子易上こやすかみ

諏訪神社

  子易区は江戸期に「上子安村」と「下子安村」に分かれていたが、明治初年頃に両村を統合して子易村となり、さらに明治22年(1889年)に大山町と合併するという経緯をたどっている。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には下子安村持として「諏訪社」の記載があるが、上子安村には神社の記載はみられない。上子安村の寺院には上粕屋村洞昌院の末寺で曹洞宗の僧慶山「安楽寺」があったが、明治以降廃寺になった。また、江戸深川海福寺の末寺で黄檗宗の「東福寺」があったが、ここも江戸時代後期には廃寺となっている。現在、子易区は下位区分として上と下に分かれており、子易上では「諏訪神社」、子易下では「比々多神社」を祀っている。
  諏訪神社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)である。創立年月は不詳であるが、古老相伝えて信濃国の諏訪明神を信濃国飯田氏が勧請し、その邸内に社殿を建立した。往古は現在の飯田氏と諏訪神社境内とは同一地続なり。

諏訪神社鳥居
神楽殿燈籠
拝殿覆殿
境内


例大祭

  諏訪神社の例祭はかつて9月27日であったが、その後4月13日に変更し、そして現在では比々多神社(子易下)と祭日を同じにして4月第1土曜日に行うようになっている。
  かつては神楽や芝居を東京や相模原の方からよんできて奉納したが、戦後にはほとんどやらなくなった。また、宵宮に舞台を作り厚木や秦野に歌舞伎の一座を呼んでいた。役者たちは荷物を馬車や牛車に載せて大祭前の宵宮の日に子易へ到着し、宮世話人達が5,6人ずつを分けて泊めさせ、歌舞伎は次の日の大祭で興行された。



自治会の組織

  現在、行政の末端機構として伊勢原市内の各地区に自治会が組織されており、大山地区でも大山には上・中・下の3自治会が、また子易には上・下の2自治会が設立されている。大山では上自治会は「坂本町」と「稲荷町」、中自治会は「開山町」と「福永町」、下自治会は「別所町」と「新町」の各2町会ずつが合体して1つの自治会が構成される。
  子易では地域をほぼ2分して上自治会と下自治会に区分されるが、上と下の区分がどのようにして生じたかは必ずしも明確ではない。少なくとも近世来といわれる共有山の保持母体の一つとして、また明治22年(1889年)の大山町への合併を機とする氏神設立において上・下の区分が行われており、それぞれが以前の上粕屋村時代からの村組を構成したことによるものと考えられる。

太鼓

  若い衆を中心とした太鼓連である「諏訪連」が組織されている。太鼓は一カラで大胴とシメ太鼓があるが、笛はないいわゆるバカ囃子が中心である。
  戦時中は太鼓が中断されていたが、戦後の昭和22,23年(1947,78年)頃に復活している。当時はロープ締めであったが、昭和30年(1955年)頃には近辺の部落も含めボルト締めに替わったという。太鼓が好きな者は近辺の七沢の大祭へ出向き、当時300円位のハナを掛けて一幕叩かせてもらったという。また、4月の節供には太鼓を山にもって行き、一日中叩いたという。



神輿

  現在、子供神輿が出ている。



子易の歴史

  江戸時代には「子安村」と書くことが多いが、永正16年(1519年)4月の伊勢宗瑞の箱根権現寄進状には「小屋す(こやす)」の名が見え、明治2年(1869年)に「子易村」が正式名称となった。『中郡勢誌』によれば村名の由来を安産守護神の子易明神を祀ったことによるとされる。かつては上粕屋村の一部で小名の子易と共に一つの地域をなしていたとされ、後にここから分かれ、さらに寛文年間(1661〜72年)末から元禄年間(1688〜1703年)までに上下に分村した。上下を一村として扱うことも多く、明治初年に再度一村に戻され、上・下子易村を合せて田は九町二反余、畑は五七町一反余であった。
  当地は大山の山麓に位置する山勝ちな地形で、村内の中央を大山川が流れて谷を形成し、その周囲に集落が作られた。村内には小田原道が幅二尺で、大山道が幅二間で通っていた。大山道では馬継がなされ、東は伊勢原村へ、西は大山村になされ、共に一里の距離を継ぐ。その大山道には諏訪坂・這子坂がある。山には笹子・黒尾図・和泉・伊予倉・鍛冶ヶ沢があり、秣山としてやくすえ山・丹沢山・いより山がある。河川には村の中央を大山川が東西に幅四、五間で通り、これに支流の大久保川・仁ヶ久保川・丹沢川が合流する。
  大磯宿加助郷になり、文政寄場(改革)組合では伊勢原村外二四ヶ村組合に属した。

●上子易(安)村
  『風土記稿』によると上子安村の戸数は71で、家々は大山道の左右に連住し、大山の夏山をはじめ祭礼時には登拝者の旅宿ともなった。また、人馬の継立もしていた。
  江戸時代当初は直轄地であったが、元禄11年(1698年)の地方直しにより竹尾俊常領になり、幕末まで続いた。検地は成瀬五衛門重治によって実施されたが、年代などは不詳である。小名には「二ツ橋」・「新宿」・「町谷」・「川久保」・「下宿」があり、高札場は1ヶ所であった。


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