西沼目にしぬまめ・原之宿



八坂神社

  「八坂神社」は西沼目の鎮守で、祭神は素盞之男命(すさのおのみこと)を祀る。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「天王社 小名萱野村の鎮守なり」と記されており、かつては沼目村の小名の一つである萱野(かやの)村の鎮守であった。現在は紀州の熊野権現と比叡山の山の神である山王さんの両方を祀る神社になっており、八坂神社は通称「天王様」といわれ、神社のあるところからは天王原という。別当は本山修験で小田原玉龍坊霞下で、祗園山(ぎおんざん)天王寺と号す「大蔵院」がつとめた。江戸時代に相模国では一番強力な勢力を誇った山伏、小田原在住の玉滝?坊の配下だったのがこの大蔵院である。また、境内の社殿背後には「天神社」・「金比羅社」・「稲荷社」・「不動社」が合祀されている。
  創建時期は不明だが、北条時代(1200〜1300年頃)に京都祗園八坂神社を信仰する有志が、分社をこの地に勧請したものと考えられる。爾来、天王社(お天王さん)と呼ばれ信仰を集め親しまれてきた。神体は行基菩薩作の木像で、高さ一尺四寸三分(47cm)と伝えれらる。天正19年(1591年)11月に御朱印状により社領九石を賜り、明治6年(1873年)7月30日には村社に、大正5年(1915年)2月8日には神餞弊帛料供進神社に指定された。
  『新編相模国風土記稿』で沼目村を見てみると当時既に事実上独立していたかと思われる池端村(現在の池端)が沼目村の小名に含まれていた。沼目村全体の鎮守はなかったようで、小名萱野村の鎮守が「天王社」、小名柿窪村(現在の東沼目)の鎮守が「日月社」であった。神社はこのほかに「稲荷社(2社)」・「神明社(例祭9月15日)」・「諏訪社」・「熊野社(例祭5月1日)」があり、寺院には「泉龍寺(臨済宗)」・「想寿寺(臨済宗)」・「総持俺(臨済宗)」・「三福寺(浄土宗)」・「真福寺(古義真言宗)」・「蓮華寺(法華宗)」・「天徳寺(黄檗寺)」のほか修験の「勝学院」があった。このほかに廃寺となった「明覚寺」や「東淵寺」の跡があり、小名萱野村に入定塚(にゅうじょうづか)があった。字八町耕地の東淵寺跡には当時既に枯れてしまっていた「船繁ぎの松」という松の古木があり、沼の渡船場跡と伝えられ古閑の渡しと呼ばれた。   

鳥居八坂神社
社号柱鳥居
狛犬石碑
由緒銅鐘(県重要文化財指定)
燈籠神楽殿
拝殿覆殿
社務所天王松
神輿殿石祠
境内沼目児童館

  境内の銅鐘(どうしょう)の製作年代は室町時代の応永10年(1403年)で県の重要文化財に指定されており、中世の相模国・武蔵国を中心に活躍した相模鋳物師(いもじ)である物部(ものべ)氏の後継者的存在であった清原氏の一族と考えられる和泉権守恒光(いずみごんのかみつねみつ)の作品である。また、境内にはかつて「沼目の天王松」と呼ばれ、当時の町の天然記念物に指定されていた大きな黒松(幹周4.5m、高さ25m)があったが、昭和49年(1974年)に枯死してしまった。



例大祭

  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると天王社の例祭日は旧6月15日であったが、八坂神社の例大祭は4月14日で、平成14年(2002年)からから4月の第2土曜日になっている。前日の宵宮に幟立て、本祭りの翌日には幟返しが行われる。神社の幟は氏子総出で行っていたが、現在はクレーン車を利用して立てている。
  神輿の還御が済むと神楽殿で芝居が行われ、芝居は平塚市から呼んできている。かつては神楽を奉納しており、大勢の見物客で賑わったという。御供の儀礼も行われ、祭りが終わると氏子全戸にオソナエ(オスワリ)を切って分け与え、ハナ(祝儀)を掛けた人にも分けたという。オソナエの分配は4月15日のハチハライのときに行っている。例大祭が終わってから、昔は「がっかり祭り」といって4月16日に花見にでかけた。平塚市の「金目」をはじめ「長持」・「片岡」などが桜の花見の場所になっていたのである。

太鼓

  太鼓連は西沼目と原之宿が合同で結成した「祭り保存会」が中心となって継続されており、太鼓はヒトカラ(1組)で笛はない。太鼓はいわゆる「馬鹿囃子」が中心である。
  戦前まで祭における「ツキアイ村」は「東大竹」・「池端」・「上・下平間」で太鼓連の交流があった。



