善波ぜんば

三嶋神社

  「三嶋(みしま)神社」の祭神は「大山祇命(おおやまつみのみこと)」・「誉田別命(ほんだわけのみこと)」・「倭建命(やまとたけるのみこと)」であり、境内社には「八坂神社」・「稲荷社」・「金毘羅社」・「秋葉社」・「山之神社」がある。創建は大治元年(1126年)9月29日と伝えられ、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると古くは善波の郷内に「三島社」・「八幡社」・「御嶽社」が各所にあり、それぞれ薬師・弥陀・愛染(あいぜん)を本地仏(ほんじぶつ)としていたという。慶安4年(1651年)に「三島社」は「八幡社」と「御嶽社」を合祀(相殿)して御嶽山中に移遷したが、この地は山の中腹で風烈により社殿が度々破損したため、寛文7年(1667年)に善波太郎重氏の居館跡といわれる現在地に移転したものとされる。
  この時、旧社地御嶽草山に社守の宅を造営しようとしたところ、地中に石槨があり、枯骨、大刀二振、矢鏃、瓶子などが出た。鍛冶康継はこの太刀を模して雷電落、至瑞の太刀二振を造り社宝とした。八幡縁起中に八幡は善波重氏の霊を、御嶽はその妻を、三島は重氏の舅紀州熊野新宮の社人の霊を重ねお祀りしたと書かれている。
  この他の神社には村民持の「天神社」・「神明社」・「山神社」・「秋葉社」・「金毘羅社」・「諏訪社」などがあり、寺院には「勝興寺(しょうこうじ)」があった。曹洞宗西田原村香雲寺末の勝興寺は慶安元年(1648年)に御朱印により寺領一二石の寄進を受け、勝興寺持に「阿弥陀堂」・「稲荷社」・「天王社」があった。また曹洞宗「長昌院」は廃頽し、慶長年中に北矢名村に移転し寺蹟のみが残されている。
  天正11年(1583年)5月に北条氏より社領二貫文、天正19年(1591年)11月には朱印状により社領一石を寄進された。寛文7年(1667年)に草山兵庫が社守になり、後に長く続いている。明治6年(年)7月30日に三島神社と改称し、村社に列せられた。明治32年に再建し、昭和41年(1966年)に現在の覆殿・幣殿・拝殿を新築し、自動車参道も完成した。神楽殿は大正3年3月の建造である。
  三嶋神社にはかつて獅子ヶ窪谷戸に宮田があり、名義上三嶋神社のものであったが、実質上は善波52軒の共有財産といえる。付近の宅地造成によって宮田は消滅したが、こうした所有関係から宮田の売却はなされず現在公園となっている。この宮田は希望者が交代で耕作を行い、耕作者は収穫した米から年貢を宮総代に収めていた。なお、『風土記稿』によれば、社殿の現在地への遷座(天皇または神仏の座を他所へうつすこと)と同時に神主宅の築造と神領田の寄進が行われており、宮田はこの社殿の神領田に連なるものと考えてもよいかもしれない。

三嶋神社表参道
裏(自動車)参道両部鳥居
燈籠水鉢
拝殿覆殿・幣殿
本殿諏訪社
神額・三嶋神社神額・三社宮
神楽殿倉庫
石祠(社殿左手)石祠(社殿裏手)
石碑(社殿左手)石碑(社殿左手)
神社由緒境内


宵宮準備

  ここからは平成29年(2017年)3月25日の土曜日に行われた、大祭前日の準備の様子を紹介する。集合時間は8時30分であるが、準備は8時頃から始まり、定刻の8時30分になると宮総代の挨拶で、改めて準備が再開される。準備はまず最初に山車の飾り付けや幟立てを中心に行われる。

