
  村内の中央を東西に幅一丈(3m)の矢倉沢道が横切り、北東部には幅二間(3.6m)の大山道が通って境界になった。この大山道には30軒程の商家が軒を並べ、「片町(かたまち)」と呼び賑わった。他に小田原道が幅一丈で村内を通る。村の北西部の字「池の谷戸」に池があり、江戸時代にこの池は村々の人々に毘沙門池と呼ばれた。ここから2本の水路が流れて村内の田を潤し、末流で合流する板戸川が村の西側を流れる。また、字「大塚戸」に二間(3.6m)四方の塚が残る。


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