池端いけばた

御嶽神社

  「御嶽神社」の祭神は「日本武命(やまとたけるのみこと)」で、境内社には「稲荷神社」と「天神社」が祀られている。 天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると、沼目村の小名の一つであった池端村の鎮守は「御嶽社」で、天正19年(1591年)に社領として三石が朱印地として与えられた。現在は「御嶽神社」と称している。小名池端村には江戸時代初期にここを領した水野忠守・忠元父子の霊を祀った熊野社があり、その子孫で江戸時代後期に幕府老中を勤めた水野忠邦が造営した社殿があった。
  御嶽社の別当は鎌倉建長寺の末寺「金殿蔵福寺(臨済宗)」で、応永2年(1395年)の起立と伝えられる。この他の寺院には同じ建長寺の末寺の「沼目山泉龍寺」と「御嶽山想寿寺(廃寺)」、村内蔵福寺の末寺の「華蔵山ハ持庵(院)」があった。明治初年に御嶽神社と改称し、明治6年7月30日に村社に列格された。

鳥居水鉢
参道石段
燈籠鐘楼
拝殿本殿
境内


例大祭

  『風土記稿』によると御嶽社の例祭は旧暦の8月22日であったが、その後は10月5日に移行しており、現在はこの時期に雨がよく降るということで4月9日に変更している。御嶽神社では、戦前まで4月9日の例祭に若い衆が中心になり村から神楽金をもらい、愛甲から神楽師をよんで奉納し、村の人々は境内にムシロを敷いて見物した。
  戦前までは例祭のときに草競馬が盛んに行われており、池端の坂間建嘉氏は実際に競馬に出場したことのある数少ない経験者である。坂間氏が馬に興味を持つようになったのは父親の嘉助氏(大正7年没、66祭)が伊勢原町で馬車屋をやっていた「藤屋」から馬を借りてきて「あずかり馬」をしていたことに始まる。その後、坂間氏が19歳頃に父親が2歳馬を買ってくれたので、本格的に乗馬の訓練をして競馬に出場するようになった。坂間氏が出場したのは岡崎の岡崎神社、東大竹の八幡神社、三ノ宮の比々多神社、田中の十二柱神社であり、また秦野の方で行われてた競馬にも出場した。競馬はだいたい朝の9時頃から夕方までやり、1レースは数等で走り、1着になると賞品として9尺位の大きな旗をもらえ、それで競馬のことを「旗競馬」といったりした。競馬の開催が近づくと馬に麦1俵を食わせたり、餌に糯米を入れて食わせたりしないと腹がしまった「走り馬」にならないといわれた。坂間氏の競馬暦は5年程で、大正7年(1918年)に父親の嘉助氏が亡くなると家督を継いだので競馬も止めざるをえなくなったという。

太鼓

  池端の太鼓は明治年間に平塚市城所から習ったといわれている。池端の太鼓はヒトカラ(1組)で「笛1名」・「大胴(大太鼓)1名」・「シメ太鼓(小太鼓でツケ太鼓ともいう)2名」・「与助(擦鉦)1名」で構成される五人囃子であった。笛は全体の指揮者のような重要な位置を占めるが、笛の習得は難しくものになるのは15人に1人位という。与助は大胴とシメ太鼓の間を取る役である。太鼓はテンドンの音であり、テンはシメ太鼓、ドンは大胴で両者のリズムを合わせる必要があり、格調の高い太鼓の音色を「歯切れのよい太鼓」といった。
  五人囃子は次に示すような5段階になっており、全体の所要時間は1時間以上かかる。現在では後継者がなく途絶えてしまったが、以前は成瀬地区の下糟屋へ伝えられたようである。
@打ち込み・・・太鼓のみで笛・鉦は入らない。このとき「神馬(じんば)(馬鹿踊りともいう)」のリズムで「ヒョットコ」と「オカメ」の面を付けて踊ったりすることもある。
A屋台囃子・・・ここでは「キザミ(刻み)」→「屋台囃子」→「セメ(攻め)」→「屋台囃子」→「セメクズシ(攻め崩し)」→「乱拍子」の順である。これが終わると少し休憩をとる。
B小物(艶物(つやもの)ともいう)・・・ここでは「聖天(しょうでん)(昇殿と書く場合もある)」→「神田丸」→「下(さが)り葉(は)」→「四丁目(しちょうめ)」→「神馬」→「神枕(かまくら)」の順である。
C屋台囃子・・・Aと同じ
D総括りの太鼓・・・以上の@〜Cまでを何回も繰返す。
  昭和15年頃までは各神社の例祭に相互に往来して太鼓を競いあう「ツキアイ村」があり、池端では「伊勢原」・「田中」・「東大竹」・「板戸」・「下糟屋」などがツキアイ村であった。
  池端太鼓連と池端太鼓樹に亜会は伊勢原観光道灌まつりに、まが玉祭には池端太鼓樹に亜会のみ参加する。



池端地区

  池端村は一村をなしてはいたようであるが、風土記には沼目村の小名となっている。


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