上吉沢かみきさわ

神社の紹介

  上吉沢の台(延命寺前)にはかつて「八坂神社」があったが、明治時代に村の鎮守である八剣神社へ合祀された。小祠などは残っておらず、神輿だけが台にある神輿蔵に保存されている。10月の第1日曜日には八剣神社の例大祭に参加する。
  八坂神社は上吉沢の四谷戸(ヨヤト)といって「台」・「飛谷津」・「山田屋敷」・「山之神」の4部落と、近年にできた住宅地の「笠神」の計5つの地区で祀られている。主として八坂神社の祭礼に関する4部落(笠神を除く)のつきあいを「ヨヤトツキアイ」という。

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台自治会館飛谷津自治会館
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山田屋敷自治会館山之神青年会館

  台にはかつて自治会館がなく、延命寺の土地を借りて自治会館を建てていたが、とある理由で個人の土地になったため建物を使用できなくなった。そのため、部落の集まりは延命寺の庫裏を借りて行い、新年の顔合わせや念仏講の集まりも延命寺に移した。平成20年(2008年)に新しく台の自治会館が完成した。



例大祭

  昭和35年(1960年)近辺では大祭が4月に行われていたが、その後は7月15日になった。さらに7月15日前後の土曜日あるは日曜日に変わり、現在では7月の第3日曜日になっている。前日の宵宮では山車が町内を巡行する。
  大祭当日は12時30分から式典が始まり、三ノ宮の神職により神事が20分程執り行われる。近年まで式典は石田造園の資材置き場で行っていたが、平成20年(2008年)からは新しく完成した台の自治会館で執り行われるようになった。その後は役員の挨拶があり、お神酒で乾杯をした後、13時頃に万歳三唱で式典が終了する。神輿は一旦、台の自治会館下の道路に移動され、一本締めにより山車と共に出発する。
  一行は台→飛谷津→山田屋敷→山之神→台の順で巡行し、途中の休憩場所は5ヶ所ある。各休憩場所ではスイカやアイス、おにぎりや野菜そして肉類など様々な食べ物が振舞われる
  神輿と山車は18時頃に台の自治会館前に到着し、20分ほど神輿が練った後に渡御が終る。その後は台の自治会館の敷地で直会が行われ、各協力団体は一本締めをしてから上吉沢の関係者によって見送りを受ける。

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式典式次第
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お祓いお神酒で乾杯
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万歳三唱出発前に赤飯を配る
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日の丸
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のしの掲示板甘いスイカ(飛谷津自治会館)
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山田屋敷自治会館で休憩アイスを配る(山之神青年会館)
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直会一本締めで見送る


セイネン

●台
  昔の青年団が昭和30年(1955年)代頃から「吉沢親和会」となった。
  台の地域に根付き祭りや行事などに深く関わってきたのは「青年会」であり、学校を卒業すると入って満40歳になると抜けた。4月3日に青年の花見会があって、この日に入会脱退会を行った。「仲間に入れてもらいます。よろしくお願いします」と酒一升を持って入り、満40歳になった人は「台青年会」と書かれた手あぶり火鉢を記念品に貰って抜けた。この火鉢は次の役員になる人が、平塚の方の瀬戸物屋に行って買ってきた。この日は花見会という名目だが、自治会館でやることが多く、重箱に寿司を入れて持って行き会費で酒を買って飲んだ。
  8月30日と9月30日は青年会の月見会があり、8月が15夜で9月が13夜にあたる。8月は茄子をもいで持って行き、ゆでて醤油を付けて食べた。9月は里芋を掘って煮たり味噌汁に入れたりし、豆腐を買って奴豆腐にして食べた。豆腐は金目の三河屋が売りに来た。月見はどちらもご飯と味噌汁と酒が出た。
  祭りに青年の力は欠かせないもので、地域の2つの祭りである八坂神社と三狐神社の祭礼はいずれも青年会が取り仕切っていた。八坂神社祭礼では神輿を担いだ。また、八剣神社祭礼のときに叩く太鼓は大きな楽しみで、祭りが近づくと毎日自治会館へ集まって太鼓の練習に励んだ。
  台の部落全体で祀る神社に「三狐神社(オシャモッツァンともいう)」があり、9月15日が祭礼であった。青年が各戸から米を5合〜1升集め、神社隣の久永弥三郎家を宿にして小豆飯を作り、お参りに来た人にゴックとして配った。また、おにぎりを握って子供達にも配った。青年達は太鼓を打って遊んだ後に、宿に行って酒を飲んだ。昔は祭りに万歳などの余興を催したこともあった。昭和40年(1965年)代から会場を部落の集会所に移し、会費を出して宴会をした。
  三狐神社の祠の中には棟名札3枚が御神体として祀ってあり、1枚は文字が消えているが、他は部落にある延明寺の住職が書いた安政5年(1858年)のものと、昭和10年(1935年)のものである。棟名札には共に「台久保」とあり、部落のことを「クボ」と呼ぶことが分かる。また、嘉永の年号のある幟などを弥三郎家で預かっていて、幟立てなどの祭りの準備は神社に近い4組がやっていた。
●山ノ神
  かつては15歳になると、正月10日頃(後には正月1日)に酒を一升持って行き、青年会役員に自分を紹介してセイネンに加入させてもらった。15歳から35歳の者がセイネンになっていたが、昭和50年(1975年)代前半は15歳から25歳であった。4月3日の花見と9月15日夜の月見に、山ノ神中の者が青年会館に集まってきた。集会などは現在の青年会館で持ったが、この建物は以前には単に集会所と呼ばれていた。さらに前にはその場所にお堂があってお坊さんがいたといわれ、潰れたので村で買ったという。