裏の参道を上り朝8時にお宮に到着
8時半集合予定ですが社殿の扉と
神楽殿のシャッターを開け準備が始まる
山車用のトラックが到着し神楽殿前に寄せる
あおりを開き荷台から荷物を降ろして
神楽殿の前へシャッターを順番に上げる
荷物は全て太鼓関係の様です
常設の櫓の下部は便利な収納スペースです
集合予定の8時30分になると宮総代の挨拶
本格的に準備が始まりますまずは神楽殿に収納してある
太鼓の山車を外へ出し
トラックの荷台へ載せる
社殿内では掃除が始まるこちらは酒屋へのお会計
太鼓枠を運んで山車に設置
椅子や太鼓の箱を
荷台へ戻すとトラックを移動させ
社殿の西側へとめる
こちらの蓋を開けると幟竿用の穴が
太鼓の山車はロープでしっかり固定
社殿では扉を外す神楽殿から
支柱を運び出し諏訪社の方へ移動
2本めの支柱を運び出し
境内の入口付近へ置く諏訪社近くにも穴が
さらに3本目の支柱を運び出し
西側の穴の付近に降ろすと
最初に東側の支柱に鉄の棒を通し
持ち上げて穴の中へ
慎重に下していき支柱を立てる
社殿にはのしを書く机山車のトラックのアオリには
善波太鼓連の幕を垂らす
支柱と穴のすき間には楔を入れて固定
社殿の右手にある物置から
幟竿を引き抜き神楽殿前に置く
2本目の竿も抜き出し神楽殿前へ
山車には前後にも善波太鼓連の幕を垂らす
もう一本竿を引き抜き合計3本に
竿を1本持ち上げて境内を移動
諏訪社の方へ向かい準備した支柱近くにおろす
2本目は入口付近に移動し丸太をかませる
竿の先端に付ける竹も神楽殿から運び出す
山車では太鼓枠を固定竹を竿に差し込み
紐で固定先端には榊を挿す
思い出しながら縛りますこちらも念入りに縛ります
幟を引き上げる輪っか諏訪社側でも竹をセット
常設の太鼓櫓ではシャッターを開け
窓を開けると提灯を付けて行く
こちらは水鉢を洗浄幟を昇降させる部材を取り付け
幟竿の準備が整うと根元を支柱の間に入れ
丸棒を通して固定し3方向でロープを張る
1本は神楽殿の南側から1本は神楽殿の北側へ向かい
木に回すロープの準備が整うと
幟竿を持ち上げ梯子で持ち上げながら
慎重に竿を立てて行く
善波では昔ながらに
人力のみで幟立てを行います
途中で桜の枝が引っ掛かりましたが
何とか引き上げ竿はほぼ垂直に
支柱の間に収め貫を打ち込む
境内に冷蔵庫を積んだ軽トラックが到着
ロープはそのまま木に結び付ける社殿にテーブルを運び込む
枝に掛かったロープを外しもう一方の幟立てに取り掛かる
幟竿が干渉しない様に東側→西側の順に
幟立てを行います支柱を慎重に穴の中へ
竿を神楽殿前から運ぶ穴のすき間に楔を入れる
竿の先端を西へ向けて置く楔をカケヤで打ち込む
山車では締太鼓を調整し枠に取り付ける
竿の先端に竹を差す幟立ての取材は昨年の
御門に続いて2回目です社殿前では休憩の準備
神輿は社殿内で保管宮総代は玉串の準備
竿の準備が整うと支柱に固定し
西側の竿を立てて行く
神楽殿の両側からロープで引っ張りながら
竿をゆっくりと垂直にすると
貫を挿して固定東西の幟竿が立ちました
山車では締太鼓と太鼓枠をロープで固定
桜の枝が引っ掛かるので木に登って枝を切り落とす
次は諏訪社の方へ移動櫓裏には枝を集める
山車では大太鼓のセット柱にロープで結び付ける
こちらは日の丸用の竿です竿は北東向きに寝かせる
先端の竹筒の準備社殿では女性陣が花づくり
神楽殿横のシャッターを開け中から山車を引き出す
かつてはこの山車を祭礼で曳いていました
日の丸の竿を立てて貫で固定
諏訪社の鳥居に注連縄を張る山車を押して
社殿前を通過し常設の櫓の横へ
梃の原理で山車を持ち上げ山車の位置を微調整
最後に傾きを直すために角材を入れ込む
舞台から階段をおろし柱を立てる
諏訪社近くの竿では日の丸を揚げる
一方、神楽殿付近ではなにやら穴を掘っています
角棒を四角形状に組んでいく
幟竿前ではシートを広げ幟を取り付ける
ロープを引っ張り幟を上げて行く
こちらは神輿の行在所用に忌竹の土台を軽トラの荷台へ
神楽殿から補強されたベニア板を取り出す
軽トラが行在所へ向かってお宮を出発
ベニア板を4枚枠へはめ込む山車では骨組みが完成
櫓裏では枝を燃やす社殿横にはプロパンのガスコンロ
東側の幟が上がりました天気は曇りです
パネル同士をボルトで固定幟は西側に取り掛かる
神楽殿にはブルーシートを敷く
組み上がった掲示板を立てて
両足を穴の中に入れ土で踏み固めて固定
諏訪社側では日の丸が上がり紙垂を
祠と鳥居に付けて行く
掲示板は裏から補強東側の幟を上げる
10時半頃になると休憩の準備が始まる
神楽殿の奥に紅白幕を張る
お茶とどら焼きをもらい休憩を取ります

