上吉沢かみきさわ



神社の紹介

  「八剣(やつるぎ)神社」は上吉沢地区の鎮守で、旧称は「八剣明神社」である。祭神は「日本武尊(やまとたけるのみこと)」・「建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)」・「大日霊貴命(おおひるめのむちのみこと)」の三柱(みはしら)で、相殿(あいでん)として神明と春日を祀る。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると上吉沢村の鎮守として「八剣明神社」が記されている。
  創始の年代は不明であるが、伝承によると日本武尊東征の折この地に休息したところ、住民がこれを歓待したので尊は大いに喜ばれたという。この由縁をもって尊を祭神として祀ったと伝えられている。天正19年(1591年)に徳川家康は社領一石五斗を寄進し、また寛永20年(1643年)に中原代官坪井次右衛門が本殿と拝殿を造営した。明治6年(1873年)に村社に列せられた。
  同じ上吉沢地区で「台」の「八坂神社」と「日之宮神社」、「山入」の「八坂神社」、「神戸(現在の中吉沢)」の「八坂神社」を合祀した。現在の上吉沢の台と中吉沢では八坂神社の祭礼と称して、八剣神社とは別に例大祭が行われている。山入でも八坂神社が合祀されたときからお祭りをやってきたといい、八坂神社(てんのうさん)跡は現在では自治会館(集会所)になっている。山入の八坂神社が寄宮されたのは明治30年生まれの話者が子供の頃であったといい、7月8日が命日にあたり、集会所に集まって余興なども行われていたらしい。ちなみに、集会所下側の四つ角に「八坂願主 昭和一三年七月八日 吉岡林蔵」と刻んだ小祠が置かれている。

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八剣神社鳥居
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神社由緒
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燈籠狛犬
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拝殿幣殿・覆殿
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水鉢境内


ヨミヤ

  祭りの前日の午前中に幟立てが行われ、台・山の神・飛谷津・山田屋敷・山入・四十畑・神戸・新宿・宮下・寺前という各部落が班のようなものを構成し、当番で行っていた。竿は神社の境内に、幟は宮総代の家で保管しているという。夜中には宮世話人が当番で、酒を飲みながら神社の境内でオコモリをしていた。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭は旧暦の9月7日となっているが、その後は10月7日であり、現在は10月第1日曜日である。祭りの当日は午前10時頃に神主が祝詞をあげてから、宮世話人が玉串を神殿へ奉納し、お祓いを受ける。宮世話人は神社にとどまり、参拝にやって来る氏子たちを受け付ける。
  昭和25年(1950年)頃までは若い衆達が神社に保管してある丸太を使用して神楽殿(芝居小屋)を作り、その神楽殿で余興として現在の大和市、平塚市内、綾瀬市、厚木市あたりから芝居師を呼んでいた。芝居師はムラの家に泊めてもらったが、決まった家はなかったという。これら余興は若い衆(青年達)が宮世話人から一任されていた。青年達は各家庭からムシロを1、2枚ずつ集め、集める量は部落の戸数によってあらかじめ決められていた。このムシロは芝居小屋の前に敷き、ここに村人や親戚の人などが座って見物した。お祭りには親戚が大勢集まり、夜は芝居を見に行くので昔は泊り掛けで来た。帰りは重箱に寿司を詰めて持たせてやったりしたという。また、昔は祭日におもちゃ売りや食べ物売りなどの露店が軒をつらね、賑わったという。
  祭りが終わると宮世話人だけでハチハライを行ったといい、幟は当番になっている部落の者が後片付けをした。



吉沢地区

  吉沢地区は現在の自治会で「上吉沢」・「中吉沢」・「下吉沢」に別れており、各自治会はさらにいくつかの区に細分されている。このなかで笠神・向田・住宅東・住宅西は、新住者のみからなる区である。中吉沢は江戸時代の上吉沢村に含まれていたが、現在の自治会組織では上吉沢自治会に同等に対応する中吉沢自治会をなしている。
  旧上吉沢村には寺前・宮下・新宿・神戸・台・山ノ神・山田屋敷・飛谷津・山入・四十畑の十集落があったが、平塚市に合併後は寺前・宮下・新宿・神戸の4集落が分かれて中吉沢自治会が組織された。上吉沢村当時から地元では寺前・宮下・新宿・神戸の4集落を総称して中吉沢と呼んでおり、明治39年(1906年)の陸地測量部の地図にも中吉沢の名が記載されている。また、妙覚寺境内に安政5年(1858年)に造立されている延命地蔵の石仏には「中組念仏講中」と記され、合わせて「中吉沢四久保中」の文字も刻まれている。このように古くから吉沢は上・中・下の3つのまとまりに区分して捉えられてきたようである。