囃子

  八坂神社の大祭では台・飛谷津・山の神・山田屋敷で組織される「上吉沢太鼓連」の車山車1台が、神輿と共に巡行する。上吉沢の締太鼓はロープ締めで、豊田中原のロープ締めはここから伝わっている。中吉沢の鈴木政二氏と共に「飛谷津太鼓保存会(当時メンバーは7名)」を結成し、試行錯誤の末に簡易的なロープ締めの工具を発明したのが始まりである。
  締太鼓は3個並び、大胴は1個で1カラの構成となる。笛と鉦はないが、中原・豊田・笠窪から笛の吹き手が応援に来る年もある。現在は盛大に祭りが執り行われているが、上吉沢でも他の部落と同じように、戦争により一時期太鼓が衰退した時期もあったという。
  平成20年(2008年)は石田造園土木前の休憩場所で、神輿の応援に来ている真田万田の担ぎ手がそれぞれ太鼓の披露をした。その後は地元上吉沢の子供達も日頃の練習の成果を披露した。神輿渡御が終った直後には、笛が中原、太鼓を笠窪で担当し、豊田(本宿)の踊りを披露した。

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台自治会館を出発神輿を囃す
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締太鼓は3個並ぶ大胴は後ろで叩く
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笛は中原・豊田・笠窪から応援中原・豊田の叩き手
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笠窪の叩き手真田が披露
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万田が披露上吉沢が披露
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台自治会館に到着中原・豊田・笠窪で披露
囃子


神輿

  八坂神社には大人神輿と子供神輿が1基ずつあり、大人神輿は明治時代の初め頃(戦後という説も)に伊勢原市大山から古い神輿を購入したという説がある。戦前は大人神輿だけだった。神輿のことを「お天王さん」といい、これを担ぐ人を「コシカケ」という。祭りのときは八剣神社からミタマ(御霊)をもらってくるが、お札をミタマの代わりにし、このお札は祭りがおわると燃やしてしまう。
  現在の担ぎ方は「どっこい」だが、昔は伊勢原市三之宮のように「やーとーさっせ」の掛け声で、よたよたと練り歩いたという。畑や田んぼの中にもおかまいなしに入り込み、神輿を頻繁に倒したという。神輿が倒れると蕨手が取れるので、若い衆達がそれを拾っていたという。
  上吉沢は平塚市内の他の地域と交流があり、5団体くらいの神輿の担ぎ手が応援に来る。途中でトラックに載せることもあるが、民家が多い場所では担いで渡御する。最後に台の自治会館に到着すると各協力団体が順番に甚句を唄い神輿を練る。

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大人神輿子供神輿
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子供神輿を移動大人神輿を移動
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台自治会館下へ降ろす一本締め
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台自治会館を出発子供神輿も出発
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子供神輿をトラックに載せる子供達も荷台へ
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大人神輿をトラックに載せる担ぎ手もトラックで移動
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飛谷津自治会館を出発民家前で練る神輿
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山田屋敷自治会館前にて山之神青年会館にて
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石田造園土木前で練る神輿台自治会館前で練る神輿
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三本締めで渡御が終了飾りを取る
掛け声

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