  10時半頃になると10分ほど休憩を取り、休憩後は大人神輿と子供神輿の捩り掛けを中心に準備が進められる。

10分程で準備再開社殿では鈴緒を上げ
神輿からカバーを外す
社殿奥から子供神輿と
馬を出し慎重に階段をおりて
境内に出して馬の上におろす
今度は子供神輿用の轅を取り出して大神輿の棒穴へ
大神輿用の轅も取り出す轅を通すと
裸電球を外し神輿を持ち上げて
拝殿の中央へ移動
一旦床へおろし奥から馬を出すと
境内へ運び出して社殿正面に置く
再び大神輿を持ち上げ上部が当たらない様に
慎重に階段を降りる
社殿内に神輿を保管する神社は多いです
馬の上におろし轅を抜くと
子供神輿の方へ運ぶ社殿から大神輿用の
轅を運び出し棒穴へ善波の神輿は
秦野の御門・八坂神社から譲り受けました
蕨手に小鳥を差し込む子供神輿にも
轅を挿入大神輿では露盤に
鳳凰(大鳥)をセット小鳥を蕨手へ
秦野と同様に横棒がある水鉢は念入りに掃除
捩り掛け用の晒を準備子供神輿にも横棒が付く
大神輿では横棒をカケヤを使って縄で固定
山車では屋根部に横棒を渡して簾(すだれ)を掛ける
境内では捩り掛けの準備が始まります
子供神輿でも横棒を固定捩り掛けは蕨手から始まり
露盤へ渡して鳳凰に回し
対角線上の蕨手で結ぶもう片方の対角も同様に
稲穂飾りを子供神輿と大神輿の鳳凰の嘴に固定
晒を折り畳んでいく鳥居に榊を
飾り付ける今度は蕨手から轅へ渡す
時刻が12時になり作業は一旦中断
昼食の時間が始まります順番にカップ麺とおにぎりを
受け取り、お湯はセルフです私も頂きました
社殿と神楽殿付近に座り40分程昼休憩を取る

  大祭前の準備は午前中で殆ど目途がつき、12時になると40分ほど昼休憩を取って、休憩後は神輿の捩り掛けの続きなどで、13時45分頃に準備が終了する。

捩りにバチを通し均等に捩じって
バチで固定子供神輿でも捩り掛け
大神輿の捩り掛けが終わると馬を抜いて
180度旋回正面を鳥居側へ向けて
馬の上におろす子供神輿も捩り掛け
翌日の天候が心配な為大神輿をシートで覆う
バチで捩りを締め上げる掲示板裏では作業が続く
捩り掛けを終えた子供神輿を抱え
雨対策で神楽殿の舞台へ移動
どうやら屋根を作るようです風に靡く2本の大幟
雨が降り込まない様に紐で開口部を閉じる
屋根に補強材を入れ下地のベニア板を置く
幟の方も雨が心配なため
東側から幟を下す
屋根にはブルシートを張り
紐で縛って固定幟をおろすと
一旦広げて折り畳む
西側の幟もおろして
折り畳む13時45分頃に準備は終わり
夕方の巡行までは一旦解散


宵宮巡行

  ここでは平成29年(2017年)3月25日の土曜日に行われた、宵宮の巡行の様子を紹介する。宵宮では16時から太鼓の山車のみで善波地区を巡行し、2か所の休憩場所を経て18時30分頃にお宮に到着する。巡行後は社殿内にて直会が30分ほど行われ、最後に戸締りをして19時20分頃に解散となる。

246号線沿いにある行在所15時半頃にお宮に戻ると
宵宮の巡行に向けて山車が社殿前に移動
16時になると太鼓連会長の挨拶私を紹介して頂きました
叩き手が山車に乗り込み私も乗り込みます
宮昇殿を叩いてお宮を出発
鳥居からは出られないので裏の自動車参道を下る
善波の宵宮は約30年振りに参加しました(確か中学生の頃)
国道246号に出て右折
バイクショップ Ted's Special善波バス停
トラックSHOP JETを通過すると目の前は新善波隧道
トンネル前で左折しホテル街を
回って元の通りへ戻ると
再び246号に出て右折
左折して側道に入り店舗裏を通過
再び246号に戻り左折
直ぐに右折し坂道を下ると
民家が見えてきましたこの辺りは西部になります
地元の住民以外は通ることのない道です
山車を止めて休憩場所のI宅へ
乾杯してご馳走を頂きます
50分程で休憩を終え山車に乗り込み
再び出発坂を下り
左にカーブして246号の下を潜る
左手の道に入り坂道を上る
途中で引き返し来た道を引き返すと
246号に戻り左折
伊勢原方面へ進むと右手には善波児童館
善波交差点を通過し坂を下って坪ノ内交差点を
右折(左手はゲオです)大住台との境を進み
直ぐに右折十字路を
左折し今度はT字路を右折
この辺りは東部になります山の手前でUターンし
来た道を引き返すと左手の民家へバックで入り
宮総代宅に到着今年は異常に寒いです
山車を降りて事務所へ入ると恵みの薪ストーブ
軽食を頂いて30分程で休憩を終える
こちらはみかんのオーナーです山車の提灯を点灯し
山車に乗り込むと18時10分に出発
辺りはだんだん暗くなってきました
来た道を引き返しバス通りへ坪ノ内交差点を左折し
246号線を秦野方面へ途中で右折し
脇の低い道に入り246号の北側を巡行
このあたりは善波地区の中部にあたります
妙寶山勝興寺で引き返し再び246号線に戻って
左折し善波交差点で直ぐに右折
善波児童館の裏を抜けて再び246号へ
左折して秦野方面へ進み途中で右折
脇道を進み右折して裏の参道を上る
約2時間半の巡行を終え18時35分にお宮に到着
締太鼓と大太鼓を外し
社殿へ運んでいく社殿内に集まると
締太鼓をゆるめ直会が行われる
19時15分頃に終わると外に出て
櫓の雨戸を閉め神楽殿のシャッターを閉める
19時20分頃に解散明日はいよいよ大祭です

