子易下こやすしも

比々多神社

  子易には「諏訪神社(お諏訪サン)」と「比々多神社」の2社があり、前者は子易上、後者は子易下の氏神である。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると大山地区には「坂本村」・「上子安村」・「下子安村」という3つの藩制村があり、下子安村には神社として「諏訪社」があり神木の樟は周囲2丈もあった。
  寺院には武蔵国入間郡龍ケ谷村(埼玉県越生町)村?龍穏寺の末寺で曹洞宗の菅口「龍泉寺」があり、慶安2年(1649年)に寺領として一五石の朱印状が与えられている。江戸芝増上寺の末寺で浄土宗の一道山地蔵院と号する「易往寺」があり、元慶5年(881年)に良弁の弟子で弁真が真言宗の寺院として開かれたと伝えられるが、中興の時に浄土宗に改宗されたとする。他に江戸青山鳳閣寺配化で当山修験の「正善院」や曹洞宗の「光月院」、観音堂や大日堂(乳母堂とも称した)があった。
  明治22年(1889年)の町村再編以前には子易の氏神は現高部屋地区の「比比多神社(子易明神)」であった。その時、子易村(子易下)の一部は高部屋村となったが、比比多神社も高部屋に入った。この神社は由緒もあり、祭礼には相当の出費が余儀なくされた。そこで「オラ方はオラ方で」ということから子易下は比比多神社から分祀し、比々多神社を創設した。一方、子易上では元来個人の氏神であったとされる諏訪神社を地域の氏神として祀り始めたと伝える。
  現在の比々多神社の社殿が設けられたのは大正8年(1919年)頃で、それまでは比比多神社から神輿を分祀したものの社殿はなく、神輿は子易下の観音堂に納められていた。明治の末にこの観音堂が焼失し、そこで現在の地に社殿を建立したという。比々多神社は簡易的に作られたため一般的な神社とは異なり、鳥居がなく社殿も簡単な作りになっているという。また、かつては現在の子易児童館が建てられている場所に神楽殿があったが、児童館を作るために壊してしまったという。

比々多神社社号柱
社殿子易児童館


例大祭

  比々多神社の例祭は大正年間は9月14日であったが、その後10月1日とか10月10日に変更され、戦後からは4月13日になっている。そして現在では諏訪神社(子易上)と祭日を同じにして4月第1土曜日に行うようになっている。式典は10時から大山阿夫利神社の神職により執り行われる。

式典
お祓い境内では焼き鳥が人気
手作りの行灯
夜には毎年恒例のビンゴ大会
5つ並ぶと景品を獲得夜の宴会


青年組織と太鼓連

  明治から昭和の初期、「諏訪連」・「町屋連」と名乗っていた頃は、学校を卒業すれば長男・二男を問わず若者はほぼ強制的にこの仲間に入り、退会は35歳位であった。昭和の初期までは主に地区の公共的な作業や祭礼の準備、余興の開催などを担当した。諏訪連と町家連とも戦後は人員が減り活動が休止状態になった時期もあったが、昭和40年(1965年)過ぎには「諏訪倶楽部」・「町家倶楽部」として再出発し、加入年齢も大山の倶楽部と同様に40歳までに引き上げられた。倶楽部が「祭り世話人」に協力して祭礼を執行し、終了後には鉢払いの旅行が行われたこともあった。
  また、子易ではかつて伊勢原の他地域に広く存在した「太鼓連」が青年の有志によって組織されていた。太鼓連が最も盛況をみたのは大正年間(1912〜1926年)までで、地元の氏神祭礼だけでなく「祭り付き合い」と呼ばれる近在の集落との間で祭礼の折に招待したり招待される関係を持った。子易の場合、この付き合いが深かったのは子易上と下相互、比比多神社、明神前の諸地区(旧高部屋村)である。大山には太鼓連がなかったが(一時開山町に作られたことがある)、阿夫利神社の祭礼に招かれたこともある。
  祭礼日には神社の境内に高い櫓を立て、その上で神事、余興の幕間や終了後に夜を徹して太鼓を競った。当時は夏の間は毎夜仲間が神社に集まり、宮の回りの丸太を叩きながら練習に励んだという。戦時体制に入り、出征する若者が増えて次第に活動は下火となり、ついには一時期途絶えていた。しかし昭和50年(1975年)代に入ると、かつのて太鼓を盛り立てたいという声が上がり、昔太鼓を競った年配者たちと相談して再び太鼓連が復活した。太鼓は三ノ宮から教えてもらい子易下に伝えたという。現在は太鼓連そのものは倶楽部に吸収され、子供にも教えながら祭礼を盛り立てている。



