山王原さんのうばら

上粕屋神社

  「上粕屋神社」は上杉館の鎮守でもあったといわれ、古くは「山王社」と称した。祭神は「大山咋神(おおやまくいのかみ)(土木・治水・造酒の神)」・「大穴牟運命」・「若山咋命」であり、境内には天王社と八坂社(素盞鳴尊・・・本地は牛頭天皇)を併祀する。旧社格は村社で、上粕屋村の中心的神社であった。当社は平安時代初期(9世紀初)大同弘仁の頃に近江国の日吉(ひえ)神を当所に移し勧請したと伝えられているが、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によれば山王社は天平年間(729〜749年)に良弁僧正(ろうべんそうじょう)が大山寺を開創した時に勧請したとある。
  山王社は小名「山王原」の鎮守で社領一石五斗は朱印による寄進であり、小名秋山や辻などの鎮守であった熊野社も社領二石を寄進されている。上粕屋村には小名川上の鎮守として同名の熊野社があり、この他にも五霊社が2社、神明社が4社、住吉社、天狗神社、八幡宮、稲荷社が5社など数多くの小社祠が存在した。
  天正19年(1591年)に徳川家康より社領一石五斗を与えられてから社名を「山王宮(以来山王サンと呼ばれる)」とし、地名を「山王原」と改めている。その後、江戸時代の元禄4年(1691年)には社殿を再建し「山王権現(さんのうごんげん)」と称した。明治2年(1869年)6月には「日枝神社」と改称し、6月22日と12月2日には年の市を施行した。明治6年(1873年)7月には秋山の小字和田内(渡内)に鎮座した「熊野神社(朱印高弐石)」と字石倉下に鎮座した「白山社」を合祀し、現在の上粕屋神社と改称した。更に昭和39年(1944年)4月に字峰岸に鎮座した「御嶽神社」と秋山に鎮座した「五霊神社」を合祀して現在に至っている。
  合祀された秋山の氏神である熊野神社は『風土記稿』に「熊野社」と記載のある神社で、明治の神仏分離以前には極楽寺が併設されていた。当時この神社は秋山と一之郷(一ノ牛王)で祀られていたが、神仏分離によって極楽寺が廃される際に、寺に保有されてきた33体の観音像は当時の氏子約30戸に1,2体ずつ配分されることとなり、これらの像は現在も秋山・一之郷の旧家の家の入口もしくは墓の入り口に祀られている。熊野神社はその後上粕屋神社に合祀され秋山の氏神が失われることになり、合祀に際しては観音像の配分と同様に神社に保管されていた大きな幟や幟立てに用いる紐などを、秋山・一之郷の氏子全員で分配した。ところが合祀後に秋山では不作・不幸が続いたため、和田内の人々は氏神を合祀したことが原因であると気をもみ、小さな祠を神社跡に建て合祀した熊野神社を再び分祀して祀り始めた。そして戦後に峰岸の御嶽神社が上粕屋神社に合祀される祭には、有志が峰岸から「中の宮」を貰い受けて現在の熊野神社に納め御神体を得たのだという。

参道社号柱
鳥居神社由緒
燈籠手水舎
鐘楼神楽殿
拝殿覆殿・幣殿
神輿殿
境内社務所
狛犬


例大祭

  『風土記稿』によると大祭日は旧暦の6月22日であるが、明治2年(1869年)当時の例大祭は3月3日で競馬神事神楽を奉納したとある。その後は4月3日になり、現在は・・・

太鼓

  



神輿

  