  この後は大祭準備へ。



祭礼の歴史

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の6月26日と9月29日であったが、大正2年(1913年)の『比々多村史』では3月26日とある。大正の初めから変動していなかった3月26日の祭日は、時代の移り変わりとともに3月の最終日曜日となった。かつては宵宮の留守番として青年が夜泊まり込んでいた。また、祭典にあわせて様々な行事が行われ、終戦までは草競馬が催され人気を集め、約100mほどの馬場で農耕馬を走らせ勝者には旗が授与された。この他には剣道大会が開かれたり、俳句や和歌の発表会が催され、よしず張りの中に短冊に記した優秀作が展示された。夜になると厚木あたりから買ってきた芝居や神楽が行われていた。
  現在は上記の催し物は行われず、神輿の渡御と太鼓の演奏がメインである。式典は秦野市の出雲大社の神主が祝詞を挙げている。境内にはしだれ桜が咲き乱れ、一般の人々が花見に訪れる。



善波の歴史

  善波地区は善波川沿いに農地や集落を形成しており、かつての善波村は糟屋庄、白根郷に属していた。村名は善波太郎重氏の居住地に因むといわれるが、『中郡勢誌』では谷上の地形の意として「狭場(せば)」を村名の起こりとしている。当地ははじめ直轄領であったが、これを寛永10年(1633年)に渡辺綱貞が一給支配し、天和元年(1681年)の幕領に復するまで継承した。この幕領は元禄11年(1698年)に竹尾俊常の知行となり、以降幕末まで竹尾氏の一給所領となった。
  当地は南西北の三方を山で囲まれ、山・坂の多い土地柄にあった。善波村は連なった山からなる峯境を村境とし、「御嶽」・「妙宝」・「弦シメシ」・「扇タテ」・「立石」などの字名があった。また、善波川の水源の駒ヶ滝、今井沢・日陰沢などの沢があった。小名は「久保」・「今井」・「鹿窪」・「斎玉(さいたま)」があり、高札場が1ヶ所あった。寄場組合は伊勢原村外24ヶ村のうちに組み込まれた。
  村内には矢倉沢往還が貫通しており、秦野道とも呼ぶ幅1間の往還が通っていた。その西はずれには善波峠があって、ここの切り通しは往還の難所の一つであったようである。ここへかかる道には坂道が多く、また、路次の所々にある老松は旅行社の好目標になったいた。寛政末から文化初年の頃より矢倉沢往還通行の御鷹御用の時に、伊勢原村・曾屋村・神戸村へ人馬(じんば)の継ぎ立てを勤め、坪之内村・笠窪村・串橋村から助人馬の提供を受けていた。また、秣場も5ヶ所あった。
  現在の善波地区は大まかに西部・東部・中部の3地区に分かれており、新善波隧道(善波トンネル)側の起伏の激しい地域が西部、大住台側の起伏の緩やかな地域が東部、お宮の周辺にある地域が中部となっている。



善波太郎

  善波氏は『東鏡』に記載されている鎌倉幕府の御家人で、この後も善波氏の名は屡々史料に散見される。『風土記稿』に引く八幡縁起によれば、八幡は善波重氏、御嶽はその妻、三島は重氏の舅である紀州熊野新宮の社人を祀ったものとされる。御嶽山中にあった三島社は重氏の居蹟と伝えられ、この旧社地の社守宅を造営した処からは埋納されていた石槨(墓室内で棺を納める石造施設)が発見、骨・鏃・瓶子などが出土され、重氏の墓かとも思われたがそのまま埋め戻したと同書には記されている。
  三島神社の前一帯は鎌倉時代の伝説の武将「善波太郎重氏(ぜんばたろうしげうじ)」居館のあったところといわれる。重氏は若い頃に召使と通じたことから父の怒りにふれ、善波の館を出て流浪の旅に出てしまった。重氏が館を去ると悪臣どもがはびこり、重氏の父亡き後に善波の館は社領と共に悪臣どもに奪われてしまった。このことを知った重氏は三島神社、諏訪明神(子易)、石尊権現(大山)の助けにより一挙に悪臣どもを滅ぼし、善波の館の主になったと言い伝えられている。このあたりは重氏が館を出て召使の千子女(ちこめ)と雨露をしのいだ「虎杖窪(いたどりくぼ)」、弓絃(つるしべ)を湿したという「絃(つる)しめし」、悪臣どもを滅ぼすため伏兵をしのばせた「千人がくれ」などの地名が残っている。

