東沼目ひがしぬまめ

日月神社

  「日月(にちがつ)神社」は東沼目の鎮守で、「国生み」の二神「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」・「伊邪那美命(いざなみのみこと)」と「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」、「月読命(つきよみのみこと)」を祭神とする。地元では日天(太陽の神格化 印度神話)さん、月天(月の神格化 印度神話)さんとよぶ人もあるので、神仏習合で農耕守護の神としてその二天が祀られた時代もあったと思われる。また、境内社には「金刀比羅神社」と「厄神社」がある。。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には「日月社 小名柿窪村の鎮守なり、神躰石二顆を置く」とあり、沼目村の小名の一つであった柿窪村が「日月社」を祀り御神体が石であることを伝えている。また、神楽殿も設けられていた。小名柿窪村に明覚寺跡があり、岡崎金剛頂寺の末寺だったと伝え、ほかに東淵寺跡がある。明治6年(1873年)7月30日に小名柿窪村の村社に列格された。昭和58年(1983年)5月には不慮の火災によって社殿が焼失したが、氏子崇敬者の寄付により翌59年(1984年)に新社殿が再建された。

日月神社社号柱
鳥居神社由緒
疫神社石燈籠
拝殿覆殿・幣殿
神楽殿石碑
境内東沼目会館(社務所兼)

  鳥居と石段の間にある「疫神社」は江戸末期より各地にコレラなどの疫病を鎮めるため、古来医療の神として信仰の篤い「大物主命(おおものぬしのみこと)(別名大国主命(おおくにぬしのみこと))」を斎奉ると伝えられている。因みに明治18年(1885年)1月に東沼目村氏子中によって祠再建の折の記録に、「鎮疫神」の御威徳を賜り氏子の安全を守り幸福を祈願したとある。



例大祭

  『風土記稿』によると「日月社」の例祭日は旧6月16日で、その後は日取りが幾度か変えられており、古老の記憶では戦前に4月16日の春祭りから9月16日の秋祭りとなったが、この秋祭りは10月になったこともあるようである。現在は4月29日(昭和の日)である。4月28日の宵宮では18時から21時まで、2台の山車で太鼓を囃子ながら東沼目地域を巡幸する。
  大祭当日は10時から式典が始まり、三ノ宮比々多神社の宮司により執り行われる。10時30分に宮出しが行われ、15時30分まで町内を巡行する。お昼は途中にある大田青少年広場で一度解散し、神社に戻ることなく各自で昼食をとる。昔は本祭りに御供のオソナエを氏子に分配していたが、新住民の増加によって氏子世帯が多くなったために、分配はやめて神職にオソナエを全部あげるようになっている。

宵宮は2台の山車で巡行
式典式典を見守る子供達
お祓い休憩所でお菓子をもらう子供達
大田青少年広場で昼食境内の露店


神輿

  神輿は子供用の樽神輿で、近年では車輪の付いた台などに載せて曳く地区も多いが、東沼目では「ワッショイ」という掛け声と共に元気良く神輿が担がれる。

子供用の樽神輿宮出し
「らんの家」で休憩町内を渡御

囃子

  東沼目の太鼓は一時期途絶えていたが、「東沼目太鼓連」を昭和55年(1980年)に発足させ、現在では「東沼目太鼓保存会」と改称し祭囃子の伝承に努めている。昔は笛や鉦があったらしいが、現在は太鼓のみが継承されている。
  練習は4月の中旬から('08年度は13日から)宵宮前日まで木曜日以外毎日行い、タケダデンキ前の電柱に太鼓をくくりつけて太鼓を叩く。練習では音符で表記した譜面を使用し、練習時間は18時から21時で、新しく練習に参加する新人は20時までになっている。
  大祭では子供が中心に叩くが、宮入後は主に大人が中心になって叩く。山車をばらす間は境内の木に太鼓をくくりつけて、祭りの最後まで叩き続ける。近年では専用の台に太鼓をセットするのがほとんどだが、このように柱に太鼓をくくりつけて演奏するところは珍しい。
  演奏する曲目は「相模囃子(ばかっぱやし)」の1曲で、ぶっこみも演奏されない。「そーらよ」の掛け声が印象的で、通常6回繰返す「チャンチャラスコスッチャンチャン」のフレーズも、大胴の叩き手により6〜15回と回数にばらつきがあるのも特徴である。

2台の山車(軽トラック)宮出し
「らんの家」で太鼓の披露町内を巡幸
宮入り後の競太鼓手際よく太鼓を木にくくりつける
木を囲んで囃す山車をばらす
囃子


東沼目の歴史

  沼目村は永禄2年(1559年)に村というかたちが出来たといわれ、その中の3つの集落は「池端村(現在の池端)」・「柿窪村(現在の東沼目)」・「萱野村(現在の西沼目)」といい、特に池端村は沼目村の枝郷となっていたようである。明治22年(1889年)に町村制が施行されたときに池端村は伊勢原に行き、大田には入らなかったという。この事は大きな問題となり、一週間近くも蔵福寺で炊き出しで会議が開かれたという。
  東沼目の戸数については明治9年(1876年)当時は45戸で、寺院が3ケ寺であった。大正9年(1920年)の国勢調査では42戸で、昭和44年(1969年)頃は90戸、昭和50年(1975年)には380戸、さらに昭和62年(1987年)では612戸であった(つきみの団地は含まず)。
  明治30年(1897年)頃の道路状況は非常に貧弱であったようで、上谷方面からは下糟屋に出て池端をまわって来て、また下谷からは今の県道伊勢原藤沢線(いわゆる八丁耕地)をまわって来た。その頃は上谷と沼目の間を流れている筒川には丸太3本を並べた橋が架かっていただけで、車などは通れなかったようである。その後は順次改良されたが、大田の東部や東沼目から西沼目、原之宿、伊勢原方面に行くには雨でも降れば滑ってしまうような急坂を登って行かなけれならなかった。
  大正14年(1925年)から昭和3年(1928年)にかけて行われた耕地整理によって、現在のような耕地内の道も地区内の道も立派になった。その時に現在の大田小学校前から伊勢原に行くバス通りのつきみの団地前の大きな坂ができ、それまでの他界大地を切り割るように造られた。その際に出た土は小学校の校地拡張のために埋め立てに利用され、その完成の時が昭和3年11月の昭和天皇の即位式とと一致したため「記念坂」と名付けられ、惣持院の入り口に記念坂という塔が立てられた。


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