上粕屋の歴史

  上粕屋地区は大山の東南麓から伊勢原台地北西部に広がり、かつての「上糟屋村」は糟屋庄、高部屋郷に属したという。糟谷、粕屋(谷)とも記されるが、現在の居住表示は上粕屋である。村名は鎌倉幕府の御家人であった糟屋氏居住の地に因むと伝えられ、『中郡勢誌』では村名を「神栖谷(かすや)」に因むとし、神聖の地とされているが詳細は不明である。古くは下糟屋村と一村であり、上・下糟屋村の分村の時期は不詳ながら、『風土記稿』では天正19年(1591年)に村内の神社(「山王社」、「熊野権現社」)に賜りし御朱印状に「上糟屋郷」とある記載を紹介し、少なくともこの頃以前には上・下に分かれていたと推測される。
  天保6年(1835年)の「上糟屋村地誌御取調書上帳(上糟屋・山口一男家所蔵)」には、田方三八町余、畑方一一二町九反余とあり、畑方に比重のある土地柄であった。また、大山道である田村通り長後通の二条が小名石蔵で合流していた当村は、大山詣での人々を相手とする旅籠屋や諸商売が軒をなし、宝暦2年(1752年)には大山御師たちから宿泊客をめぐって、神明町での止宿禁止の訴訟を起こされた。『風土記稿』には「民戸百六 往還の両側に連住し、時用の物を鬻(ひさ)き、或いは旅店をなす」と大山道合流地の活況を記している。天保14年(1843年)の『上粕屋村農間商売取調書』には旅籠屋、居酒屋(中喰休)、縁日商売など多く農間渡世(のうかんとせい)に携わっている者の名が見える。
  天正18年(1590年)の徳川家康関東入封後は直轄地であったが、寛永10年(1633年)の地方直しにより、飯河盛政・中川忠次・梶川正次・大久保忠永の旗本領四給となった。このうち飯河氏は幕末まで当村の所領を継承した。中川氏は寛永19年(1642年)に中川忠明と中川忠政の二家に分知され、以降幕末まで中川氏二家が継承した。梶川氏は不祥事により寛文6年(1666年)に所領を没収されて幕領となり、元禄12年(1699年)正月に幕領は武蔵国六浦藩主米倉昌尹領となるが、同年12月の村替により幕領に戻された。宝永2年(1705年)には間部詮之に幕領の一部が宛がわれ、以降幕末まで間部氏が継承した。大久保氏は元禄16年(1703年)の不祥事により所領を没収され、当村の大久保領は幕領に編入され、宝永4年(1707年)に幕領の一部が中根正包の所領となり、以降幕末まで中根氏が継承した。上糟屋村一村の検地は寛文13年(1673年)、幕領は延宝6年(1678年)に実施された。
  上糟屋村は平塚宿大助郷四二ヶ村のひとつ、大助高は一九七石であった。寄場組合は伊勢原村外二四ヶ村のうち。慶応4年(1868年)には平塚宿当分助郷となった。上糟屋村の小名には「子安(こやす)」・「石蔵(いしくら)」・「七五三引(しめひき)」・「峯岸(みねぎし)」・「秋山(あきやま)」・「山王原(さんのうばら)」・「台(だい)」・「久保(くぼ)」・「尾崎(おざき)」・「一ノ午王(いちのごおう)」・「辻(つじ)」・「渡内(わたうち)」・「原(はら)」・「内出(うちで)」・「井戸久保(いどくぼ)」・「川上(かわかみ)」・「三軒茶屋(さんげんぢゃや)」・「足立岡(あだちがおか)」があり、高札場は村内に8ヶ所あった。村内には渋田・塔坊・虫送り・一本松・二ヶ久保・烏帽子・芝・木立、と山名のある山があり、最高峯は登り八町の一本松、他は登り三、四町ほどの山である。村の西界を幅三間の大山川、村北方に渋田川が貫流し、往還は幅二間の大山道(田村通り)と大山道(長後通)の二条が小名石蔵で合流した。この他には幅一丈の八王子道、幅八尺の荻野道、薬師堂が通っていた。



青年集団

  「祭り青年」と「太鼓連」は近世期から明治時代にかけての時期に、高部屋地区でも青年の組織として比較的活発であったようで、特に各集落の祭礼執行と婚姻の儀礼に強く関与していたといわれる。しかし、大正期に「青年会」・「青年団」が組織されるようになって、風紀矯正とか綱紀粛正ということが叫ばれるようになり、青年の自主的活動は次第に影をひそめてきたといわれる。高部屋地区は元来小規模な集落を中心とし若者の絶対数が少なかったこともあり、祭り青年や太鼓連と呼ばれた組織は必ずしも全ての集落に組織されたものではなかった。
  上粕屋で比較的組織だっていたのは「秋山青年」といわれているが、この秋山青年と称されていたのは秋山・辻・尾崎・山王原・台・久保を包括する地域の青年組織であった。若い衆であれば誰もが参加したというものではなくおもに農家の青年の集まりであり、加入するのは小学校を終えた14,15歳になってからで特に加入儀礼というようなものはなかった。この組織はもっぱら太鼓を楽しむための組織で、農閑期や雨の降る日には仲間の家に集まって太鼓の練習をし、上粕屋神社の春の祭りになると境内に櫓を建てて、その上で越中褌に半纏姿で一心不乱に太鼓を叩き合ったものという。特に祭りが迫った時期には農仕事も手につかず、日頃から目に付けておいたあちこちの屋敷内にあるネブタの木を夜中にこっそり切り倒して、太鼓のバチを作り練習に励んだ。
  祭礼には太鼓連に対しハナ(御祝儀)があがるため、祭礼後には仲間の家を宿としてハチハライを行い皆で楽しく飲み食いした。その場で威勢がつくと伊勢原の料亭に繰り出して飲み、そのあげく当時カフェが立ち並び始めた町中を夜を徹して歩き回った。当時はコーヒーが5銭でゴールデンバット(煙草)が7銭だったので、1人あたり50銭あれば一晩中遊び歩けたのである。明治末から大正にかけての時期には上粕屋から出ていた代議士が、当時特に盛んだった青年の太鼓は風紀を乱し、若者の精神的・肉体的試練にはならないとして、地区内全ての集落の太鼓を買い上げてしまい太鼓を禁じたことがあった。その代わりに各集落の青年たちへ剣道の防具を買い与え、一時期地区の青年の間に剣道熱が盛り上がったが、太鼓に対する未練は強く後に再び太鼓は返却された。


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