善波一族館址歴代の善波氏
明神・八幡神・御嶽権現三柱建立由緒

  大住台に近い国道246号の南側には「善波太郎のちから石」があり、太郎の郷づくり協議会の解説によると、石の上部にある二本の筋状の部分は、善波太郎が下駄で力踏した時の跡と言い伝えられているとある。

太郎のちから石二本の筋らしき窪みが見える
解説文石碑


                  

囃子と山車

  善波で祭囃子を伝承している組織は善波太鼓連であり、使用される楽器は締太鼓2個と大太鼓1個で1カラの構成となっている。昔は笛があったといわれるが、現在は伝承されていない。演奏される曲目は「宮昇殿」と「屋台囃子」の2曲で、宮昇殿は宮出しと宮入りの時のみ叩かれる。善波は笠窪と坪ノ内、さらに子易下の町家クラブに太鼓を指導した経歴を持つ。高森のあかね台太鼓保存会には笠窪が協力して指導にあたった。例大祭当日は子易下笠窪坪ノ内が付き合いで参加し、笠窪と坪ノ内は太鼓を持参、子易下は境内に置かれた山車(太鼓は善波が準備)で演奏する。善波太鼓連は10月に行われる慰霊祭に参加する。
  毎年、境内に設置される山車は昭和22年(1947年)に製作されたもので、当初は善波地区を曳いて巡行していたが、人手不足もあり現在は境内で居囃子化している。この山車には三ノ宮の人形山車と同じ様に、善波太郎の人形を上部に乗せ、カラクリで人形を動かす計画もあったが実現しなかった。普段は舞台の上部のみをバラし、神楽殿横の倉庫に保管している。
  現在ではトラックの荷台に櫓を載せた山車が、善波地区を巡行している。善波の山車は一般的な山車と比べて天井が低いが、これは神楽殿にバラさずにしまうことを前提として設計された為である。高さは低いが、屋根部が銅葺きとなっているため、山車の重量が重くなっている。また、以前は笠窪太鼓連と坪ノ内友の会太鼓連は神楽殿で太鼓を叩いていたが、平成22年(2010年)に常設の太鼓櫓が境内に新築されたため、太鼓は櫓で叩かれるようになった。

昭和22年製作の山車車輪は木に鉄の板を巻く
トラック山車(側面)トラック山車(正面)
屋根は珍しい銅葺き平成22年完成の常設の太鼓櫓
櫓が出来る以前は神楽殿で太鼓を叩いていた
囃子
(屋台)

  善波の太鼓練習は3月に入り、大祭前の毎週日曜日(直前の日曜日を除く)に行われ、平成31年(2019年)は3月3日・10日・17日の3日、昼過ぎから夕方頃まで行われた。かつては三嶋神社で練習を行っていたが、現在はみかん農園である「あかざと園」か「三岳園」で行なっている。

三岳園での練習前に譜面を置く


神輿

  善波の大人神輿は昭和23年(1948年)に秦野の御門から中古で購入したもので、御門から善波まで担いで引き渡されたという。当時は善波青年会が御門と付き合いがあり、御門の祭礼には善波青年会が神輿を担ぎに行っていた。この神輿は一時期担がれていなかったが、昭和56年(1981年)に修復が行われ、再び担がれるようになった。さらに、平成13年(2001年)3月にも修復が行われ、同年に東部(シシクボ)地区、翌平成14年(2002年)に中部(カサヤト)地区、更に翌平成15年(2003年)に西部(サイタマ)地区で担がれた。

大人神輿大人神輿(捩り掛け後)
鳳凰(大鳥)屋根大紋
組物・垂木周辺鳥居
井垣・胴回り箱台輪の格狭間
子供神輿子供神輿捩り掛け後
神輿のお祓い子供神輿の宮立ち
大人神輿の宮立ち参道を降る大人神輿
国道沿いに準備された行在所行在所に安置された大人神輿
子供神輿はトラックにのせ善波地区を巡行

  近年はお宮から裏参道の入口付近(国道246号沿い)に設置された行在所までの間でのみ渡御が行われ、山車が善波地区を巡行している間は大人神輿が行在所に安置され、子供神輿は行在所まで渡御された後にトラックにのせられ、山車と一緒に巡行した。これは2016年(平成28年)まで行われ、翌2017年(平成29年)は雨のため巡行が行われず、2018年(平成30年)からは担ぎ手の減少もあり、境内の諏訪社近くにある広場に行在所を設置して、渡御経路が縮小された。