吉沢の地域区分(昭和54年)
自治会読み方区毎で祀る神社
上吉沢だい八坂神社
飛谷津とびやつ
山ノ神やまのかみ
山田屋敷やまだやしき
笠神かさがみ
山入やまいり八坂神社
四十畑しじゅうはた
中吉沢宮下八坂神社
寺前
新宿しんじゅく
神戸ごうど
向田
下吉沢大下しも八剣神社
八坂神社
中下しも
大門上うえ
大門下した
下宮下
住宅東・西

※中吉沢はかつて上吉沢に含まれ、上吉沢全体の鎮守は八剣神社である。また、下吉沢の八剣神社は上吉沢の八剣神社とは別のもので、上記4つの八坂神社も全て別のものである。この4つの八坂神社はいずれも八剣神社に合祀され、山入に石祠が残る他は社などは存在しない。

太鼓

  かつては青年が太鼓を叩く櫓を境内に作り、太鼓は「中吉沢」、「台」と「飛谷津」、「山の神」と「山田屋敷」、「山入」と「四十畑」の4カラが出た。練習は当時飛谷津に自治会館がなかったので、台の自治会館で毎晩やった。飛谷津の者も毎晩来た。青年が中心になり、年輩者も好きな人は叩いた。当時青年の役員をしていた古老の話によると、太鼓の革が駄目になると浅草まで革を買いに行ったことがあるという。新しい革は太い麻縄で締めては叩いていくと、少しずつ革が伸びて薄くなり音が良くなる。祭りの前は良い音が出るように調節し、昔は夜を通して朝まで太鼓を叩いたこともあったという。太鼓連はオオド(大太鼓)が1名、コド(小太鼓)が2名の3人1組を1カラといい、太鼓連の各カラにはそれぞれの地域の者が入れ替わり立ち代わり、仲間になって太鼓を叩いたという。
  さらに青年達は風呂桶を担ぎ、お宮に井戸が無かったので水を石油缶などにいれて担ぎ上げ、さらに薪なども持っていって境内で風呂を沸かした。この風呂には芝居師のためのもので、芝居師は役を変えるために一幕終わるごとに風呂に入って化粧を落としたのである。芝居の幕が終わると青年達は直ぐに櫓で太鼓を叩きだし、芝居師が風呂に入るのを待っていたかのような太鼓の競演となる。この時はよその部落の太鼓の音と競い合って、力一杯叩いた。芝居小屋の前で提灯が振られるともうすぐ芝居が始まるという合図だが、太鼓は鳴り止まず、合図をする人が「やめてくれー」というとますます強く叩くほどであった。拍子木がチャキチャキ鳴って幕が開き役者が出てくると、さすがに悪い気がして太鼓を止めた。
  現在は山入と四十畑で結成された「山入四十畑太鼓連」と「上吉沢太鼓連」、そして「中吉沢太鼓連」の車山車3台が揃って巡行する。山入の太鼓は昭和40年(1965年)代後半に作られたもので、集会所でセイネン達が太鼓を叩いたという。



神輿

  昔から神輿が出なかった。



山入・四十畑

  『風土記稿』には上吉沢村の小字の中に「山入前谷津」と「山入向谷津」とあるのが、現在の「山入」と「四十畑」に相当すると思われる。実際のまとまりとしては両区は1つであり、部落のことを決めるのは正月の集会所においてで、山入と四十畑が一緒に八坂神社跡の集会所(正式には自治会館)に集まるのである。近年ではお宮の世話人を両区から各1名ずつ選んでいるが、かつては両区で1人だけであった。
  ここでは15歳になると「若い衆(ワカイシュまたはワケーシュ)」に入ることになっており、毎年4月3日のジ神武天皇さんの祭日に入ったり抜けたりしていた。若い衆には世話人という者がいた。花見とか月見などの仕事をしていたが、大正末から昭和の初め頃になくなったという。25歳になれば「青年(セイネン)」となり、35歳まで加入していた。


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