子易下の歴史

  江戸時代当初は直轄地で、寛永10年(1633年)の地方直しにより旗本渡辺仲領になったが、天和2年(1682年)の領地支配の失策により没収され直轄地に戻った。文化8年(1811年)に小笠原信名領になり幕末まで続いた。検地は慶長8年(1603年)に実施され、寛文6年(1666年)にも領主渡辺氏によって実施された。
  『風土記稿』によると戸数は51で、家々は大山道に面しており、旅店を営んでいた。人馬の継立もしていた。大磯宿加助郷になり、文政寄場(改革)組合では伊勢原村外二四ヶ村組合に属した。小名はなく、高札場は1ヶ所であった。村内の旧家に大津六右衛門家があり、先祖で同名の六右衛門は戦国時代に北条氏4代の氏政に仕え、その感状を伝える戦功のあった家柄という。

囃子と町内巡行

  宵宮と大祭当日は屋台をトラックに載せて回っている。屋台正面には締太鼓が2つと大太鼓が1つ配置され、側面にも締太鼓がもう2つ備え付けられている。以前は締太鼓は2つだけだったが、氏子の中で太鼓を寄付した者がいて現在のように4つなった。また、演奏される曲目は「みやしょうでん」・「つなぎ(きざみ)」・「さがみばやし(ばかっぱやし)」の3曲で、締太鼓の革は3丁掛けを使う。大山地区は調整区域の関係もあり、全体的に戸数が少なく子供の数も少ないが、太鼓の練習や祭りには子易下に住むほぼ全員の小学生が参加するという。

子易下の屋台締太鼓は正面に2つと
横に2つ荷台は叩き手であふれる
宵宮は屋台で巡行宮入後も境内で叩く

  宵宮は19時過ぎに屋台が神社を出発し、21時頃まで子易下地区を回り、宮入り後も22時頃まで太鼓を叩く。大祭当日は午前中に伊勢原カントリークラブまで屋台が出て、午後には神輿と一緒に子易下内を巡行する。15時過ぎには子易上の諏訪神社に宮入りし、その後、子易上の屋台と共に17時頃に比々多神社へ宮入りして競太鼓を行う。大祭当日は宵宮と同じく22時頃まで太鼓が叩かれる。また、かつては祭りにツキアイ村の慣行があり、三ノ宮山王原(上粕屋)などとの太鼓連の交流があったというが、現在は太鼓を復興させた当初から付き合いのある善波と交流がある。

午前は境内を出発し伊勢原カントリークラブに到着
午後は町内を巡行下の空き地でユーターン
上を目指す善波が応援
諏訪神社へ到着神楽殿で一杯
いよいよ宮入り遅れて諏訪クラブが到着
境内で競太鼓児童館で一杯
夜も再び町内を巡行22時まで太鼓を打ち鳴らす

  町家クラブでは平成20年(2008年)から比々多地区の笠窪から笛を習い、翌平成21年(2009年)の大祭で笛を披露した。また、社殿を清掃中にかつて叩いていたと思われる鉦が見つかり、祭り囃子に笛と鉦の音色が加わった。町家クラブは諏訪クラブと合同練習をするなど、囃子を通じて地域の活性化に貢献している。

笛の練習笛を指導
大祭にて笛を披露女の子も頑張ってます
交代で笛を吹く鉦も入る
囃子


神輿

  かつては比比多神社から分祀した大人神輿があったが、古くなり廃却してしまった。現在は子供神輿があり、大祭当日トラックに載せて屋台と一緒に巡行するが、出発前と巡行の途中で子供達によって担がれる。

子供神輿宮出し前に境内で担ぐ
トラックに載せて巡行途中で子供達が担ぐ

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