諏訪社近くの行在所行在所に安置された神輿


大祭準備

  2017年(平成29年)の例大祭は悪天候により、神輿渡御が中止になるなど祭礼が縮小されたため、ここからは2018年(平成30年)3月25日に行われた例大祭の様子を紹介する。朝の準備は集合時間が8時30分で、式典の準備や幟上げ、神輿や太鼓の準備が行われる。笠窪と坪ノ内は軽トラックに太鼓を積んで、境内の櫓に太鼓をセットする。

昨年の大祭は雨だったので今年は大祭のみ再取材です
朝8時にやって来ました夜露から神輿を守るブルーシート
子供神輿からシートを外し折り畳む
今年は屋根がいりません社殿の鍵を開ける
大神輿のシートも外します今年は珍しく宵宮と
大祭の両日とも天気が良いです社殿の扉を外していく
神楽殿のシャッターを開け中柱を外す
社殿から賽銭箱を運び出し
幟柱の間へ置く山車を社殿側へ寄せる
太鼓櫓の扉を外し下の収納へ
茶箱から締太鼓を出し革を締めて行く
社殿横では豚汁の準備本殿前では祭壇の準備
幟付近に脚立を立て桜の枝を切り落とす
締太鼓を山車へ運ぶ桜の枝を容器の中へ
社殿ではスピーカーの準備社殿内を掃き掃除
定刻の8時30分になると宮総代の挨拶
改めて準備を再開山車に太鼓を載せる
幟を準備諏訪社横では日の丸の準備
山車の太鼓枠に締太鼓を設置
日の丸を上げて行く社殿では受付の準備
山車の屋根に桜の枝を差す三柱横の枝を剪定
本山車の太鼓枠にも締太鼓を設置
昨年は雨で上がらなかった幟が空に聳えます
山車に大太鼓を固定屋根に本物の桜を差すのを
初めて見ました本山車にも大太鼓を固定
東側の幟も上がり2本の大幟が揃う
社殿横では豚汁の準備
10時の式典に向けて準備が進められます
大神輿と子供神輿を社殿前へ移動
今年から行在所は諏訪社近くの空いたスペースに設置
社殿で書いたのし紙を掲示板へ貼っていく
祭壇の準備が整い拝殿に胡床を並べる
9時20分頃に笠窪が到着軽トラから太鼓を櫓へ運ぶ
出雲大社から神職と巫女が到着し社殿へあがる
続いて坪ノ内の軽トラが到着荷台から太鼓を降ろしていく
笠窪が幕を取り付け笠窪太鼓連のメンバーも到着
坪之内友の会のメンバーも到着掲示板が埋まってきました
坪之内も幕を設置笠窪が締太鼓を調整
太鼓枠が用意されているので太鼓を嵌めるだけです


式典

  9時50分からは式典が行われ、秦野市の出雲大社の神職により社殿内にて神事が執り行われる。10時15分からは場所を境内に移し、神輿の前で発御祭が執り行われる。神事が終わると宮総代の挨拶があり、自治会長の挨拶で乾杯が行われ、10時30分に式典が終了となる。

9時50分になると社殿に集まり太鼓の合図で神事が始まる
神職自ら竜笛を吹きます三嶋神社大祭の神事です
開扉を行い祭壇と巫女
役員参列者を修祓
祝詞を奏上し神職から玉串拝礼
続いて役員らが拝礼し善波太鼓連
笠窪太鼓連坪之内友の会太鼓連が続く
閉扉が行われ最後に神職の挨拶
竜笛が吹かれて神事が終わると参列者は境内へ降りる
神職と巫女も境内におり発御祭が始まる
神事は竜笛で始まります中央に置かれた八足台
大神輿と子供神輿
山車をお祓い最後に出席者の修祓
続いて大神輿と子供神輿に御霊を遷す
神職が祝詞を奏上し大神輿と
子供神輿に玉串拝礼最後に竜笛が吹かれ
発御祭が終了お神酒を配ります
神職と巫女は社殿へ実行委員長(宮総代)の挨拶
続いて自治会長の挨拶で乾杯


宮立ち

  式典が終わると子供神輿と大人神輿が社殿前を宮立ちし、諏訪社横に設置された行在所まで渡御される。太鼓の山車は境内を出発し、善波地区を巡行する。宮立ち後は諏訪社で神事が執り行われ、神事後は社殿と神楽殿で直会が開かれ、太鼓櫓では笠窪と坪ノ内、本山車では子易下の町家クラブと高森のあかね台が太鼓を叩く。