神輿

  本祭りには御輿の渡御が行われるが、昭和10年(1935年)頃までは「榊(子供が持つ)」・「薙刀」・「弓矢」・「太刀」・「挾箱」・「神輿」・「神職」・「宮世話人」といった行列が組まれていたという。御輿の巡行経路は「八坂神社」−「神の池」−「清水町」−「台町」−「荒区町」−「原之宿(三福寺)」−「牛塚(小田急小田原線伊勢原駅付近)」−「八坂神社(宮入り)」であった。現在は牛塚へは行かず、原之宿(現在は諸伏茂家の前に移っている)から八坂神社へと向かう順路になっている。
  神輿の御旅所は「神の池」・「荒区町」・「原之宿」の3ヵ所である。御旅所には4本の笹竹を立てて注連縄が張られ、そこに神輿を安置して祝詞が奏上され、手桶に入れて持ち運ばれた御神酒が振舞われる。池の神は沼目3丁目にあり、神輿を担いだまま池の中に入ったのである。以前は神社から神の池までは神輿を担いで渡御していたが、現在は八坂神社の参道までは神輿を担ぎ、その後は自動車に載せて巡行する。かつて宮入は夕方になったが、現在は午後3時頃である。



沼目の歴史

  東側に水田が広がる沼目村は伊勢原台地東部に位置し、古代に作られた『和名類聚鈔』に記される「渭辺郷」の地に否定される。また、『延喜式』の諸国馬牛牧に記される相模国『高野馬牛牧』の地として、馬牧は池端に、牛牧は沼目に設けられたとされる。かつては沼辺郷・沼辺村と呼ばれた時期もあったが、天正19年(1591年)に鎮守神明社に宛てられた朱印状には沼目と記されている。『風土記稿』や『中郡勢誌』によれば、村名の由来はかつて村の周囲に多くの沼があったことによるとされる。
  天正18年(1590年)の徳川氏関東入部当初、水野忠元領と直轄地の二給になる。元和年間(1615〜24年)に忠元は領地替えになり直轄地になったが、元和7年(1621年)にそこが分割されて近藤秀用領となった。寛永2年(1625年)に残りの直轄地は旗本戸田由利領になったが、間もなく失態を咎められて領地は没収され直轄地に戻された。寛永8年(1631年)に近藤領では秀用の子貞用が父の遺領継承の際、従兄弟の用将に領地を分割した。寛永9年(1632年)には直轄地が分割されて土屋之直領になり、翌寛永10年(1633年)の地方直しにより残りの直轄地が分割されて大久保忠正領となった。寛文6年(1666年)に残りの直轄地が三河国中島藩主板倉重矩領になったが、寛文12年(1672年)に重矩の下野烏山藩への領地替えにより再度直轄地に戻された。
  元禄10年(1697年)にその直轄地は地方直しにより加藤正峰・高麗高演・小河常重・松平忠勝に分割され、近藤二氏と土屋・大久保・加藤・高麗・小河・松平氏の支配する八給の村となった。この後、宝永4年(1707年)に松平忠勝は死去によって領地を没収され、ここは宝永6年(1709年)の地方直しにより勝田典愛領となった。宝暦6年(1756年)には大久保領が当主忠延の溺死により幕府に没収され、ここも宝暦10年(1760年)に下総国佐倉藩主堀田正亮領となった。前記の6氏と勝田氏と佐倉藩領は、以降幕末まで続いた。
  検地は文禄3年(1594年)に代官頭伊奈忠次により、後の近藤・土屋氏領に実施された。また、延宝6年(1678年)に成瀬五左衛門重頼・八木仁兵衛長信により、後の小河・高麗・加藤・勝田氏領に実施された。沼目村は平塚宿大助郷となるが、小名池端村も同様に平塚宿大助郷とされている。文政寄場(改革)組合では、池端村とともに伊勢原村外二四ヶ村に属した。
  沼目村の小名には「池端村」・「柿窪村」・「萱野村」があり、高札場は8ヶ村でった。村内を大山道(幅二間)と中原道(幅二間)が通過し、このうち前者の大山道は村内で分かれ、日向道(幅九尺)で田中村へ向っていた。河川は村の北西部を筒川が通り、ここから二本の用水路を村内に引き込み、それぞれを五段田堀と砂田堀と呼んだ。


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