山車が先に出発し諏訪社前へ移動
子供神輿から先にお立ち
笠窪と坪之内善波が宮昇殿を演奏
子供神輿は参道を下り諏訪社前で
左手の広場へ今年からここが行在所です
続いて大神輿が宮立ち去年は雨で担げませんでしたが
今年は天候に恵まれました諏訪社前まで来ました
子供神輿が忌竹に輿をおろす例年では246号まで下りましたが
担ぎ手の減少で境内のみの渡御となりました
南側の広場におりた大神輿は180度旋回し
行在所に輿をおろすと忌竹で大神輿を囲む
山車は出発して巡行へ向かう櫓では笠窪と坪之内の競り合い
宮立ち後は諏訪社での神事社殿をお祓いし
巫女と役員を修祓祝詞を奏上し
玉串拝礼神事が終わると社殿へ戻る
笠窪と坪之内は神楽殿へ子易下の町家クラブが到着
以前はここで太鼓を叩きました社殿横では豚汁をよそう
町家クラブが社殿へあがり拝殿で直会
町家クラブが山車へあがり囃子を披露


大祭巡行

  ここでは平成29年(2017年)3月26日の日曜日に行われた、大祭の巡行の様子を紹介する。この年は悪天候のため行在所間での神輿渡御は中止となり、太鼓のトラック山車のみが善波地区を巡行した。例大祭の式典後の10時45分頃にお宮を出発した山車は、3か所の休憩場所(1か所は昼休憩)を経て、13時35分頃に宮入りした。

10時45分になると山車が移動を始める
櫓でも笠窪と坪ノ内がスタンバイ宮昇殿の演奏で
山車が境内を出発裏参道をおり
246号に出て右折
秦野方面へ向かいTed's Special前で左折
坂道をおり西部地区へ
途中でご祝儀をもらう巡行中は終始演奏
宵宮と同じルートで246号下を潜る
善波は基本的にアップダウンが激しいです
坂道の途中で引き返し来た道を引き返す
ここでもご祝儀を頂くさらに坂を下り
246号に出て左折
行在所前善波交差点を通過
坪ノ内交差点で右折し
坪ノ内バス停を通過直ぐに右折し
ここからは東部地区になります
大住台との境を進み右折
宵宮と同じ敷地で引き返し
道の途中で左手の宮総代宅へ
山車をおりて暖炉のある事務所へ
30分程休憩を取り11時45分に
総代宅を出発左折して
来た道を引き返していく善波は市街化調整区域の為
新しい住宅が増えませんバス通りに戻り
左折国道246号に出て左折し
秦野方面へ進むと直ぐに右折し
一段低い側道を通り
246号に戻らずに北側の中部地区へ
三叉路を右折し
細い道を道沿いに左折
途中で右折するとこの辺りは住宅が割と多く並びます
奥で引き返し来た道を戻ると
突き当りを右折行き止まりになり
右手にある敷地内に山車を入れる
どうやらここが昼休憩の場所の様です
基礎を利用した地下室で12時から昼食を取る
太鼓の練習もこのお宅をお借りしています
12時55分に山車に乗り込み午後の巡行に出発
来た道を引き返し三叉路を左折
246号に出て善波交差点を
直進し善波児童館を通過
246号に戻り左折して秦野方向へ
直ぐに中央へ寄り右折して
直ぐのお宅で山車をおりるお宮から太鼓の音がします
駐車場を利用して30分ほど小休憩
13時半頃に出発し
行在所で右折
裏の参道をのぼっていく
三嶋神社には正面の鳥居側に参道がありますが
車は通れないので裏の参道がメインになります
13時35分に山車が宮入り
櫓では坪ノ内と笠窪が迎え太鼓
善波の山車は社殿横へ
三地区の競り太鼓


宮入り

  ここからは再び2018年(平成30年)3月25日に行われた宮入りの様子を紹介する。この年から巡行時間が短縮され、10時40分に境内を出発した山車は11時40分頃に宮入りし、昼食を境内で一緒にとった。
  13時20分過ぎになると子供神輿が行在所をお立ちして宮付けされ、続いて大人神輿がお立ちし、13時30分頃に神輿渡御が終了となる。その後は再び境内にブルーシートが敷かれて食事が振る舞われ、櫓と山車では太鼓が叩かれる。15時になると笠窪→坪之内→善波の順で発表演奏が行われ、その後は再び競り合いが行われ、15時20分に大祭が終了となった。

今年から山車は午前中で巡行を終え
11時40分頃に宮入り本山車の奥へ止めると
ブルーシートを広げ昼食の準備
あかね台(高森)が参加し4カラの叩き合い
11時50分頃に太鼓を止めると配膳を進め
善波・笠窪・坪ノ内・子易下あかね台の4地区で昼食を取る
今年は桜が満開で最高の花見日和です
12時半過ぎになると太鼓が再開善波も山車で演奏
12時45分に昼食を終えシートを撤収
笠窪と坪ノ内も加わり再び四カラでの競り合い
本山車では善波太鼓連と町家クラブの競演
13時20分過ぎになると子供神輿が行在所をお立ち
宮入りは子供も担ぎます予定より1時間以上早いです
境内を反時計回りに
大きく一周
行在所では続いて大神輿がお立ち
246号まで降りないのは寂しいですが
担ぎ手の減少では致し方ありません
太鼓に囃され社殿前を
練る大神輿満開の桜を背景に
境内を反時計回りに移動
御門から譲り受けた歴史の深い神輿です
5分ほど練ると馬を入れて
輿をおろし無事に宮付け
諏訪社前で待機していた山車はバックで境内へ移動
太鼓を打ち鳴らしながら本山車の右手に停車
再び四カラの競り太鼓境内にはブルーシートが
敷かれ食事が振る舞われます
15時になると笠窪坪ノ内
善波の順で発表演奏
発表後は再び競り合いが始まる
10分程で競り合いを終え
15時20分に大祭が終わる


片付け

  大祭が終了すると後片付けが始まり、神輿は捩りが外されて社殿内に保管され、太鼓の山車は神楽殿へしまわれる。最後に幟竿が倒されて社殿横にしまうと17時10分頃に片付けが終了し、残りの片付けは翌日の月曜日に行われる。

本山車とトラック山車では締太鼓を外す
直会が終わり境内の後片付け
締太鼓を緩める
櫓では坪ノ内が締太鼓と幕を外し
軽トラへ積んでいくブルーシートを掃き掃除
幟をおろす社殿横ではゴミ集め
ブルーシートを折り畳む幟をリングから外す
山車のトラックを社殿横へ移動
大神輿では捩りを外す外した幟を畳んでいく
山車から大太鼓を外す
坪ノ内の軽トラックが憩の家へ帰っていく
昔は善波青年会が御門へ担ぎに行っていました
子供神輿も捩りを外す山車の幕を外す
太鼓の箱は倉庫へしまう
本山車の簾を外す大神輿から
鳳凰を抜きこちらも倉庫へしまう
捩りを外した大神輿から馬を抜き
社殿へ移動向拝下で前棒をおろす
本山車では舞台上を解体大神輿から
轅を抜きます山車の裏から荷物を積んだ
笠窪のトラックが移動笠窪公民館へ帰っていく
大神輿に子供神輿の轅を挿し抱え上げると
拝殿の中へ移動し馬を入れて輿をおろす
櫓では提灯を外す大神輿の轅は
社殿の奥へしまいます大神輿にカバーを掛ける
子供神輿は4人で持ち上げ
社殿内へ本殿の横で保管
埃除けのカバーになります幟前に置いた賽銭箱を
運び拝殿へ入れる
太鼓の櫓は雨戸を嵌めて戸締り
豚汁用の鍋と竈を軽トラへ積む
神楽殿の紅白幕を剥がす太鼓の枠は神楽殿へ
直会で使ったテーブルを神楽殿の外へ
山車から桜の枝を抜く掲示板ではのし紙を剥がす
テーブルを軽トラの荷台へ積んでいく
掲示板のベニア板を外し
地面から柱を引き抜き
境内を移動幟竿に立て掛ける
飾り付けを外した山車はバックで神楽殿へ移動
山車は解体せずに持ち上げて
神楽殿の中で保管します
続いて本山車は鉄パイプで方向転換
山車をおろしたトラックは櫓前に移動
本山車の舞台に階段を載せ
人力で押して境内を移動
社殿前で方向転換し神楽殿の方へ移動
神楽殿前で向きを変え
社殿横の倉庫へ最後に微調整し
本山車を倉庫へ入れる
掲示板は解体し部材は神楽殿へ収納
社殿の扉を閉める最後に残るのは幟倒し
ロープで引っ張りながら梯子を使って
ゆっくりと竿を倒していく
幟の先端から滑車等の部品を取り外し
竿を持ち上げて神楽殿側へ移動
先端を社殿側へ向け収納庫へしまう
支え柱を固定する楔を抜き支え柱を穴から抜くと
そのまま抱えて神楽殿へ
穴は鉄板の蓋を被せる支え柱は神楽殿の中へ収納
続いて東側の幟竿を倒していく
ロープは木に巻き付けて倒す速度を調整
ゆっくりと幟竿を倒し
先端の部品を取り外して境内で旋回
近年幟の取材が増えて来ました
楔を外し支え柱を抜き
神楽殿の中へ最後に穴に蓋をします
大幟の竿倒しが終わると諏訪社近くの竿に移動
行在所では忌竹を撤去日の丸をおろして象鼻を抜き
梯子で竿を支える木に結んでいた
ロープを緩め日の丸の竿を
倒して木の丸棒を抜く
竿を抱えて社殿横へ移動
昔は毎年竿用の穴を掘っていました
常設の穴は助かります支え柱を運び
神楽殿へしまうと神楽殿のシャッターを
閉めて行く大祭の片付けが終わり
宮総代の挨拶で解散残りの片付けはまた明日

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